第2話
第2話
路地は、踏み込むほどに陽が消えた。
漆喰の壁が両側から迫り、頭上の物干し綱に干された誰かの寝間着が、朝風に湿った布の匂いを落としてくる。革靴の底が水溜まりを蹴った。泥はね跡が制服のズボンの裾に黒く点を刻む。観察者の眼のログが視界の隅で更新される。距離、十五メートル。八メートル。五メートル。
曲がり角を曲がった先に、それはあった。
少女が、壁に押しつけられていた。
身長は俺の肩より低い。栗色の髪。麻のワンピースの肩口が、片方だけずり落ちて鎖骨が剥き出しになっている。引き剥がした男の指の跡が、桃色の皮膚に四本、はっきりと残っていた。少女の足元には、つぶれた林檎が三つ転がっている。買い物籠が横倒しになって、籠の縁から皮が裂けた林檎の白い果肉が、ねっとりと石畳に染みていた。甘い匂いと、酒臭い男の体臭が、同じ空気の中で混ざり合っていた。
男は三人。
正面で少女の手首を掴んでいる男は、頭を剃り上げて、首から下げた鉄の鎖が胸板の上で揺れていた。背後に立つ二人は、それぞれ短剣と棍棒を腰に提げている。短剣の柄に刻まれた紋章が、観察者の眼で勝手に解析されて、視界の右に並んだ。
【人間・♂・推定LV6・敵対意図:強】 【人間・♂・推定LV5・敵対意図:強】 【人間・♂・推定LV4・敵対意図:中】
(……六、五、四。俺はレベル1だ。)
頭の中で、状況の数字を冷静に並べ直す。
足が止まりかけた。当然だ。攻撃手段はない。ステータスはひと桁台の最低値。素手で殴り掛かっても、こちらが地面に転がるだけの算段しか立たない。だが、不思議と引き返す気にはならなかった。死んだ直後の人間というのは、たぶん、こういうことに対する閾値が壊れている。
少女の目が、こちらを見た。
涙ではなかった。怯えでもない。ただ、初めて見た獣を測る鹿のような、無防備な瞳だった。
その瞬間、頭の中の答えが一個だけ残った。
──半径三メートル。
「離せ」
声を、自分でも驚くほど低く出した。
剃り上げ頭の男が、首だけこちらに回した。眉間の皺の間で、瞳孔が一度だけ縮んで、それから笑った。歯の間に何かの繊維が挟まっていた。男の臭い息が、二メートル先でも届いてくる。
「なんだお前。見ねえ服だな」
「あー、坊や。命は一個しかねえぜ」
棍棒の男が、肩を回しながら踏み出してきた。短剣の男は背後に回り込もうとしている。観察者の眼が、それぞれの足の運びを線で描いた。挟撃の角度、想定到達時間、四秒。
俺は動かなかった。
動かないまま、少女の方へ手を伸ばした。
「こっち」
たった一音で、少女の体が引き寄せられた。男の指がワンピースの肩口を滑り落ちる。男が引き戻そうとするより速く、少女の手首を掴んで、自分の背中側へ回した。背中越しに、少女の息が制服の上で短く跳ねるのが分かった。
その時、俺の足元で、空気が薄く震えた。
絶対守護、Lv.1。半径三メートル。
意識が、地面に円を描く。物理的に何かが見えるわけではない。ただ、観察者の眼が、地面の上に薄い光のリングを描き加えてくれた。直径六メートル。漆喰の壁にぶつかって、リングの一部は壁の中に消えている。少女の体は、円の内側にぴったり収まっていた。男たちの足元は、円のすぐ外側にあった。
剃り上げ頭が、腰の長剣を引き抜いた。
「異界人か。何でもいい。一発で済ませてやるよ」
刃渡りは、たぶん一メートル弱。よく研がれていない。刃元に錆が浮いて、刃先には欠けが二つ走っている。それでも、人間の頭蓋骨を割るには十分な質量だった。男は剣を振りかぶった。腕の筋肉が盛り上がる。観察者の眼が、振り下ろしの軌道を一本の弧で描いた。到達まで、あと一秒。
俺は、少女を背中に隠したまま、一歩も引かなかった。
剣が落ちてきた。
──ガィン。
その音は、剣と石畳がぶつかる音にも、剣と剣がぶつかる音にも似ていなかった。むしろ、薄い硝子の鏡を、鋼の鎚で叩き割った時の音に近かった。空中で、剣が止まった。男の頭の少し前。俺の額の二十センチ上。そこに、何もないはずの空間に、刃が深々と食い込んで、それきり進まなかった。
刃の先端から、青白い罅が走った。
