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虚無の王冠 ―捨てられし補助係の玉座―

第3話 第3話

第3話

第3話

夜明け前の鐘が、王都ヴァルファロスの空気を縦に裂いた。

 リオンは寝台の縁から立ち上がろうとして、貫頭衣の下の銀の鎖が、皮膚の上で再び小さく跳ねるのを感じた。三度、立て続けに。脈と同じ拍子ではない、明らかに銀そのものの意思を持った震えだった。小卓に並べた押し花の四つの欠片は、夜の間に角を風に持って行かれ、青の粉が木目に薄く散っている。

 廊下の足音が乱れていた。昨夜まで擦るように歩いていた小姓どもが、いま石床を蹴って駆けている。革鎧の擦れ、剣帯の金具の鳴り、女中の悲鳴に近い詠唱。窓の鎧戸を一寸ばかり押し開けると、東の空がまだ暗い時刻だというのに、北の地平のさらに遠く、空の縫い目が裂けるように、一本の黒い柱が立ち上がっていた。

 柱は、煙ではなかった。黒い塗料を縦に零したような、輪郭の鋭い線。その線の縁から、こまかな星屑のような光が雪のごとく剥がれ落ちている。距離は何百里と離れているはずなのに、背筋に当たる冷気だけは、たった今、肋の裏側へ直接差し込まれたような近さだった。

「氷峰の鎖が——切れた」

 老師グレンヴァルドの言葉が、八日前の塔の煙管の煙ごと、いまリオンの喉の奥でようやく実体を持った。鎖が切れた、ではない。鎖そのものが、はじめから無かったかのように、世界の縫い目を逆に裂きにかかっている。リオンは押し花の欠片を一片だけ拾い、革袋の底へ滑り込ませた。乾いた花弁の縁が、指の腹に細い棘のように立った。

 館の中庭で、討伐隊は半刻のうちに整った。

 馬の鼻息と霜の匂いが、石畳の上で渦を巻いていた。剣士ガレスは銀の胸甲の上にさらに鎖帷子を重ね、肩には討伐勅令の飾り紐を垂らしている。賢者セフィルカは星辰の杖を抱え、神官レナルドは聖油の小瓶を腰に十二、一列に並べていた。馬上のミラは祭服の上から薄い銀の胴鎧を着け、淡い亜麻色の三つ編みを背の高い位置で一度括り直していた。リオンの方を、彼女は一度も見なかった。

 リオンが回されたのは、駄馬と糧秣車の隊列だった。

 二頭立ての荷車が四輛、荷駄が十一頭、補給長の老騎士ボルダンと、雑用の小者が六名。リオンは最後尾の二輛目、薬草と煎じ用の銅鍋を積んだ車の御者台に載せられた。隣にはあの寡黙な伝令の若騎士が、今度は補給隊の伝令役として腰を下ろしていた。八日間の旅で互いに口を利いた回数は、片手で足りる。

「補助係」

 ガレスは鞍上から、片手綱で馬首を巡らせ、リオンの車の脇へ寄ってきた。緋色の外套の下、鎖帷子の輪が朝の薄い光を細かく弾いている。

「補給班から、動くな」

 平らな声だった。前夜、白亜の館で告げられた「最後尾につけ」の命令を、改めて鎖で締め直すように。

「斥候の合図があっても出るな。陣地の杭を打つ手伝いも、お前は一切しなくていい。お前の仕事は、煎じ薬を切らさぬことと、荷の縄を結び直すこと、それだけだ」

「……承知しました」

「もう一つ」

 ガレスは身を屈め、馬の首越しに声を低くした。前夜と同じ、嗅ぎ慣れぬ香油の匂いが、朝霜の冷気に混じって鼻先を掠めた。

「我々が陣を組んだあと、お前が天幕の周りをうろつくことを禁ずる。何かの伝令で陣中央に近づく必要があるなら、必ずヨランを通せ。一人で動くな。これは、お前を守るためでもある」

 守るため。

 その言葉の硬さに、リオンは喉の奥が乾くのを覚えた。守られている、と感じる距離ではなかった。鎖につながれた荷駄が、群れの中央へ近づくことを禁じられているのと、同じ造りの言葉だった。

 ガレスは返事を待たず、鞍を立て直し、隊列の先頭へ駆けて行った。緋色の外套が朝の薄い金に染まり、ミラの横に並ぶ。並んだ二頭の馬の首の隙間から、ミラの三つ編みの先が、ほんの一度だけ、こちらへ振り向くように揺れた——気がした。だが彼女は、ついに振り向かなかった。

 王都の北門が音を立てて開く。城門の上の竪琴の旗が、北の風にひときわ強く鳴った。隊列は、強行軍の速度で街道を発した。

 街道は北へ北へと続き、二日のうちに耕地が消え、三日目には森が薄くなり、五日目には地表に苔色の岩がむき出しになった。氷峰アルガリスの黒い影は、初日からずっと地平の正面に立っていたが、近づくほどに、その輪郭の上へ伸びる例の黒い柱の方が、嫌な存在感で空を占めるようになった。柱の縁から剥がれ落ちる星屑のような光は、近くで見ると微細な羽虫の群れのようでもあり、ときおり一片が枝先に触れると、その枝が音もなく灰になって落ちた。

