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虚無の王冠 ―捨てられし補助係の玉座―

第2話 第2話

第2話

第2話

封蝋の朱を握りしめた指が、まだかすかに震えていた。

 リオンは木の梯子を一段降りるごとに、その動揺を踵から床へ落としていく。煎薬の湯気と乾葉の匂いに包まれた塔の最上階で、伝令の騎士はもう一段下の踊り場まで降りていた。革鎧の擦れる音が、螺旋の闇の奥で一定のリズムを刻んでいる。

「リオン、待て」

 老師グレンヴァルドの声に、踵が止まった。

 振り返ると、師は卓の抽斗を開け、奥から細長い布包みを取り出していた。三年間、その抽斗が開くのを見たことはない。鍵もかかっていない、ありふれた木の抽斗だったが、なぜか手を触れるのを禁じられているような気がして、リオンは塔の隅へ追いやられていたその家具を、眼に入れぬよう過ごしてきたのだ。

「これを、持ってゆけ」

 差し出された布を解くと、中から現れたのは細い銀の鎖だった。

 長さは肘から指先までほど。輪は小指の爪ほどの大きさで、ところどころ黒ずみが浮いている。古い、というよりも、もう硬い物質ではなくなりかけている、と言ったほうが近い。指先で持ち上げると、銀のはずなのに奇妙に重く、輪の継ぎ目に薄く青い色が滲んでいた。

「師よ、これは」

「お前の父が、わしに預けていったものよ」

 老師は煙管をくわえ直し、火皿に新しい刻みを詰めはじめた。

「いつか、お前に渡す時が来たら——と。その『時』が、今日であるかは、わしにも分からぬ。ただ、肌身に付けておけ。外すな、見せるな、誰にも触れさせるな」

 リオンは銀の鎖を首にかけた。皮膚に触れた瞬間、ひやりと冷たいというよりも、細い針で刺されたような微かな痛みが鎖骨の上を走った。それは一瞬で消え、あとには鎖そのものの重みと、銀がじわりと体温に馴染んでいく感触だけが残った。

 貫頭衣の下に鎖を仕舞い、上から麻の旅装を羽織る。腰の革袋に、押し花と薬草の予備、わずかな銀貨を詰める。それでリオンの仕度は終わった。

 塔の門前で、老師は何も言わなかった。ただ煙管の煙を細く吐き、その煙が霜月の風にちぎれて消えるのを見届けてから、皺の中で薄く笑った。「眠るな」と、それだけが、別れの言葉のすべてだった。

 街道を南へ下る馬車の荷台で、リオンは八日を過ごした。

 伝令の若騎士は寡黙な男で、駅で替え馬を繋ぐとき以外、ほとんど口をきかなかった。リオンが粥を分けようとすると、首を振って自分の干肉を齧った。同じ屋根の下にあって、見えぬ壁が常に立っていた。塔の弟子と王都の騎士——身分の違いだけではない。何かを「知っている者」が、「知らぬ者」に対して取る、あの慎ましい距離だった。

 馬車が南へ進むにつれ、風の質が変わっていった。

 辺境の塔を吹き抜ける、骨を撫でる北風はもうない。代わりに湿気を含んだ南風が頬に纏わりつき、麦の刈り株の匂い、家畜の糞の匂い、街道沿いの宿場で焼かれる豚の脂の匂いが、車輪の軋みに乗って入れ替わり立ち替わり鼻先を流れていく。三年ぶりに嗅ぐ「人の暮らし」の匂いに、リオンの鼻孔は最初の宿場で一度しばし閉じてしまった。

 夜営の篝火の前で、銀の鎖を貫頭衣の下から取り出してみる。

 橙色の火明かりに翳すと、鎖の輪に細い紋様が浮かぶのが見えた。文字、というより、植物の蔓が絡んだような線——いにしえの意匠であるらしいが、リオンには読めない。輪のひとつひとつに、別々の紋が刻まれている。指の腹で撫でているうちに、鎖は皮膚の温度に近づき、あの最初の冷たさを失った。代わりに、ほんのかすかな脈動が、銀の輪の連なりを通して肋骨へ伝わる気がする。

「魔除け、というやつかい」

 伝令の若騎士が、初めて声をかけてきた。リオンが頷くと、男は鼻で笑い、すぐに毛布をかぶって背を向けた。それきり、また会話は途絶えた。

 八日目の夕、馬車が丘を越えると、王都ヴァルファロスの城壁が、地平の中央に黒く立ち上がった。

 夕陽を背負った石壁は、銅色というよりも赤錆の色をしていた。塔から見える氷峰アルガリスの黒い稜線とは、何もかもが違う。高さよりも厚みで威圧する壁。城門の上に翻る勇者隊の旗——銀の盾に金の竪琴——が、夕風に小さく鳴っていた。

