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最弱烙印の規格外、最速で頂へ

第2話 第2話

第2話

第2話

ぱき、という音のあとに、夜の森は逆に静まった。 獣の身じろぎでも、風に折れる枝でもない。重い体重が、湿った腐葉土の上で一度沈み、それきり動かずに気配だけを残した。エルドは鞘の柄に指をかけたまま、振り返らなかった。父の短剣の柄に巻かれた皮紐の擦り切れに、汗で湿った親指の腹が触れている。彫り込まれた古い文字の溝に、夜気の冷たい湿りが薄く溜まり、そこだけが妙に体温に近かった。

(……一人じゃない)

息を、鎖骨のあたりで止めた。 左の梢で、夜鳥が一声鳴き、そのあと、ぱたりと黙る。獣道の奥でも、虫の鈴音が一段、二段と絞られていく。森のすべてが、エルドの背後にいる「それ」を意識して、静かに立ち止まったように感じられた。

足を、半歩だけ右にずらした。月明かりの斑が頬を撫で、汗が眉間からこめかみへ滑り落ちる。胸の奥は熱いのに、首筋には別の冷たさが這っていた。観察されている、と思った。狙われているのとは違う。骨の数を数えられているような、そういう静かな圧だった。

百を、心の中で数えた。 百二十を超えたあたりで、気配は引いた。樫の幹を一枚隔てた向こうから、薄い水を引き上げるような速度で、それは梢の奥へ後退していった。一枚、葉が落ちた。風はないのに、エルドの足元に、ひらり、と。掌に乗せると、葉脈は朝露を浴びる前のように乾いていた。

エルドは、ようやく振り向いた。 そこには、誰もいなかった。月の差す細い光の柱が、藪の上を斜めに撫でて、虚ろに揺れているだけだった。

***

夜が明けても、父シャルクは何も訊かなかった。 鍛冶炉の火を起こし、ふいごの調子を見て、息子に薪と水を言いつける──いつも通りの、いつもの一日が、いつものように始まった。

「エルド」 背中越しに、シャルクが呼んだ。革前掛けの結び目を確かめながら、視線を上げずに。 「今日の薪は、五十束だ」

「五十……?」 普段の三十束に、二十が積まれた数だった。

「ヨルグの父親が、昨夜のうちに頼んできた。村の祭り櫓の支柱を組むのに、乾いた割り薪が要るらしい」 シャルクは鎚を持ち上げて、軽く一度、宙で振った。「断る理由がなかった」

「……わかった」

(本当に頼まれたのは、薪じゃないだろう)

胸の奥でそう呟いて、エルドは斧を取りに外へ出た。 工房の脇、薪割り台の裏手に、丸太が積み上がっていた。普段の倍を超える量で、いちばん下には湿気を吸った古い樫まで混ざっている。誰の手で運ばれたものか、足跡は乾いて薄かったが、靴底の形には、見覚えがあった。

「最弱、おはよう」 案の定、井戸のほうからヨルグが現れた。後ろにハンス、それから三人目の影──羊飼いの息子、トビアスもいる。「父さんから聞いただろ。今日中に、全部、頼むぜ」

「祭り櫓のためだろ」 「ああ、そうとも」 ヨルグは丸太の山を顎でしゃくった。「五十束じゃ足りねえな。ま、あと一桶、二桶、水も汲んでもらうかもしれん。お前、井戸の縄の握り方は上手いって、メリアが褒めてたぞ」

ハンスとトビアスが、犬みたいに低く笑った。

エルドは答えず、斧を構えた。 最初の一振りで、丸太の節が斧刃を弾いた。手首から肘にかけて鈍い痺れが走り、二振り目でようやく、樫の繊維が割れる、ぱきっという音が腹に響いた。手の皮の薄いところに、すでに最初の水ぶくれが膨らみ始めている。掌の中心で、皮紐の代わりに斧の柄の樫材が、ざらりと湿気を吸い始めていた。

***

昼に近づくころ、井戸のほうから足音が三つ。今度はメリアが先に立っていた。

「エルド」 彼女は薄藤色の裾を持ち上げ、薪割り台の手前で立ち止まった。 「水。私の家の桶、二つ。井戸が混んでいたから、午後でいいわ」

「メリアの家には、使用人がいるはずだ」 ヨルグが横から、わざとらしく口を挟んだ。「最弱に頼まなくたって」

「そうね。でも──」 メリアは栗色の髪を耳にかけ、わずかに目を伏せた。睫毛の影が、白い頬に薄く落ちる。 「あなたは、石を運んでいると、いちばん落ち着くでしょう。針が振り切れたあとは、特に」

