第2話
第2話
頬の下、藁の棘が一本、首筋に刺さっていた。
抜こうと指を伸ばしかけて、止まる。視界の右上、青い半透明の枠。
【ステータス画面 起動中】
(……まだ、ある)
宿の天井板、節穴が三つ。雨漏りの染みが、昨夜見たのと同じ位置にぼんやり浮いている。記憶がゆっくり繋がってきた。煉瓦の裏路地、老婆の濁った瞳、白く弾けた光。──そのあとは、藁布団の繊維くらい曖昧に解けていた。
革靴は土間に投げ出されている。継ぎ目から漏れた泥水が乾いて、底に黒い縁を作っていた。誰かが俺をここまで運んでくれたわけじゃない。たぶん、自分の足で這って戻った。腿の内側が筋肉痛で軋んでいる。それが、その証拠だった。
(夢、じゃないんだな)
指で目を擦った。瞼の裏で銀色の痺れがぱちりと弾けて、また青い枠が浮かぶ。位置はまったく動かない。視線を左へ振っても、右へ流しても、枠は視界の同じ場所に張り付いていた。
「……」
声を出してみる。喉が、起き抜けの咳ひとつでざらりと鳴った。それだけで、青い枠の縁が一瞬、淡く光った気がした。気のせいかもしれない。気のせい、ということにしておきたかった。
階下から、宿の女将がパン焼き竃を叩く音が響いてくる。鉄の蓋を木槌で。鈍い、規則的な音。半年聞いたから、もう自分の心拍と区別がつかない。
藁布団から身を起こす。背中の藁が肩甲骨に張り付いて、剥がれる時にチクチクと音を立てた。視界の青枠は、俺が動いても瞬きをしても、ずっとそこに居る。慌ててもう一度、目を閉じてみた。瞼の裏の暗闇の中にも、薄く、青い線だけが燃え残っている。
(……閉じても、見えるのか)
頭の奥、こめかみの少し下あたりが、痺れていた。痺れというより、何かが腰を据えて居座っているような、鈍い熱。
寝間着の麻シャツの下、肋骨に手を当てる。心拍。速い。けれど、乱れていない。──昨夜、雨の路地で老婆の瞳が光った瞬間より、ずっと落ち着いている。それが、自分でも不思議だった。
「……開け」
声に出して、青い枠に向かって命じた。馬鹿げてる、と頭の隅で思いながら。
枠の縁が、応えるようにふわりと展開した。
【蓮 / 16歳 / 種族:人間】 【冒険者ランク:F】 【HP:11/11】【MP:1/1】 【筋力:1】【敏捷:1】【知力:1】【魔力:1】【運:1】 【スキル:なし】
(……オール1)
ギルドの鑑定水晶が、何度も何度も俺の前で吐き出してきた数字。それが、青い枠の中で同じように並んでいる。半年通って嘲笑のネタにされてきた、あの数字。
ただ──
【封印スキル:99 / 解放可能:1】
それが、ステータス欄の最下段にあった。昨夜、意識を失う寸前に見たものだ。気のせいでも夢でもない。
(封印、スキル、九十九)
口の中で転がしてみる。語感だけが、妙に重い。指先が、自分の意思と関わりなく震えていた。
その時、階下で扉が乱暴に開く音がした。
「蓮! いつまで寝てんだよ、薪が足りねぇ!」
宿の婆さんの怒鳴り声。条件反射で「すぐ行きます」と返した自分の声が、いつもと変わらないことに、ほっとする。視界の青枠は、女将の声に反応して点滅したりはしなかった。外の声には反応しないらしい。
土間に降りて、革靴に足を入れる。継ぎ目の泥がぱきりと割れた。井戸の方角から水音。木戸の隙間から、朝の光が線になって差し込んでくる。──普通の朝だった。あまりに普通すぎて、視界の青枠だけが世界から浮いていた。
「……これ、他人にも見えるのか」
外に出る前に、念のため寝床の脇の手鏡──といっても女将の押し入れから拝借したやつだ──を覗き込んだ。映ったのは寝癖と、痩せこけた頬と、隈の浮いた目。視線の右上に、青い枠は、ない。
(俺の目の中だけ、か)
鏡の中の自分には、青枠は映らなかった。網膜の表側に直接焼き付いているような、そんな見え方。──なら、他人にも見えない。これは、俺だけのものだ。
それを確認した瞬間、肋骨の内側で、何かがゆっくりと熱を持ち始めた。
階段を降りる足音を、自分でも聞いた。一段、二段、三段。妙にしっかりしている。昨日までは、降りるたびに膝が抜けそうになっていた。腹が減りすぎて、貧血で。──今朝は、空腹はある。けれど、立ちくらみはなかった。