 リオンは御者台の上で、銀の鎖を貫頭衣の下から取り出さぬよう気を配り続けた。鎖は街道を北に取るほど、皮膚の上で頻繁に脈打つようになる。一日ごとに、その脈は鼓動と肩を並べるほど強くなった。北を指す磁針のように、銀の鎖はリオンの肋の裏側を、ある一点へ向けて引っ張ろうとしていた。

 七日目の夜、隊は氷峰の前肢にあたる無名の谷で、初めての本格的な野営を組んだ。

 谷底は風が吹き溜まり、霜は脛の上まで覆い、馬どもは互いに身を寄せて湯気の塊を作っていた。中央に勇者隊の天幕、その周りを神官と賢者の幕が囲み、外輪に補給班の小幕がばらまかれる。リオンの寝場所は、補給長ボルダンの幕の隅、糧秣の俵を仕切りにした一畳ほどの土の上だった。

 夜半、煎じ薬の鍋を中央天幕へ届けるよう、ボルダンに命じられた。

「ガレス殿の指図ではなかったか」と眉を寄せると、老騎士は皺の奥でわずかに目を逸らし、「お前が手前まで運んで、神官殿の小者に渡せばよい。中までは入るな」と低く言った。中までは入るな、ではあるが、他ならぬ補給長から渡される煎薬を運ぶ仕事である。リオンは銅鍋の取手を布で包み、雪の踏み跡を辿って中央天幕の側面へ回った。

 天幕の縫い目から、油布越しに灯りが細く漏れていた。

 声が、その縫い目越しに、外気の冷たさに乗って届いた。

「——だから、明日の朝、奴を陣の南の縁へ離す。氷峰の縁へ我々が取り付くまでに、補給班ごと半里下げておけ」

 ガレスの声だった。

「半里では足らぬ」

 賢者セフィルカの、紙を捲るような平らな声がそれに重なる。

「教会の見立てによれば、奴の中で『あれ』が目を覚ます時、共鳴の半径は最低でも一里に及ぶ。我々が魔王と対峙する刹那、奴の鎖が解けたら、戦線そのものが二つに割れる」

「では、一里」

「ガレス、そうではない。離す距離の問題ではないのだ」

 レナルドの早口が割り込んだ。神官の声は、祈りの抑揚を残したまま、内容だけが金属のように冷えていた。

「教会の本意は、はじめから一つしかない。奴を、魔王の側へ『置いて』戻ること。我々が結界を張り直して退避する刹那、奴一人をアズラエルの足下へ置き去りにすれば、あの『あれ』と魔王は、互いに食い合う。我々は、二つの厄災を一夜で片づけられる」

 リオンは、銅鍋の取手を握る指の力を、ゆっくりと抜いた。

 抜かなければ、布越しの取手が、自分の掌の温度で湯気を立てそうだった。

 天幕の中で、ミラの声がするのを、彼は待った。

 ずいぶん長く、彼は待った。鍋の縁の湯気が、天幕の油布に当たって細く曲がり、雪の上に薄い霜の輪を作っていく。やがて、ようやく聞こえたのは、ミラの声ではなく、ミラが何かを言いかけて、それを別の誰かが——おそらくはセフィルカが——やわらかく遮る、その紙を捲り直すような気配だった。

「聖女よ。情を、抑えよ。これは、教会と勇者隊の合意である」

 返事はなかった。代わりに、ごく小さく、祭服の裾が一度きつく握られて離される、布の擦れる音だけが、天幕の縫い目越しに、リオンの耳に届いた。

 リオンは銅鍋を雪の上にそっと下ろし、中央天幕の灯りに背を向けた。

 胸の奥で、銀の鎖が今度は跳ねなかった。代わりに、肋の裏側で、鎖よりも深いところに座る別の脈が、ひと息、長く、深く息を吐いた。十六年ぶりに肺を満たした者のように。

 雪を踏む音を立てぬよう、リオンは半歩ずつ後退った。糧秣の俵の影に身を入れ、貫頭衣の下から銀の鎖を引き出す。蔓の紋様は、もはや銀の表面で這うのではなく、彼の鎖骨の皮膚そのものへ、青い影を落として根を伸ばしていた。

 革袋の中で、押し花の最後の欠片に、指先を当ててみる。乾いた青い忘れな草。三年、毎晩なぞってきた、ミラの細い指が握らせてくれた一片。

 ——一つよ、と、彼女は言った。

 リオンは押し花の欠片を、雪の上に、そっと置いた。

 霜が、その青を、ゆっくりと白に変えていく。明日の朝、隊は氷峰の縁に取り付く。北の空で、黒い柱が、ひときわ大きく身を捩った。

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