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最弱烙印の規格外、最速で頂へ

第1話 第1話

第1話

第1話

水晶玉の表面に、うっすらと汗がにじんでいた。 測定台に置かれた魔力計の針は、エルドの掌が触れた瞬間、跳ねるように時計回りへ走り、目盛り盤の最右へ──いや、その先まで突き抜けて、針止めの真鍮にぶつかって甲高い音を鳴らした。

ヴォン、と。 神殿の薄暗がりに、青銅の鐘を弾いたような余韻が残った。

「振り切れたぞ」 測定官の老人が眼鏡を押し上げて、そう呟いた。

辺境の村ハーリン、第三年度の魔力測定の儀。集まった大人たちは三十人ほど。誰もが一瞬、装置の故障を疑い、次に針の戻り位置を見て、笑った。

針は元の位置──「ゼロ」より下、目盛りに刻まれていない零下の領域を指して、止まっていた。

「見ろ、エルドの坊主だ。針が逆に振り切れちまった」 「測定不能ってやつだろう。十二歳でこんなの、村始まって以来だ」 「最弱どころか、魔力すらありゃしねえ」

笑い声が、さざ波のように石壁を撫でて広がる。鍛冶炉の煤と、祈祷壇に焚かれた松脂の煙が、エルドの鼻の奥でひりついた。鉄の味が舌の付け根に残るのは、唇の内側を噛んでしまったからだろう。喉の奥でひりつく松脂の苦みが、鼻腔の奥から眉間のあたりまで、じわりと這いのぼってくる。

ジリ、と。 測定台に置いた手の下で、水晶玉の縁が一瞬だけ、爪先ほどの白い光を弾いた──ように、エルドには見えた。けれども次の瞬間には、玉は曇り、何も映してはいなかった。

掌に食い込んでいた爪を、エルドはゆっくりと開いた。 半月形の赤い跡が、四つ並んでいた。

(……ほんとうに、ゼロより下なのか)

***

家に戻ったエルドを、父シャルクは何も言わずに迎えた。 鍛冶屋の工房には、熔けた鉄の匂いと、井戸水の湿りがいつも混じっている。三男坊のエルドの仕事は、薪割り三十束、水汲み十六桶、ふいご踏みが日に二刻──それは、測定の儀の日も変わらなかった。

「父さん」 ふいごを踏みながら、エルドは言った。「針が、振り切れたんだ」

「ああ」 シャルクは赤くなった鉄を金床に置き、鎚を一度、二度。火花が散って、革前掛けの胸を撫でていった。

「で、お前はそれを、どう聞いた」 「……みんな、最弱だって」 「お前は」 「俺は──」

言葉に詰まった。火床の熱気がふいごの風に煽られて、エルドの頬を焼いた。

シャルクは鎚を置き、煤に汚れた手で、息子の頭を一度だけ、軽く叩いた。

「鉄は熱して、叩いて、冷やして、また熱す。針が振り切れたのなら、まずは振り切れた針のままで、お前は薪を割れ」

ふいごの足踏みが、ぎい、ぎい、と低く鳴る。父の言葉は、それ以上でも以下でもなく、ただ薪に焚べる火種のように、息子の胸の底へ沈んでいった。エルドは唇を引き結び、もう一度、踏み板へ体重を移した。火床の赤が、瞳の奥でゆっくりと揺れていた。

***

夕方、井戸の脇で水を汲んでいると、足音が三つ近づいてきた。

「おい、最弱」 同期のヨルグだった。後ろにいるのはハンス、それから──幼馴染のメリアだ。 領主一族の遠縁で、村では『お嬢様』と呼ばれている十二歳の少女は、薄藤色のドレスの裾を泥から守るように持ち上げて、エルドのほうを見ようともしなかった。

「今日の鐘の音、村中に響いたぜ。針止めにぶつけて鳴らしたのなんて、お前くらいだ」 ヨルグが笑い、ハンスがそれに追従して、エルドの桶に手を伸ばす真似をした。指先のすぐそばまで、伸ばして、戻して。からかうたびに、後ろのハンスの肩が、犬のように小さく震えて笑う。

「俺の桶を、運んでくれよ。最弱でも、力仕事くらいはできるだろ」

エルドは答えなかった。 井戸の縄が、掌の皮を擦って痛んだ。鉄錆の匂いに混じって、汲み上げたばかりの水の、土の味のする冷たさが鼻を抜けた。手の甲を伝って袖口に落ちた一滴が、肘の内側まで冷たく走り、シャツの布を貼りつかせた。エルドは奥歯を噛んだ。噛みしめても、鳴りそうになるのは歯ではなく、喉の奥にある別の何かだった。