 門をくぐった瞬間、リオンの首にかけた銀の鎖が、わずかに、しかし確かに跳ねた。

 皮膚の上で、鎖が一度だけ、生き物のように脈打ったのである。リオンは布の上から胸を押さえ、息を止めた。鎖は、すぐにまた沈黙した。

 王都の中央広場に面した白亜の館——勇者隊の宿所——の門前で、リオンは二刻ほど待たされた。

 衛兵に幾度も身分を改められ、塔から持参した師の書状を二度提出させられた。三度目に出てきた小姓は、ようやく彼を奥の広間へ通した。広間の床は黒大理石の市松模様で、足音は奇妙にくぐもる。柱には王家の獅子と勇者隊の竪琴が交互に彫り込まれ、高い天井からは硝子玉を連ねた燭台が垂れ下がっていた。

 その燭台の真下に、五人がいた。

 剣士ガレスは、肩幅が以前の倍ほどに広がっていた。緋色の外套の下、銀の胸甲が燭の光を弾く。三年前、塔の食堂で粥を奪い合った少年の面影は、もうほとんどない。彼はリオンを認めると、軽く顎を引いただけで、すぐに視線を反らした。「来たか」とすら、口には出さなかった。

 賢者セフィルカは杖の頭を撫でながら、革表紙の本から目を上げない。斥候ヨランは壁際で短刀を磨いている。神官レナルドはひざまずいて祈っているのか、リオンに背を向けたまま動かない。

 そして——ミラ。

 聖女の白い祭服を纏った彼女は、広間の最奥、紋章の刺繍された椅子の傍に立っていた。三年で、彼女の髪はずいぶん長くなっていた。淡い亜麻色の三つ編みが、肩甲骨の下まで垂れている。顔立ちは細くなり、頬の柔らかさは消え、代わりに「聖女」と呼ぶしかない冷たい透明さが、皮膚の下から透けて見えた。

「ミラ」

 リオンは、革袋の押し花にそっと指を添えてから、一歩、踏み出した。

 ミラの肩が、わずかに揺れた。

 それだけだった。彼女は顔を上げず、ガレスの肩越しに、紋章の刺繍を見つめ続けていた。視線をリオンの方に動かそうとして、途中で止め、また紋章へ戻す——その細かな動きを、リオンは確かに見た。彼女の右手の指が、祭服の裾を一瞬きつく握り、すぐに離した。爪の白さだけが、束の間、布の上に残った。

「……ミラ」

 二度目の呼びかけにも、彼女は応えなかった。代わりに、ガレスがリオンの正面に立ちはだかった。

「補助係。任は荷馬の世話と、薬草の煎じ役だ」

 低く、平らな声だった。

「氷峰までの行程、お前は最後尾につけ。前衛から五馬身は離せ。陣中での発言は控えよ。我々の作戦に口を挟むな。これは命令だ」

「ガレス、それは——」

「これは命令だ、と言った」

 剣士はわずかに身を屈め、リオンの耳元に口を寄せた。緋色の外套の縁が、ほんの一瞬、鼻先を掠める。鉄の匂いと、嗅ぎ慣れぬ香油の匂いが混じった。

「お前のためでもある。最近、お前のことで……色々と、噂が立っている」

「噂、とは」

 ガレスは答えなかった。代わりに、賢者セフィルカが、本のページを一枚、ぱさりと捲った。その音だけが、広間の沈黙を破った。リオンの首にかけた銀の鎖が、また皮膚の上で一度だけ、ぴくりと跳ねた。

 ミラは、まだ顔を上げない。

 リオンは、革袋の押し花の縁をきつく握りしめた。乾いた花弁が、革袋の中で砕ける音がした。三年、毎晩眠る前に指でなぞってきた、青い忘れな草の縁が、いま、自分の指の力で粉になった。

 その夜、館の東棟、最も狭く陽の射さぬ部屋を割り当てられたリオンは、寝台に腰掛けたまま、ようやく旅装を解いた。

 貫頭衣の襟をくつろげ、銀の鎖を引き出す。燭台の灯りに翳すと、鎖の紋様が、塔で見たときよりも、明らかに濃く浮かび上がっていた。いにしえの蔓は、もはや「刻まれている」のではなく、銀の表面で、ゆっくりと、生きた根のように這い拡がろうとしている。

 廊下の向こうで、誰かが押し殺した声で話している。ガレスの低い声と、神官レナルドの早口、そしてセフィルカの平坦な相槌。「——あれを連れて行って、本当に良いのか」「教会の見立てでは、奴の中の——」——切れ切れの単語だけが、石壁を伝って届いた。

 リオンは銀の鎖を、再び胸の奥に仕舞った。革袋から押し花の欠片を取り出し、寝台の脇の小卓に並べる。三年分の青が、四つの破片になって、燭の光に照らされた。

 明日、討伐隊は王都を発つ。

 リオンは小卓に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。膝が、自分の体重を一瞬だけ、支えそこねた。

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