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鑑定不能の補佐役

第2話 第2話

第2話

第2話

夜が明けた。雪は止まず、宿の窓に薄く積もっている。 レイは寝台の縁に腰かけ、剣帯を留めていた。眠った気はしない。胸の奥の歯車は、まだ低く鳴っていた。 「補佐役さん、起きてる?」 扉の向こうから声がした。昨夜、毛布をかけてやった少年だ。 「ああ」 「水、飲みました。頭、平気です」 「なら、いい」 「あの……今日、ガレン様のとこ、行くんですか」 「行く」 「俺も……行ったほうがいいですか」 「来なくていい」 返事の間が空いた。少年は何か言いかけて、結局そのまま階下へ降りていった。レイは扉を見て、それから、剣の鞘を一度握り直した。 階下に降りると、宿の主人が湯気の立つ椀を押し出した。 「補佐役、今朝はミルク粥だ。ガレン様のツケでいいぞ」 「俺の分は別にしてくれ」 銅貨を三枚、卓に置く。主人は肩をすくめて受け取った。 「相変わらずだな」 「悪いな」 レイは粥を啜る。麦と塩。雪の朝に、ちょうどいい温さだった。 窓の外、ギルド本部の鐘楼が雪の向こうに霞んでいる。十一時の鐘が、低く鳴った。 (あと一時間か) 椀を空ける。指先が、わずかに冷たかった。冷たい、と感じた瞬間、爪の根に微かな熱が走った。雷の気配に似ていた。レイは握り直す。歯車を、もう一度奥に押し戻す。 「補佐役」 主人の声に振り向く。 「あんた、悪い顔してないけど、今朝はちょっと違うな」 「そうか」 「無理すんなよ」 レイは答えなかった。代わりに剣帯を肩で揺すり直し、雪の中へ出た。 石畳に靴底が沈む。雪はまだ柔らかく、足跡がそのまま残った。十年通った道だ。今日が最後になるかもしれない、とは、まだ言葉にしなかった。

ギルド本部の大広間は、いつもより人が多かった。 冒険者だけではない。教会の白衣が三人、商人ギルドの黒服が二人、それから領主の使者らしい青いマントの男が一人、壁際に控えていた。 レイは扉から二歩入って、止まった。 広間の天井は高く、梁から吊られた鉄燭台が、雪明かりの白さの中で揺れていた。蝋の焼ける匂いが、いつもより濃い。床の石は冷えきっていて、靴底越しに膝までその冷気が登ってきた。 中央の長卓に、ガレンが座っていた。隣にミラ。向かい側にギルド長。三人の前に、紙束が積まれている。昨夜、テーブルの下で見た紙束だ。 「来たな、補佐役」 ガレンが笑った。声が大きい。広間の隅まで届く声だ。 「呼ばれたから来た」 「立ったままでいい。すぐ終わる」 ギルド長が咳払いをした。喉の奥で、痰のような濁りが鳴った。 「ガレン殿、進めてよろしいか」 「ああ、頼む」 ギルド長が紙束の一枚を取り、声を張った。 「『黎明の剣』パーティ構成変更の件。本日付で、補佐役レイ、E級登録解除。同パーティから除名」 広間が、ひと拍、静まった。 冒険者たちの視線がレイに集まる。誰も声を上げない。誰かのジョッキが卓に置かれる音だけが、やけに大きく響いた。 「ついで、もう一件。聖女候補ミラ・アルディスの正式加入。教会本部の認定書、ここに」 ギルド長が二枚目を取った。教会の封蝋が陽に光る。 「さらに、もう一件」 ガレンが立ち上がった。ミラの肩に手を置く。 「俺ことガレン・ヴェイルと、ミラ・アルディスの婚約を、ここに発表する」 広間がもう一度、止まった。 レイは目だけを動かした。ミラの左手が見える。三日前まで指輪のあった薬指に、いま、別の指輪が嵌まっていた。金の輪だ。日焼けの跡を覆い隠すには、十分な太さの金だった。 ミラの手は、卓の上で震えていなかった。震えていない、ということが、レイには逆に冷たく映った。十年隣で見てきた手だ。剣を握る前、聖句を唱える前、ほんのわずかに指先が緊張する癖を、レイは知っていた。今日は、それがなかった。 「補佐役」 ガレンがレイの名を呼ばずに、役職で呼んだ。十年、ずっとそうだった。今日も、そうだった。 「お前は、もう要らない」 広間の空気が、ぴんと張った。 「十年、よくやってくれた。だが、ミラが正式に加入する以上、E級の補佐は要らない。聖女の聖魔法と俺の剣があれば十分だ。お前の役目は、終わった」 ガレンはレイに紙束を差し出した。除名通知、ギルド資格解除届、装備返納目録。三枚一組の、よくある書式だ。 「サインしろ。それで全部、丸く収まる」 レイは紙を受け取った。指先で紙の角を整え、卓に戻し、ペンを取った。 インク壺の中で、ペン先がわずかに震えた。震えたのは指ではない。胸の奥の歯車が、もう一度深く噛んだ。 「ひとつ、聞いていいか」 「なんだ」 「俺の婚約は、いつ解消された」 ガレンが笑った。 「ああ、それか。書類は先週出した。手違いで届いていなかったらしいな。ま、今日まとめて済ませよう」 「先週」 「そうだ」 レイは紙にサインを書いた。一画ずつ、ゆっくり。インクが紙に染みる音が、自分の鼓動より小さかった。