桶の縄を握る、という言葉ではなかった。 "落ち着くでしょう"。その一言が、エルドの肋骨の内側で、昨夜とは違う場所に、別の傷を作った。同情と、見下しの、ちょうど境界線のあたりだった。

「わかった」 エルドは斧を一度、薪割り台に立てかけた。 「午後に、運ぶ」

メリアは答えず、ドレスの裾を翻して去った。一瞬だけ、彼女の視線がエルドの掌──まだ皮の破れていない、しかし、もう赤く擦れ始めた手のひら──に落ちたのを、エルドは見逃さなかった。

***

日が傾くまで、丸太は減り続けた。 五十束を割り終え、井戸を七往復した。最後の一桶を運び終えたとき、シャツは汗と井戸水で背中まで貼りつき、両の掌は薄く血が滲んでいた。皮の破れた指の付け根に、樫の小さな棘が二本、刺さったまま残っていた。

夕暮れ、シャルクが工房の戸口に立った。 「飯を食え」 それだけ言って、息子の手の傷には目もくれなかった──ふりをしながら、卓に置いたパンを、いつもより厚く切っていた。

***

夜。 エルドは、また森へ入った。

昨夜よりも、深くまで。 祠の脇道を逸れ、樫の大木が三本並んだ広場のような場所まで足を進めた。月は昨夜より痩せて、梢の隙間から落ちる光は、細い針というより、糸のように頼りなかった。

短剣を抜いた。 柄に巻かれた皮紐の擦り切れに、午後にできた手のひらの傷が当たって沁みる。彫られた古い文字の溝が、今日はやけにはっきりと、指先に伝わってきた。

ひゅう。 一振り目。 昨夜よりも、振りの起こりが小さくなった。肩を回して大きく振り上げる癖を、二振り目で殺す。父が鎚を打ち下ろすときの、あの最小限の動きを、思い出しながら。肘を畳む。手首を返す。腰の落としどころを、靴の裏で探る。短剣の重みが、腕の筋ではなく、背骨の根に乗る瞬間を、待つ。

ひゅう、ひゅう。

三振り、五振り、十振り。呼吸が、振りの起こりに合わなくなる前に、鼻から短く吸って、口から細く吐いた。胸郭の奥で、心臓が一拍だけ余分に鳴る。それを宥めるようにして、もう一度、短剣を振った。掌の血と、夜気の湿りと、皮紐の塩気が混じって、柄の匂いが、昨夜とは少しだけ違うものになっていた。

百を超えたあたりで、また、来た。 昨夜と同じ位置──樫の幹を二枚隔てた向こう、北側の藪の奥。今夜は気配の輪郭が、昨夜よりも、わずかに濃い。骨の数を数えるような、あの静かな圧。ただし、今夜のそれには、わずかに、温度のようなものが混じっていた。憎しみではない。憐れみでもない。──興味、と呼ぶには、まだ、湿りすぎている、何か。

エルドは、振るのをやめなかった。 振りながら、声を、できるだけ低く保って、夜気の中へ落とした。

「昨日も、いた」

返事はなかった。 けれども、藪の奥で、布の擦れる音が、ほんの一瞬、確かにした。重い外套の裾が、湿った下草を撫でたような音だった。

「俺を、どうかするつもりなら──早いほうがいい」

短剣を、もう一度振り下ろす。 気配は、退かなかった。けれども、近づきもしなかった。 試されている。エルドはそう思った。狙われているのではなく、量られている。針が振り切れた、あの音を、誰かが、まだ覚えている。

風が一度、鳴った。 枝のあいだで、短く。それを合図に、気配は──ふっと、消えた。

エルドは短剣を下ろし、肩で息をした。掌の傷の血が、皮紐に薄く染みて、指の付け根を温かく濡らしている。広場の中央で、彼はもう一度、夜の藪のほうへ目を向けた。

そこにはもう、何もいなかった。けれども、今夜の足跡が、明日の朝には乾いた土のうえに、ひと組、残っているはずだ。エルドは静かに、そう確信した。

***

明け方、村の入り口まで戻ったとき、エルドは見慣れぬ馬を見た。 栗毛の若い馬で、村の宿屋の柱に、固く繋がれていた。鞍には、革に焼き印で押された記章が一つ。剣と天秤を組み合わせた、見覚えのある図柄。

(……ギルドの)

宿屋の窓辺に、ひと影が立っていた。外套の裾の重さに見覚えがあるような、ないような──朝靄ごしには、それさえ判然としない。

エルドは短剣の柄に、もう一度、指をかけた。 皮紐の下の古い文字が、夜の名残の冷たさを、まだ、わずかに溜めていた。

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