罅は、刃の中ほどまで一気に伸びて、それから四方に枝分かれした。男の腕に伝わる衝撃が、男の肩を一瞬だけ跳ね上げた。次の瞬間、剣は、刃元から先端までを一気に分割されて、欠片になって地面に落ちた。一枚、二枚、五枚。冷えた金属の破片が、林檎の白い果肉の上に転がった。
「は……?」
剃り上げ頭の口が、間抜けに開いた。
握っていた剣の柄が、刃のない金属の棒になっていた。
俺は、男の顔を見ていた。観察者の眼が、その表情を秒単位で記録していく。
(……効くな、これ。)
掌に、汗もかいていなかった。
「次、来いよ」
声が、自分の喉ではない場所から出た。
棍棒の男が、それでも踏み込んできた。仲間の前で引けなかったのか、頭が酒に浸かりすぎていたのか。棍棒は俺のこめかみを狙って、横から振られた。観察者の眼の弧が、円の境界線にぶつかる瞬間を表示する。
ガィン。
棍棒が、半ばで折れた。
折れた先端が、男の自分の顔のすぐ横を掠めて、後ろの壁に跳ね返った。漆喰の表面が、欠けた木片の角度に削られて、白い粉を散らした。男は、自分の手の中の、半分になった棒を、信じられないという顔で見つめた。
「お、お前……」
短剣の男は、もう剣を抜けなかった。後退りした足が、林檎の白い果肉を踏みつけて、ぬるりと滑った。男の尻が石畳を打つ。短剣の柄から、男の指が離れて、刃は鞘に半分挿さったまま、男の脇に転がった。
俺は、自分の足元の円を一度だけ確かめた。
円は、まだそこにあった。直径六メートル。揺らぎもしない。MPの残量を意識すると、視界の隅で20の数字が19に下がっただけだった。一度の防御で、たった1。ステータス画面が見せてくる、この世界の残酷で都合のいい仕様だった。
「失せろ」
俺は、男たちに言った。
棍棒の男は、棒を取り落として、剃り上げ頭の腕を引いた。剃り上げ頭は、自分の握っていた柄をようやく放した。鉄の音が石畳の上で短く鳴った。三人は、何かを言いかけて、何も言わずに、走り出した。短剣の男は尻もちをついたまま膝で這って、それから立ち上がって、仲間の背中を追った。男たちが曲がり角を消えるまで、観察者の眼が距離を勝手に測り続けた。十メートル。二十メートル。脅威度、消失。
俺は、息を、初めて吐いた。
吐いた息が、肩を一度だけ落とさせた。
背後で、少女の手が、俺の制服の裾を掴んでいた。掴まれている、と気づいたのは、その時だった。指の力は強くて、けれど震えていた。振り返ると、少女は俺の制服を握ったまま、顔を上げて、こちらを見上げていた。瞳の色は、よく見ると琥珀に近い茶色だった。
「あの……」
少女の声は、思ったより落ち着いていた。怯えの底から這い上がってきたばかりの、まだ呼吸が整いきっていない、けれどしっかりとした声だった。
「ありがとう、ござい、ます」
「いや」
俺は、それ以上の言葉を持っていなかった。
少女の足元に転がった林檎を、屈んで拾い集めた。三つのうち、二つは果肉が割れていた。残りの一つを、少女の籠に戻した。割れた林檎を、自分のブレザーのポケットに突っ込んだ。これがこの世界での朝食になるなら、なるで構わなかった。
その時。
路地の、一番奥の方から、口笛が鳴った。
軽やかで、それでいて、明らかに俺たちに向けられた音だった。
俺は、顔を上げた。
奥の壁にもたれて、誰かが立っていた。
陽の届かない暗がりの中で、最初に見えたのは、髪の色だった。赤い。火で焙った銅のような、深い赤。腰の片側に長剣を吊って、もう片側の手には、まだ皮の剥かれていない林檎が一個、握られていた。たぶん、少女の籠から転がり落ちた残りの一個を、いつの間にか拾っていたらしい。
観察者の眼が、勝手にタグを浮かべた。
【人間・♀・推定LV──】
数字の場所が、空白になっていた。
(……鑑定不能、か。)
その女は、林檎を一度だけ宙に放って、片手で受け止めた。それから、もう一度、短く口笛を鳴らした。今度は、俺の方ではなく、少女の方を見ていた。
「無事みたいで、何より」
声は、思ったより低かった。低くて、笑っていた。
「で、そこの異界人」
林檎が、放物線を描いて、こちらに飛んできた。観察者の眼の弧が、軌道の終点を俺の胸の高さに置いた。咄嗟に、片手で受け止めた。冷たくて、表面に薄く水気があった。
「いい仕事だった。──ちょっと、面貸せ」
革のブーツが、石畳を一歩、踏み出した。
俺は、林檎を握ったまま、その赤い髪を見上げていた。