Novelis
← 目次

封印スキル99 ―最弱と嘲笑われた俺は女神に視られていた―

第1話 第1話

第1話

第1話

「お前に依頼は無理だ」

ギルドのカウンターに張り付いた古いインク染みを、俺──蓮は三秒数えて見つめた。掌の中で銅貨が三枚、汗に湿って張り付いている。受付の男が、俺の差し出した依頼申請書を指先で弾くように突き返してきた。差し戻された羊皮紙の端が、薪ストーブの熱でちりちりと反り返る。その音だけが、馬鹿に大きく聞こえた。

「ステータスオール1。これでFランクのロックウルフ討伐? 笑い話にもならん。村へ帰れ」

(……鼻で笑われるのは、ここに通い始めた半年前から済んでる)

声には出さない。出せば、握った銅貨三枚で買える今夜のパンと粥が、空中に消える。冒険者ギルド「銀の盾」、夕刻の鐘から一刻が過ぎていた。広間には酒と汗と鉄の匂いが混じり合って、天井の梁まで濁っている。

「薪拾い、今日の分まだ余ってるか」 「裏で厨房の婆さんが待ってる。皿が溜まってんだ、行け」

肩を押されてカウンターから退く。背後で、三ヶ月前まで俺の隣で粥をすすっていた同期のリオが、Cランクの隊列を組んで王都街道の地図を覗き込んでいた。新品の革鎧の留め金が、軽い金属音で鳴る。──カチャ、カチャ。それがやけに耳に残った。

リオがふと顔を上げて、俺と目が合った。一瞬、口を開きかけて──また地図に視線を落とした。話しかけていいかどうか、迷った末に止めた。そういう顔だった。三ヶ月前、同じ依頼板の前で「絶対に追いつくよ」と笑っていた男の顔と、もう別のものだった。

(俺は十六でこの街に出てきた。村を救う英雄になるんだ、と母さんにそう言って出た)

受付の脇に置き残された依頼書が目に入る。「ロックウルフ、二頭、銀貨七枚」。半年前、登録した日に噛みしめた、Fランクの最初の一歩。あの日、俺はこのカウンターの前で、自分の手柄でこの紙を獲りに来る日を想像していた。

足元の床板に、誰かのこぼした麦酒が薄く広がっている。壁の依頼掲示板。F級「畑荒らしの猪」の札が、もう三日、誰にも引かれずに吊られている。──俺ですら、引かせてもらえない札が、そこに。

裏口を抜けると、十一月の冷気が首筋を噛んだ。樫の薪束を抱え直す。表皮の棘が手の甲に刺さって、滲んだ血が指の節を伝った。井戸まで三百歩、そこから厨房の勝手口まで往復十二回。日当は銅貨二枚。Eランクのリオが森で一日狩れば銀貨に化ける時代に、俺の一日は薪と皿洗いだけで沈んでいく。

「蓮! 鍋焦げついた、こすれ!」

厨房長のがらがら声に、薪を地面に下ろして駆け込む。鋳鉄の鍋は十二人前。冒険者一行がさっき食い終えた残骸だ。鹿肉と人参と豆。匂いはまだ熱を残していて、それがたまらなく腹に染みた。

木灰を振り、爪を立て、鍋底にこびりついた炭をこすり続ける。指の腹の皮がすり切れるまで。鼻孔の奥に焦げた獣脂の臭いが居座って、舌の根がじわりと苦くなった。

(英雄の手は、もう少し綺麗だと思っていた)

爪の隙間に、黒い縁ができている。母さんが旅立ちの朝に握らせてくれた、鈍色の小さな解体ナイフ。今は宿の藁布団の下に隠してある。柄に「蓮」と彫られた、それだけが、この街での俺の所有物だった。

「おい最弱、今日も皿か?」

通り土間の向こうから、聞き慣れた嘲笑。Eに昇格して三週間のクラウスが、仲間二人を連れて立っていた。

「お前、いつまで雑用してんだよ。村に帰れって、誰か言ってやれって」 「先輩、いいんですか。最弱に仕事取られたら困るのは先輩じゃ?」 「違いねぇ。それより最弱、麦酒の樽もそろそろ運べよ。一人で持てるか? 持てねぇならEランク呼んでやろうか」

三人で、また笑った。火に落ちた脂が爆ぜるみたいな、乾いた笑いだった。仲間の一人が手近の皿をひとつ取り上げ、わざと床に落とした。陶の割れる音が厨房に響いて、厨房長が舌打ちをした。

「片付けとけ、最弱」

クラウスが追い打ちで、俺の背中を軽く蹴る。

(返事をすれば、また皿を蹴られる)

