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Eランク鑑定士の静かな追放

第2話 第2話

第2話

第2話

カイルは雪の中で、五つ数えた。

天幕の灯りに揺れる影は、二つのまま動かない。レオンの肩幅と、ミラの細い首筋。声は届かない。届いてはいけない、と腕の中の刃が、もう一度ことりと鳴った。

──戻ろう。

爪先を返した瞬間、隊舎の方角からフォルクの口笛が短く鳴った。誰かの足音を察知した時の、あの猫のような合図。カイルは反射で柱の影に身を寄せ、それから自分の動きを笑いそうになった。隠れる理由などない。雑用係が聖剣を抱えて立っているだけだ。

──ただ、抱えているのが、贋物の聖剣だというだけで。

雪を踏む音を殺し、隊舎の裏口へ回る。蝋燭の油の匂いと、汗で湿った革の臭いが、扉を開けた途端に鼻先を打った。誰もいない。装備の山は、カイルが仕分けたままの順序で並んでいる。

長机の上に、布で包み直した聖剣を置いた。布越しでも、指先が冷える。本物の聖鋼ならこんな冷え方はしない、と「なんとなく」が告げる。鋼は鋼の温度で、安価な合金は安価な合金の温度で、人の手のひらを裏切る。

カイルは長椅子に腰を下ろし、両手で顔を擦った。掌に、油と鉄錆と、ほんのわずかに鉛の苦い匂いが残っていた。

──伝えなければ。

頭の中で台詞を組み立てる。「レオン、聖剣の鍔の内側に継ぎ目が」。そこまで言えば、聖剣を抜かせてもらえるだろうか。抜いてみせて、蝋燭の火を近づけて、継ぎ目をなぞらせて。

それで、レオンは何と言うだろう。

カイルは三度まばたきをして、三度とも同じ顔を見た。鼻で笑う、あの顔だった。

朝の点呼は、まだ夜の名残を残した青の中で行われた。

雪はやみ、隊舎前の広場には薄く積もった粉雪が、五人分の足跡を待っていた。カイルは一番に出て、その雪を踏まずに済む位置に荷馬車を寄せた。馬の鼻息が白く立つ。

「レオン」

声を低くして、リーダーの背に呼びかける。レオンは聖剣の革帯を腰に締め直しているところだった。

「なんだ、雑用係。出立前にぐずるな」

「聖剣のことです。鍔の内側に──」

「鍔が、どうした」

「継ぎ目が、走っています。一塊の鋼ではなく、つまり」

レオンの手が止まった。一拍。それから、聖剣の柄頭を掌でぱん、と打って笑った。

「お前、何を言ってる」

「贋作の可能性が、あります」

口に出してしまった。「可能性」と濁したが、もう一度なぞった指先は、はっきりと告げていた。贋作だ、と。

レオンの笑い声が、雪の広場に短く跳ねた。それから、聖剣を鞘ごと抜いて、目の前に突き出してきた。

「見ろ。任命式で大司教が祝福した剣だぞ。王家が、教会が、大陸最高の鑑定士団が、本物だと裏書きした剣だ。──それを、Eランクの雑用係が、贋物だと?」

「鍔の、内側を」

「いいから一度、自分の身分を口にしてみろ」

「……Eランク、識別、です」

「そうだ。──分かったか」

レオンは聖剣を鞘に戻し、腰に下げ直した。革帯の留め具がカチリと鳴る。その音が、カイルの胸の奥でも、同じ高さで鳴った。

「カイル」

横から、ミラの声がした。彼女は朝の祈りを終えたばかりで、薄荷と乳香の香が雪の冷気に滲んでいた。手袋を外し、カイルの手の甲にそっと触れる。指先は冷たく、けれど、その冷たさには戸惑いの形があった。

「気のせいでは、ないかしら」

「……」

「あなた、昨日もずっと装備を直していたでしょう。目が疲れているのよ。継ぎ目のように見えたのは、刀身に映った蝋燭の芯か、あるいは、鞘の縫い目の影か」

「鞘ではなく、鍔の」

「ね、カイル」

ミラは微笑んだ。祈りの笑みだった。教会で病人の枕元に向ける、あの揺るがない柔らかさで、カイルの手の甲を二度撫でた。

「私が祝福を重ねた剣よ。聖女の祈りが通る剣に、贋物が混じることはない。──そう、信じて」

カイルは口を開きかけ、閉じた。掌の上で、ミラの指が、ほんの一瞬、震えたような気がした。気のせいだ、と頭の隅で誰かが囁く。気のせい。気のせい。気のせい。

「……分かりました」

「ありがとう」

ミラは手を引き、外套の襟を整えて、レオンの方へ歩いていった。すれ違いざま、ガイがカイルの肩を一度叩いた。慰めではなく、馬車の方へ行け、という合図だった。

馬車が動き出す。隊列の先頭、レオンが聖剣を見せびらかすように腰で揺らしている。フォルクが横を歩きながら、こちらに視線を投げてきた。一度。すぐ逸らす。けれど、その目は、明らかに何かを聞いていた目だった。

