第1話
第1話
肺の中の空気が、一瞬で全部吐き出された。
トラックの正面が、視界を塞ぐ前。腕の中で女子の制服のリボンが、信じられないくらい近くで揺れていた。アスファルトを蹴った爪先の感覚と、横から轟いてきた金属塊の音と、ブレーキを踏み損ねた運転席の白い顔。それで終わりだった。胸郭が潰れる音は、自分の外ではなく、自分の中から聞こえた。
──死んだのか、俺。
次に意識が戻ったとき、頬に触れていたのは石畳だった。冷たい。湿っている。鼻先に、嗅いだことのない香辛料の匂いがある。クミンに似て、もっと甘くて、もっと油っぽい何か。指先を動かすと、高校のブレザーの袖口が視界に入った。襟元には乾いた血の染みが残っている。けれど、胸は痛まない。骨も折れていない。心臓の音は、むしろ朝礼の最中みたいに、規則的に鳴っていた。掌を石畳に押し当てる。爪の隙間に、白い砂粒のようなものが噛んでいた。砂は乾いていて、指で擦るとサラリと崩れる。地球の砂とは粒の角度が違う気がした。
「……生きてる、のか?」
声が出た。喉の奥が乾いていて、自分のものとは思えない掠れ方をしていた。舌で唇の内側を撫でると、そこに鉄の味が薄く残っている。さっきまで本当に死んでいた人間の口の中だ、と思った。
ゆっくりと身を起こす。石畳の路地。両脇に並ぶのは、漆喰の壁と木製の看板。看板に書かれているのは見たことのない文字だった。アルファベットでも漢字でもない。曲線と棘のある、刺繍のような書体。爪先で石畳を蹴ってみる。靴底のゴムがしっかり食いつく。夢ではなさそうだ。指で漆喰の壁に触れた。表面はざらついていて、触れた箇所が指紋の形にうっすら白く落ちる。本物の壁だ。本物の朝の冷たさだった。
通りの先に出た瞬間、足が止まった。
頭上を、影が横切った。
竜だった。
翼長は、たぶん二十メートル以上。鱗が朝日を弾いて青く光り、首の後ろから尾の先まで一本の動く宝石のように見えた。三体が編隊を組み、城壁の向こうへ滑空していく。羽ばたきは無音に近かった。ただ、頬の産毛がふわりと逆立つだけの、巨大なものが空気を切り分ける気配だけがあった。地上では、虎の頭をした男が二輪荷車を引いていた。耳が動く。尻尾が揺れる。荷車には麻袋がいくつも積まれていて、袋の口からは、見たことのない深紅の果実が覗いていた。すれ違った女は耳の先が尖っていて、瞳の色が紫だった。彼女は俺の制服姿を一瞬だけ見て、何でもなさそうに視線を外した。この街では、見慣れない格好の人間など、ありふれた風景のひとつに過ぎないらしい。
俺はしばらく、その場に立ち尽くした。
──ああ。
──そうか、これは。
頭の中で何かがカチリと噛み合う音がした。死んだ。それで、ここはもう地球じゃない。庇った女子の顔も、最後に見たトラックのナンバープレートも、母さんがその朝つくったベーコンエッグの匂いも、もうこの世界には届かない。
胸の真ん中に空いた穴の感覚が、来るかと思った。
来なかった。
たぶん、まだ全部が現実として処理しきれていないだけだ。あとで来る。きっと夜中に、灯りを消した瞬間に来る。それまでは、考えるべきことが他にある。喉の奥に込み上げそうになるものを、息を吸い込むことで押し戻した。香辛料の匂いが肺の中まで届いて、それで一度、自分が今この場所で呼吸している、という事実を確かめ直す。
その時、視界の右下に青白い光が浮かんだ。
【ステータス】 名前: 佐久間 透(さくま とおる) 種族: 異界人 レベル: 1 HP: 80 / 80 MP: 20 / 20
【固有スキル】 ・絶対守護(Lv.1) ・観察者の眼(Lv.1)
「……は?」
思わず手で払う。光は揺らいだが、消えない。視線を合わせると、表示が反応してわずかにスクロールする。指の操作ではなく、意識で動いている。なるほど、そういう仕様か。半透明のウィンドウは、視線を逸らせば視界の隅に小さく畳まれ、意識を向けるとスッと前に出てくる。誰かが俺の脳に直接UIを貼り付けてきたみたいな、奇妙な軽さだった。
(冷静だな、俺。)
