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Eランク鑑定士の静かな追放

第1話 第1話

第1話

第1話

宝箱の蝶番から、鉄錆の臭いがした。

カイルは指先で蓋の縁を一度だけ撫で、小さく息を吐いた。第十四階梯ダンジョン「鴉の喉」、最奥の小部屋。湿気が肌に貼りつき、ランプの油の匂いと、剣を握る五人分の汗の臭いが、狭い空気の中で混ざり合っている。

「待ってください、レオン」

声が低くなる。剣を抜きかけたリーダーの腕を、カイルは横から押さえた。

「右上の隅、毒針です。三日前に油を差したばかりの音がしてる」

「……またそれか、雑用係。お前の勘当ては毎度大袈裟なんだよ」

レオンは一瞬だけ動きを止め、それから鼻で笑った。聖剣の柄を握り直し、蓋を勢いよく蹴り上げる。鈍い金属音。蓋の裏で何かが弾けた──カチリ。

三本の細針が宙を切って、ちょうどさっきまでレオンが屈んでいた位置を貫いた。

沈黙。

「……まあ、運がよかったな」

レオンは聖剣の鞘で針をかき集め、肩越しに放り捨てた。礼の一言もない。盗賊役のフォルクが口笛を吹き、聖女ミラが祈るように胸の前で手を合わせている。

カイルはそれを見ていなかった。蓋の内側に貼られた羊皮紙の切れ端──毒の調合表らしき殴り書き──を指で挟み、布袋に仕舞う。後で読む。読めば、誰がこの罠を仕掛けたかまで分かるだろう。

「目ぇだけはいいよなあ、お前」

戦士ガイが背後から低く笑う。揶揄でも称賛でもない、ただの感想だった。

「目だけ、ですよ」

カイルは短く返し、布袋を腰に括りつける。──目だけ。本当に、目だけだろうか。一瞬よぎった疑問を、彼はすぐに頭の隅へ押し戻した。そう思ってしまうこと自体が、すでに「普通ではない」のだと、彼はまだ知らない。

「カイル、装備の山はお前が仕分けろ。明日は古代遺跡だ。もたつくなよ」

地上に戻った隊舎で、レオンが顎をしゃくる。古代遺跡──第七階梯まで潜るという王国直々の依頼。報酬は金貨二百枚と王家の紋章入りの勲章。白銀の翼は十二日前に受注し、明朝には出立する。

カイルの取り分は、きっとまた、雑用手当の銀貨三枚だ。

「分かりました」

短く返し、彼は隊舎の隅に積まれた装備の山に屈み込んだ。

革鎧の縫い目を指で辿る。糸の張りで、ガイの体格に合わせ直された痕がある。腰帯の留め金──これは前回ガイが第五層で右腰を打って曲げたものだ。直しておかないと夜半に紐がほどける。針と糸を取り出して、カイルは黙って縫い目を返した。指先に伝わる革の冷たさ、油を吸って黒ずんだ繊維の感触、それだけが今の彼にとっての世界の輪郭だった。蝋燭の芯がじじ、と低く鳴る。柱の隙間から忍び込む夜気が、汗ばんだうなじをひと撫でして抜けていった。

「……あんた、よくそんな細かいの見てんなあ」

通りすがりに盗賊フォルクが声をかけてくる。茶化す響き。けれど目だけは、装備の山ではなくカイルの手元を追っていた。

「見てるだけです。直してるのはガイさんの腰帯だから」

「ガイには黙っとくよ。どうせ礼は言わねえ」

フォルクは笑い、そのまま離れていった。床板を踏む足音が遠ざかっていく。普段は猫のように音を立てない男だ。──わざと、聞こえる足音で歩いている。なぜ、と問う前に、カイルはその違和感もまた頭の隅へ押し込んだ。考えることが多すぎる夜は、考えないことを覚えなければ眠れない。

薬草袋を広げる。見ただけで分類できる。──ピアル草、葉脈に薄い斑。霜の夜に摘んだもので、解毒効果はやや弱い。マンドラの根、断面が黒ずんでいる。三日以上経っており、煎じても効きは半減。乾かしたウェルミの花弁は、押すと指の腹に粉がつく。湿気を吸い始めている証拠で、明日の朝までに別布に移し替えなければ、せっかくの止血効果が抜けてしまう。隊の薬包には、効きの強い順から番号を振っておく。第七層では迷っている時間が命取りになる。

そう、すべて「なんとなく」だ。

カイルはそう思っている。

師に習ったわけでもなく、文献を漁ったわけでもない。鑑定協会の試験では「Eランク・微弱識別」と判定された。五年前のことだった。以来、誰にも何も聞かれず、誰にも何も期待されず、ただ装備と荷物の合間で、彼は黙々と「なんとなく」を積み重ねてきた。

