第1話
第1話
辺境の塔の最上階、煎薬の苦い湯気が石壁にこびりついて三年になる。
リオンは銅の小鍋をかき混ぜる木匙の手を止めずに、窓の外を吹き抜ける北風に耳を澄ませた。霜月のはずだった。だが今日の風には、いつもと違う重さがある。エルディア大陸の北端、千年の鎖が眠るという氷峰アルガリスの彼方から、低く這い寄る呻きのような音が、薬草の煮える音の下に紛れていた。
天井から吊るされた乾葉の束が、互いに擦れて鳴る。その乾いた音だけが、塔の沈黙を破る唯一のものだった——少なくとも、これまでは。
「東の棚、第三段の月見草を取れ」
老師グレンヴァルドの声は、いつものように湿った石の上を滑る水のようだ。リオンは「はい」とだけ答え、木の梯子を登る。指先に残る木匙の感触、爪の隙間に入り込んだ青い汁、袖口に染みついた苦い匂い——三年でこの身体に染み込んだ、「補助係」という呼び名の総量だった。
第三段の乾葉を掴みながら、リオンは胸の中で数を呟く。同じ日に塔の門をくぐった弟子は、自分を含めて六人いた。剣士ガレス、聖女ミラ、賢者セフィルカ、斥候ヨラン、神官レナルド——そして、補助係リオン。
五人の名は、いまや王都ヴァルファロスの銀貨の表に刻まれているという。北の蛮族を退け、南の海峡で水妖を斃し、勇者隊の旗印として大陸じゅうの吟遊詩人に歌われている。リオンの名は、どの硬貨にも、どの歌にも刻まれていない。
それでもいい、と彼は思う。
腰の革袋から、小さな押し花を取り出す。三年前、塔へ発つ朝にミラがそっと握らせてくれた青い忘れな草。乾いた花弁を指先で撫でるたびに、彼女の言葉が耳の奥に蘇る。「リオン、貴方が後ろにいてくれるから、私たちは前を向ける」。あの一言だけで、灰色の日々はじゅうぶん金色になった。
「リオンや」
梯子を降りたところで、グレンヴァルドが煙管の灰を落とした。鉄の灰皿に火種が当たる、小さな音。
「お前は今日、北の風が変だと思わなんだか」
問われて、リオンは喉の奥で唾を飲んだ。気づいていたのか。気づいていたが、口にすれば老師の機嫌を損ねる気がして、ずっと黙っていたのだ。
「……地鳴りに、似ています。山が呻いているような」
「うむ」
師は皺の刻まれた目を細める。窓の外、灰色の空に、烏が一羽、輪を描いて落ちていった。
「氷峰の向こう、神々の檻に罅が入っておる。三日前から、ずっとな」
リオンは指先がわずかに冷たくなるのを感じた。氷峰アルガリスの檻。そこに眠るものの名は、辺境の子どもですら知っている。千年前、いにしえの賢者七人が命と引き換えに鎖で縛り上げた魔王——アズラエル。
「鎖が、緩んでいる、ということですか」
「緩むどころではない」
老師は煙管の雁首で、机の上に広げられた古い羊皮紙を指し示した。星辰を読む暦である。インクの褪せた朱色の点が、北辰の真下で禍々しく重なっていた。
「鎖は、もはや切れたぞ」
煎薬の鍋が、ぐつ、と一度大きく跳ねた。リオンは慌てて木匙を握り直し、火加減を弱めるために炉の前へ屈み込む。屈んだ拍子に、革袋の中の押し花がかさり、と微かな音を立てた。
鎖が切れたのなら、勇者隊が動く。ガレスの剣が、セフィルカの杖が、ミラの祈りが——王都を発って、氷峰へ向かうのだ。
そしてそのとき、自分は。
「師よ」
声が、思ったより掠れた。
「もし討伐隊が編まれるなら、補助係も、呼ばれるでしょうか」
老師は答えなかった。代わりに、ゆっくりと窓辺に立ち、塔の麓へ続く一本道を指で示した。
冬枯れの街道に、土埃が一筋、まっすぐ昇っている。蹄の音は、まだ届かない。だが見える者には見えた——あれは、王都の早馬の進み方だ。鞍の上で身を伏せ、馬の首に頬を寄せ、駅から駅へ替え馬を繋いでくる、緊急召集の伝令の走り。
「……来た、ということですか」
「来てしまったな」
老師の声に、初めて、ほんの僅かな湿り気が混じった。リオンは押し花を握りしめる。乾いた花弁の縁が、掌の皮膚に微かに引っかかった。