「メリア」 ヨルグが振り向いて、令嬢に水を向けた。「お前から言ってやれよ。冒険者なんて夢、こいつには」

メリアは、初めてエルドのほうへ視線を寄越した。 栗色の髪が夕風に揺れて、その下の瞳は、昔エルドと一緒に川で蛍を捕まえた頃の色とは、まるで別の色をしていた。あのとき手のひらの上で青白く明滅した小さな虫を、息を殺して覗き込んでいた女の子の瞳は、もうそこには残っていなかった。残っていたのは、薄い氷のように、よく磨かれて、よく整えられた色だ。視線がほんの一瞬、エルドの胸の高さ──桶の縄を握る指のあたりに落ち、それから、まるで汚れたものから目を逸らすように、また持ち上げられた。

「エルド」 彼女は言った。声は澄んでいて、だからこそよく通った。 「あなたは、石を運んでいなさい。それが──あなたに、いちばん向いている」

桶の縄が、ぎし、と軋んだ。エルドの掌の中で。 喉の奥で何かが小さく、確かに、折れる音がした。それは骨でも誇りでもなく、もっと幼い、まだ名前のついていない何かだった。胸の奥に張ってあった細い糸が、音もなく一本、ぷつりと切れて、内臓のどこかへ落ちていった。

「……ああ」 彼は俯いて、小さくそれだけ答えた。

三人の足音が遠ざかった後、エルドは長いこと、井戸の縁に額を押しつけていた。石の冷たさが、額の熱を、すこしずつ吸っていった。 夕風が首筋を撫で、村の遠くから牛の鳴く声が、二度、三度。日が完全に沈むまで、彼はそこから動けなかった。井戸の底のほうから、水面に落ちた木の葉が壁に擦れる微かな音が、ずっと、こだまのように上がってきていた。

***

夜、村の灯りが消えてから、エルドは森へ入った。 祠まで続く獣道は、昼でも薄暗い。月明かりが樫の葉の隙間から落ちてきて、足元の苔と腐葉土を、銀の斑模様にしていた。一歩踏み出すたびに、湿った土が踵の下で柔らかく沈み、苔の青い匂いと、どこか奥のほうで蛇苺が潰れたような甘い匂いが、ふっと立ちのぼった。遠くで梟が一声鳴き、その声が幹から幹へ、しばらく震えながら渡っていった。

肩から提げた革の鞘から、エルドは父の古い短剣を抜いた。 刃渡りは肘から手首までほどの、なんの飾りもない両刃。柄には父シャルクが息子のために巻き直した皮紐の擦り切れと、その下に、見たこともない古い文字が一文字、薄く彫られている。エルドはそれを、いつも親指で撫でて確かめてから、構えた。皮紐の端が指先にこそばゆく当たり、汗で湿った掌に、革の匂いがじっとりと染みた。

ひゅう、と。 振り下ろす。 ひゅう、ひゅう。 左から、右から。

下草を払うのではない。空気そのものを、二つに割るつもりで。 百を数えるところで肩が鳴った。二百で、肺が痛んだ。三百十二で、ようやく汗が顎の先から落ち始めた。汗は鎖骨を伝い、シャツの首元で冷えた。胸の奥は熱いのに、外側だけが夜気にじりじりと冷やされていく。その温度差が、不思議と頭の芯を澄ませていった。手首の付け根が痺れ、握りこんだ指の関節が一つひとつ、別々の生き物のように疼いた。それでも、振った。振るたびに、空気が刃の腹を撫でていく感触が、少しずつ、別の手応えに変わっていく気がした。

水晶玉の前で笑われた声が、頭の奥でまだ反響している。 「石を運んでいなさい」 メリアの声も。

エルドは、剣を下げた。 肩で息をしながら、月の差す梢を見上げた。 吐く息は白く、夜気には湿った苔と、遠くで腐りはじめた朽木の匂いが混じっている。葉擦れの隙間から落ちる月の光は、針のように細く、冷たく、そして、不思議と優しかった。

「いつか、見ていろ」

呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。 唇は震えていた。けれども、口にしてしまえば、それは誓いに似た重みで、夜の森の冷気の中に沈んでいった。沈みきったあとも、その重みは消えず、足元の土の下で、もう一度、根のように張り直すのを彼は感じた。

針は、ゼロより下を指していた。 だが、振り切れていた。

(振り切れた、ということは──)

考えかけて、エルドは首を振った。 今はまだ、わからない。わからないまま、それでも──

短剣を鞘に収め、もう一度柄を握り直した、その時。

ぱき、と。 背後の藪で、枝の折れる音がした。 獣の足音ではなかった。獣にしては、重く、静かすぎた。

エルドは振り返らなかった。 ただ、鞘の柄に、もう一度、指をかけた。指先が、皮紐の下の古い文字を捉える。彫りの溝に、夜気のひんやりした湿りが溜まっていて、なぜかその一点だけが、自分の体温に近い気がした。

月の光が、短剣の一文字の彫りに、薄く落ちていた。

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