──気のせいだ。気のせいに決まっている。

そう自分に言い聞かせるのも、もう癖になっていた。胸の奥でその言葉を唱えるたび、ほんの少しだけ呼吸が浅くなる。気のせいだ、と言い聞かせる回数が、年を追うごとに増えているのも、彼は気づいていながら、見ないふりを続けていた。

「カイル」

背後から、柔らかな声がかかる。聖女ミラだった。明日の出立に備え、白い修道服の上に旅装の外套を羽織っている。薄荷と乳香を混ぜたような、彼女のいつもの香が、装備の山に染みた汗の臭いをそっと押しのけて漂ってきた。

「明日もお願いね。あなたが居てくれるから、いつも荷物が綺麗に整っているのよ」

「……どうも」

「気を悪くしないでね。レオンも、本当はあなたを頼りにしているのよ」

カイルは答えない。針を運ぶ手を止めずに、ただ小さく頷いた。ミラは少し迷ったように立ち止まり、何か言いかけて、結局何も言わずに立ち去った。外套の裾が床を擦る音、それから、ためらいの混じった半歩。一度振り返る気配。けれど振り返らなかった気配。

隊舎の扉が閉まる。冷たい風が一筋、装備の山を撫でていく。

最後に残ったのは、白い布で巻かれた長物だった。

レオンの聖剣《白銀》。

伝承によれば、初代勇者が魔王の心臓を貫いた一振り。代々王国の正勇者にのみ授けられ、レオンが先月の任命式でようやく手にしたばかりの、白銀の翼の象徴だ。

明日の遠征のために、刀身の手入れが必要だった。

カイルは布を解いた。月光のように冷えた刀身が、隊舎の蝋燭の火を映して立ち上がる。

──綺麗だ。

そう思った瞬間、指先に、ほんのわずかな違和感が走った。

刀身の根元、鍔の内側。

そこに、髪一筋ほどの細さで、溶接の継ぎ目が走っている。

カイルの呼吸が、止まった。

神器に継ぎ目があるはずがない。鍛え抜かれた一塊の鋼であるはずの、聖剣に。

指先で、もう一度なぞる。確かにあった。蝋燭をわずかに近づけると、火の粒が継ぎ目に沿ってにじみ、ほんの一瞬、鋼ではない何か──鉛か、安価な合金の濁った銀色が、薄く透けて見えた気がした。鼻先をかすめる金属の匂いも、本物の聖鋼とは違う。古い貨幣を握った手のひらに残る、あの安っぽい鉄錆の名残に近かった。

ためらいながら、彼は柄を握り直した。「なんとなく」ではなく、初めて意識して、刀身の奥を覗き込もうとする。

途端、視界の隅に、文字の影が浮かんだ。読み切る前に、目を逸らす。逸らさずにはいられなかった。──読んではいけない。本能のどこかが、そう告げていた。

冷えた汗が、背中を伝う。

聖剣だと、誰もが信じている。レオンも、ミラも、王国も、明日この剣で古代遺跡の最深部へ突入する五人全員が。

握った柄が、わずかに軋んだ。

「……」

声にならなかった。喉の奥で、ひとつ、唾を飲み下す音だけが、自分の耳に妙に大きく届いた。

毒針も、薬草も、装備の修繕箇所も、全部、自分が見ていた「なんとなく」は、たぶん最初から、こうだったのだ。

カイルは慎重に、聖剣を布で包み直した。指の震えを止めるのに、二度、巻き直さなければならなかった。

隊舎の窓に映る自分の顔は、いつもの雑用係の顔だった。痩せて、目元の隈が濃く、髪はもう三月も切っていない。

──伝えなければ。明日、出立前に、レオンに。

そう思いながら、彼はもう、信じてもらえないかもしれないと、半ばどこかで知っていた。Eランクの雑用係が「聖剣は贋物だ」と告げた瞬間、レオンの顔に浮かぶであろう表情を、カイルは三度、まばたきの裏で予習した。三度とも、同じ嘲笑だった。

布で包んだ聖剣を抱え、カイルは隊舎の外に出た。

外は、雪が舞い始めていた。

通りの向こう、隊長用の天幕の灯りに、二つの影が映っている。レオンと、ミラ。声は届かない。ただ、何かを密かに語り合う気配だけが、雪の上を滑ってくる。

カイルは天幕の手前で、足を止めた。

風で雪が一枚、頬を撫でて落ちる。

腕の中で、贋作の刃が、ことり、と鳴った。

──明日、第七階梯では、折れる。

その一言だけを、まだ誰にも告げないまま、彼は雪の中に立ち尽くしていた。

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