ミラに、会える。
最初に浮かんだ思いは、それだった。三年ぶりに、あの聖女の杖を持つ少女に。同じ食卓で粥を分け合った頃の、あの青い瞳に。
「リオン」
棚の整理を終えた頃、グレンヴァルドが背後で呼んだ。煎薬を漉し、瓶に詰める手の震えは、もう収まっていた。手順は身体が憶えている。三年で染み込んだ、補助係の手仕事である。
「お前は、なぜここへ寄越されたか、分かっておるか」
問いの意味が、すぐには掴めなかった。リオンは振り返る。老師は窓辺に背を預け、煙管の煙を細く吐いていた。皺の奥の瞳が、灰の中の熾火のように、いつもより深く揺らいでいる。
「……才のないわたしを、どこかに置く場所が、ここしかなかったから、では」
「ふん」
老師は短く鼻を鳴らした。煙管の先がかちりと歯に当たる音が、妙に大きく響く。窓の外で、風がひときわ低く唸った。乾葉の束が一斉に揺れ、棚の硝子瓶の中で乾いた種子がさらさらと位置を変えた。
「お前の父御は、わしの古い友であった。死に際、息子を頼むと言うたとき、あの男はもう一つ、奇妙なことを言うてな」
「父が、何と」
声が、自分の喉から出たものとは思えないほど細かった。父の顔は、もう輪郭しか覚えていない。荒れた両手と、胸に押し当てられたときの汗と鉄の匂い。それだけが、八歳の自分に遺された父の総量だった。
「『この子の身体には、人が触れてはならぬものが、一つ、眠っておる』——とな」
煎薬の湯気が、わずかに揺らいだ。リオンは手にした空瓶を取り落としそうになり、慌てて両手で抱え直した。硝子の冷たさが指先に食い込む。瓶の腹に映った自分の顔は、湯気で歪み、見知らぬ少年のもののように細く青ざめていた。
「師よ、それは——」
「分からぬ」
老師は首を振る。煙管の灰が、ぽつ、と石床に落ちて、小さく爆ぜた。
「分からぬから、わしはお前にひたすら草を煎じさせ、文字を写させた。眠っているものは、起きぬほうがよい。三年、お前の中の何かは静かに眠っておった。だが——」
煙管の雁首が、再び窓の外を指す。一筋の土埃は、もう塔の影に溶けるほど近づいていた。
「氷峰の鎖が切れた今、起きぬほうがよいものが、果たして、起きずに済むものか」
リオンは、自分の胸の中央に、そっと手を当ててみた。麻の薄い貫頭衣の下、肋の奥で、鼓動は、いつもの鼓動だった。乾いた、若い、十六歳の鼓動。だがその奥に、ほんの一拍だけ、違う打ち方の——もう一人の心臓のような——脈が、潜んでいる気がした。耳の奥で、北風の唸りと、その奇妙な脈とが、同じ拍子で重なっていく。指先が、自分のものではないように、わずかに痺れた。
押し花が、革袋の中で再びかさりと鳴る。ミラの忘れな草。あの少女の細い指。三年前、塔の門の前で、彼女はリオンの両手を包み込みながら言ったのだ。「離れていても、わたしたち六人は一つよ」。
——一つ、だろうか。
そう思ってしまった自分に、リオンは静かに驚いた。胸の奥で目覚めかけている何かが、もしミラたちにとって「触れてはならぬもの」だったとしたら。再会の喜びの裏側に、自分はいったい何を連れて行くことになるのだろう。煎薬の苦い香りが、急に鼻の奥で重たくなった。
塔の螺旋階段を、馬蹄ではなく、人の足音が駆け登ってくる。革鎧の擦れる音、息の上がった呼吸、剣帯の金具の鳴る音。伝令の若い騎士は、最上階の扉を叩きもせず押し開け、汗に濡れた紙片を差し出した。
「魔法使いグレンヴァルド殿、並びに弟子リオン殿! 王都ヴァルファロスより、勇者隊総監の名において、北征討伐隊への参陣を要請する!」
老師は無言で羊皮紙を受け取り、目を走らせ、それからリオンに渡した。
封蝋の朱が、ミラの祭服の縁取りと、同じ色だった。リオンは紙片を握り、塔の窓の外、北の彼方を見やる。氷峰の輪郭が、霜月の灰色の空に、ぼんやりと黒く浮かび上がっていた。
煎薬の匂いを、最後にもう一度、深く吸い込む。
そして、軋む木の梯子に、一段、足をかけた。