──レオンとカイルの会話を。

カイルは手綱の革を、指の腹で一度だけ強く擦った。革は冷えていて、わずかに血の匂いがした。昨日、ガイが第五層で擦りむいた手で握った跡が、まだ抜けていない。

街道の最初の分岐で、ミラが御者台の横に並んだ。馬の鼻先に手をかざし、低く祈りを唱える。馬がぶるりと頭を振って、足を速めた。

「カイル」

声は、ささやきだった。

「さっきのこと、誰にも言わないで」

「……はい」

「お願い」

短い言葉だった。けれど、その「お願い」の語尾が、ほんのわずかに、震えていた。

カイルはミラの横顔を見ない。雪の街道の先、レオンの背中だけを見ていた。

夜営は、街道沿いの古い狩人小屋を使った。

雪は再び降り始め、煙突から立ち昇る煙を、白い綿で押しつぶすように落としてくる。隊員たちは順に火に当たり、干し肉と黒パンを噛み、毛布を被って横になった。カイルは最後だ。鍋を洗い、薪を補充し、馬の足元に湯気の立つ布を巻く。指がかじかんで、結び目を二度、結び直した。

小屋の裏に薪を積んだとき、足元の雪に、二つの足跡を見つけた。

一つは大きく、踵が深く沈んでいる。レオンの靴底だ。もう一つは、細い。ミラの旅靴だった。二つの足跡は、小屋の裏手から、雪原の方へ伸びていた。

──寝ているはずの時刻に。

カイルは薪を地面に置いた。置く音を、雪が呑み込んだ。

足跡を辿る。三十歩ほど先、岩の影に、二つの背中があった。風下に立っているのは、無意識ではない。声を、小屋の方へ流さないためだ。カイルは岩の反対側、風上の方に身を伏せた。雪が頬を、針で刺すように撫でていった。

「──だから、今夜のうちに決めておきたいんだ」

レオンの声だった。低く、けれど苛立ちを抑えきれていない。

「あいつが、剣のことに気づいた」

「ええ」

ミラの声は、祈りのときの柔らかさを、すでに脱いでいた。

「思ったより、早かったわ」

「なんで気づきやがった。Eランクだぞ」

「Eランクの判定は、五年前のものよ」

「……」

「あの子の眼は、たぶん、最初から私たちと違う。ずっと黙っていただけ」

雪が一枚、カイルの首筋に落ちた。冷たい、というより、痛い、という感覚で、皮膚に貼りついた。

「で、どうする」

「第七層に、連れて行ってはいけない」

「は?」

「あの眼が、最深部で何を見るか、分からない。剣のことだけならまだしも──私の祝福のことまで、見抜かれたら」

ミラの声が、初めて少し早口になった。

「だから、出立前に、切る。明日の夜でいい」

「切るって、どう切るんだ」

「あなたが、いつもの調子で。『呪われた偽鑑定士』とでも。みんなの前で。私は、悲しんで止める。涙を見せれば、隊の総意になるわ」

カイルは、息を吐いていない自分に気づいた。吸ってもいなかった。胸の中で、空気が、止まったまま固まっていた。

「装備と報酬は、当然、剥ぐ」

「当然」

「雪の街道に放り出して、それで終わりだ」

「あの子の眼は、惜しいけれどね」

ミラの声が、ふっと、ため息のように細くなった。惜しい、と言ったその語尾には、惜しさの影もなかった。

レオンが鼻で笑った。「お前、たまに怖いことを言うな」

「祝福を重ねた剣を、贋物だと言わせない為よ」

「お前の祝福、本当に効いてんのか」

「効いて、いるように見えればいいの」

短い沈黙。雪の落ちる音だけが、岩の表面を細かく叩いた。

カイルはゆっくり、本当にゆっくり、岩から身を引いた。足跡を残さないために、自分の踏んできた跡をそのまま辿って戻る。掌の中で、薪の樹皮が、いつの間にか折れていた。折れた断面が、指の腹に食い込んでいた。痛みは、後から来た。

小屋に戻ると、ガイが寝返りを打って唸った。フォルクは仰向けで、目を開けたまま天井を見ていた。視線が一度、カイルの足元の雪に落ち、それからすぐに天井へ戻った。何も言わなかった。

カイルは自分の毛布を引き寄せ、隅に丸まった。

聖剣は、レオンの枕元に立てかけられている。布越しでも分かる。あの剣は、明日も、明後日も、第七層まで彼を運び、そして──折れる。

カイルは目を閉じない。

腕の中で、布の包みが鳴ったあの音を、もう一度、耳の奥で再生する。ことり。安価な合金の、軽い音だった。

──明日の夜、追放される。

その一行を、カイルは胸の中で短く書きつけた。書きつけたきり、付け足す言葉は、何もなかった。ただ、ひとつだけ。

雪の街道に放り出されたら、王都の鑑定協会の門まで、歩こう。

蝋燭の芯が、小屋の隅で、じじ、と鳴った。

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