「遅ぇんだよ! 雨上がりで湿った薪、選り分けて乾いたの十束、今すぐ井戸端!」
「はい」
婆さんに頭を下げて、裏口から外へ。冷気が首筋に当たる。十一月の朝の冷気。青枠は、首を横に振ってもついてくる。
薪小屋の前に屈んで、湿った樫を脇に避け、乾いた節の通った薪を選り分けていく。樫の表皮はささくれ立ち、爪の間に細かい木屑が食い込む。湿った樫は重く、芯まで雨水を吸って、持ち上げるたびに腕の付け根が小さく軋んだ。乾いた薪は、叩くと乾いた高い音を返す。湿った薪は、鈍く沈んだ音。指先で叩き分けながら、選り分けていく。半年で身についた、数少ない技能のひとつだった。その作業の間、視界の青枠を、もう一度、開いた。
(封印スキル、解放可能:一。──今、選べばいいのか)
指先が震える。頭は、しかし、奇妙なほど冷えていた。
(待て、考えろ)
老婆は、女神だったのか。違うのか。「あなたを見ていました」とは、何を見ていたのか。半年間、皿を洗い、薪を運び、嘲笑に頭を下げてきた俺の何を、見ていたというのか。
考えても、分からない。分かるのは、目の前にある事実だけだ。視界に青い枠がある。封印された九十九のスキルがあり、そのうち一つを今、解放できる。──開けてみないと、それが餌か、毒か、罠か、贈り物か、判断する材料すら手に入らない。
(俺は、十六でこの街に出てきて、半年で何を得た)
母さんの咳の音、家を出る朝の霜柱、銅貨を握りしめた手の汗。半年前の景色は、まだ瞼の裏ではっきりしている。あの時、何かを掴むつもりで街に来た。掴んだものは、ほとんど何もない。
爪の間の獣脂の黒、革靴の継ぎ目から染みた水、銅貨二枚の日当、母さんの解体ナイフ。それで全部だ。失うものは、もう、ほとんどない。
薪を一束、縄で縛った。指の腹の皮が、また切れた。血の滲んだ親指を、麻の前掛けで拭う。麻の繊維が裂け目に染みて、ちりっと痛んだ。冷えた指は、感覚が半分鈍っているくせに、痛覚だけは妙に鋭い。井戸端の水を汲む音が背後で立ち、誰かが鼻歌を歌い始めた。風が薪小屋の屋根板を鳴らし、湿った藁の匂いと、煙突から流れてきた朝の竃の匂いが混ざる。普通の朝の音、普通の朝の匂い。──その普通の中に、自分だけが、青い枠を抱えて屈み込んでいた。
(──やる)
肋骨の奥で、決めた。
声には出さなかった。視界の青枠の【封印スキル:99】の文字に、視線を据える。文字の縁に、淡い金色の光が走った。「解放を、選択しますか」と昨夜と同じ問いが浮かぶ。
選ぶ、と心の中で答えた。
指先で握った縄の感触が、不意に遠くなる。耳の奥で血が脈打つ音だけが、鼓膜の内側に響いていた。
その瞬間──
体の奥、胸骨の裏側、心臓の少し下のあたりが、燃えるように熱くなった。熱、というより、長く凍り付いていた何かが溶け出すような感覚。腕を伝い、指先まで一気に走る。指の先端が、軽く痺れた。喉の奥で、息が一度止まった。膝の裏に、力が抜けるのではなく、逆に張り詰めていく感覚。半年間、貧血で揺らいでいた視界が、嘘みたいに澄む。薪小屋の梁の節目、釘の錆び、藁屑の一本一本まで、輪郭がはっきり立ち上がって見えた。視界の青枠の中で、一行が書き換わった。
【解放スキル:危険感知 (受動) / 半径三十歩以内の悪意を察知】
(……感知、か)
胸の奥に、小さく落胆が落ちた。剣も、炎も、爆発もない。ただ、見えなかったものが、見える、それだけ。派手なものを期待していたわけじゃない。けれど、これが九十九のうちの最初なら──と、考えかけたところで。
肩甲骨の間が、ぞわりと粟立った。
皮膚の表面を、冷たい指で撫でられたような感触。寒気とも違う、はっきりとした方向を持った合図。──背後だ。
(……後ろ)
視線を動かさず、足音だけ意識する。三十歩ほど後方、薪小屋の影。誰かが、息を潜めて立っている。──昨夜、嗤って俺の背を蹴ったクラウスの仲間の、安物の革靴の踵が、湿った地面を擦る音。
【危険感知 / 軽度 / 物理的悪意・低】
青枠が、淡く赤を帯びた。
俺は薪の束を抱え直した。歩調は崩さない。けれど、指の関節は、もう震えていなかった。
──「最弱」のままで、いてやる理由は、もう一つもない。
森の方角で、鴉が一羽、鳴いた。