頭の片隅で、自分にツッコんだ。死んだ直後とは思えない落ち着き。考察勢としてラノベやゲーム実況のフラグ構造を散々読み漁ってきた経験が、こういう時に変な方向で役に立っている。状況がベタすぎて、逆に飲み込みが早い。むしろ、テンプレ通りに進んでくれていることへの、薄い安心感すらあった。完全に未知の規則で動く世界に放り込まれるよりは、ずっとマシだ。
「絶対守護」と「観察者の眼」。
スキル名に意識を合わせると、説明文が広がった。
『絶対守護 / 半径三メートル以内の守護対象に向けられた悪意ある攻撃を完全に遮断する。物理・魔術問わず。守護対象は術者の認知と防衛意志に依存する。攻撃手段としての転用は不可。』
『観察者の眼 / 視界内の対象の位置・速度・敵対意図を解析。記録ログ機能あり。スキル鑑定および存在強度閲覧。鑑定不能対象は痕跡情報のみ表示。』
二度読んだ。三度読んだ。
(……守る、専用か。)
攻撃手段がない。剣も魔法も、爆発系の必殺技もない。ただ、半径三メートル。範囲内の誰かを守ることだけに特化した、単機能のチート。
普通なら絶望する場面だろう、と思う。
そう思って、思わなかった。
腕の中にあった女子の体重と、それを守りきれずに死んだ自分。あの瞬間、欲しかったのは攻撃力じゃない。一秒早く展開できる、半径三メートルの、絶対の壁だった。もしあの横断歩道で、この光が一秒早く灯っていたら。トラックの金属塊は俺たちの三メートル手前で、見えない硝子に弾かれていたはずだ。彼女のリボンは揺れたまま、彼女の指先は俺の制服を掴んだまま、何事もなかったように青信号は緑色を保っていただろう。
(……皮肉が利きすぎてるだろ、神様。)
奥歯を一度だけ噛んだ。怒りでも悲しみでもない、もっと乾いた感情が、奥歯の付け根に短く灯って、すぐに消えた。
意識を眼前に戻す。観察者の眼が、勝手に通行人を解析し始めた。
【獣人/ベンガル種・♂・推定LV12・敵対意図:なし】 【ハーフエルフ・♀・推定LV4・敵対意図:なし】 【人間・♂・推定LV3・敵対意図:なし】
人々の頭上に、薄い字でタグが浮かぶ。本人には見えていないらしい。便利だ。便利だが、これを公の場で口に出した瞬間、変な目で見られるどころじゃない気がする。封印しておこう。レベルが二桁に届いている獣人の男は、俺と目が合っても何の反応も示さなかった。たぶん、彼の物差しの中で、レベル1の異界人など、視界に入れる価値もない通行人なのだろう。
俺は一歩、踏み出した。
革靴の底が、石畳の上で軽く滑った。
──まずは、自分の状況を整理しなきゃならない。
ここはどこの国で、何という街で、何時の朝か。通貨はあるのか。言葉は通じるのか。さっきの自分の声は、脳内で勝手に翻訳されていたのか、それとも俺の口が勝手にこの世界の言葉を喋っていたのか。考えることは山ほどある。けれど、最初の一歩はとにかく情報だ。看板を読める誰か、人の好さそうな店主、それか衛兵の詰所。
そう、頭の中で順番を組み立て始めた、その時だった。
路地の奥のほうから、女の悲鳴が聞こえた。
短く、押し殺された声。続けて、何かが石壁にぶつかる重い音。骨ではない、布越しの肩か背中が叩きつけられたような、鈍い響きだった。続けて、男の低い笑い声。それも一人ではない。少なくとも二人、いや、もう一人いる。
ステータス画面の隅で、観察者の眼のログが新しい行を刻んだ。
【近接対象 / 人間・♀・推定LV2・敵対意図検出(隣接3名)】 【脅威度:中・想定到達時間:十二秒】
──三対一。
頭が考えるより先に、体が動いていた。香辛料の匂いを置き去りにして、路地の奥へ駆ける。革靴の底が石畳を叩く。乾いた音が、漆喰の壁に跳ね返って、自分の足音が前後から二重に聞こえた。胸の真ん中に空いていたはずの穴は、まだ来ない。代わりに、腕の奥のほうで、あの日のリボンの感触が、もう一度、はっきりと思い出された。
俺はまだ、この街の名前すら知らない。通貨も、宿の場所も、自分の身分証になるものも、何ひとつ持っていない。
それでも、体は走っていた。
──たぶん来る前に、俺は誰かを守る。
それが、この世界で最初の俺の仕事だ。