俺は鍋に視線を落として、木灰を握り直す。指の関節が白くなるまで握り、もう一度、鍋底をこすった。獣脂の焦げが爪先で薄く剥がれて、灰の中に落ちる。

「お、ナイフ仕舞ってる場所あるんだろ。そろそろ売って、馬車賃にしろよ。村まで送ってやらないけど」

クラウスがそう言って、土間に唾を吐いた。革靴の踵で踏みにじって、笑いながら厨房を出ていく。

俺は、鍋を見ていた。灰に埋もれた焦げ目の輪郭が、ぼやけて見えた。鼻の奥が痛い。涙が出ているのか、獣脂の臭いに目がやられたのか、自分でも分からなかった。

──分からないことに、しておいた。

鍋を磨き終えて表に出た頃には、日が落ちかけていた。厨房長は「明日も来い」とも言わず、銅貨二枚を俺の手に投げてよこした。受け取った手の上で、銅貨と銅貨が当たって低い音を立てる。指先がまだ獣脂で粘ついていて、それが、馬鹿に冷たかった。

宿へ向かう道は、雨だった。十一月の冷たい雨。革靴の継ぎ目から水が染みて、足指の間がふやけて痛む。明日の朝食用にと、パン屋の閉店間際で三日落ちのライ麦パンを一斤、銅貨一枚で買った。残り一枚。

(明日も、薪拾いと皿洗い)

宿までの近道、商人通りの裏路地に入る。煉瓦の壁に挟まれた、肩幅二つ分の一本道。足元の水溜まりが、俺の輪郭をぐにゃりと歪ませた。──と、水溜まりの奥に、人の足が見えた。

ぼろ布をかぶった老婆が、煉瓦壁に背を預けて座り込んでいた。雨でひっつめた白髪が額に張り付き、唇が紫色になって震えている。痩せた首筋の脈が、辻灯籠の橙色の光でかろうじて見えるほど、細く、浅く打っていた。

(衛兵を呼ぶか。──呼んでも、夜更けに浮浪人を運んでくれる衛兵はいない)

足が止まった。雨粒が、油紙に包んだパンを叩く。ぱた、ぱた、と固い音。三日落ちのライ麦パン、銅貨一枚分。──明日の朝食。喉が鳴った。今朝から、薪拾いの賃金で買った黒パンの欠片しか口に入れていない。腹が、固く、絞られるように鳴る。

老婆が目を開けた。濁った薄青の瞳が俺を捕らえて、それから視線が俺の手元の包みに落ちた。すぐに、逸らされた。何も言わないまま、震える喉が唾を飲み込む音だけが、雨音の隙間に小さく挟まった。

俺はしばらく、その喉仏を見ていた。

雨脚が強まった。煉瓦の継ぎ目から水の筋が引いて、老婆の足元の溝に集まり、彼女の靴底を浸している。明日の朝、宿の藁布団の上で、このパンを齧る自分の姿が見えた。粥代の銅貨一枚で、薄い湯のような朝粥を一杯。それで一日を始めて、薪を抱えて、鍋を擦る──ずっと、それを続けてきた。それを、これからも続けるのか?

(……ああ、もう)

油紙を解いた。固いパンを半分にちぎろうとして、やめた。こいつには、たぶん半分でも噛む力が残ってない。一斤丸ごと、老婆の膝の上に置いた。

「ちぎって、口で溶かしてから飲んでください。喉に詰めたら、そこで終わりだから」

声が掠れた。もう一言、何か付け加えようとして、何も思いつかなかった。「ご無事で」も「神のご加護を」も、俺が口にする資格はない気がした。だから、それだけを言った。

老婆の節くれだった指が、パンの皮にゆっくり爪を立てた。礼の言葉はなかった。代わりに、もう一度、俺を見上げて──

その瞳の奥が、白く、光った。

雨音が、消えた。

煉瓦壁が、辻灯籠が、老婆の輪郭が、ぜんぶ白い乳のような光に溶けていく。膝が地面に落ちる感覚すらない。落ちた、と認識した瞬間にはもう、瞼の裏で、女の声が響いていた。

『──あなたを、見ていました』

水底から響くような、それでいて耳の奥にひたりと触れてくる声。問い返そうとした唇が動かない。意識の縁が銀色に痺れて、ゆっくりと薄れていく。

(女神、なのか。それとも──)

最後に視界の片隅、滲んだ視野の右上に、半透明の青い枠が一つ、灯火のように灯った。

【ステータス画面 起動】 【封印スキル:99 検出】 【解放を、選択しますか──】

(……何だ、これは)

答えるより先に、意識は雨音の底へ落ちていった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