ギルド長が紙束を引き取り、封をする。封蝋の赤が、雪明かりの広間に滲んだ。 「装備の返納、頼む」 ガレンが顎で示す。広間の隅、係員が革袋を広げていた。剣、革鎧、ギルド章、宿代の控え。十年で増えた荷物の半分が、すぐに袋の口を埋めた。 レイは剣帯を外した。ガレンから貸与された、と書類上はそうなっている剣だ。レイ自身が買い替え、研ぎ直し、柄を巻き直した剣でもあった。袋に入れる。 革鎧を脱ごうとして、手が止まった。 ミラが、こちらを見ていた。 三日ぶりに、目が合った。昨夜の酒場よりも、ずっと長く、合った。 「ミラ」 レイは静かに名を呼んだ。十年で、二度目だ。一度目は婚約の夜、銀の指輪を渡した時。 ミラの唇が、わずかに開いた。 「……レイ」 「達者でやれ」 ミラが息を呑んだ。何か言いかけた。 ガレンが笑った。 「おいおい、湿っぽくなるなよ。ミラ、こいつとは違って、お前はもう聖女様だ」 「ガレン様」 ミラの声が、わずかに尖った。 「言わせて。──最後だから」 広間の冒険者たちが、ようやく息をする音を立てた。誰も動かない。教会の白衣三人も、領主の使者も、視線をミラに集めている。 ミラはレイに向き直った。 聖衣の裾が、足元の冷気にかすかに揺れていた。胸元の銀の聖印が、燭台の光を弾いて、白く点滅する。レイはその光を見ない。ミラの目だけを見た。澄んだ青の奥に、見たことのない色が沈んでいた。怯えでも、憐れみでもない。決着を急ぐ目だった。 唇を一度、引き結んだ。 喉が小さく動いた。ひと呼吸、ふた呼吸。広間の誰もが、その呼吸の数を数えていた。雪の落ちる音さえ、扉の外から滑り込んできそうな静けさだった。 それから、笑った。 笑った、と分かるまで、レイは数秒かかった。聖女の微笑みではない。冷たい笑いだった。十年隣にいて、見たことのない笑い方だった。 頬の筋が、ほんの少しだけ持ち上がる。歯は見せない。目が、笑っていない。──むしろ、目の奥が一段、暗く落ちた。それは、十年かけて溜め込んだ何かを、今この瞬間に手放す者の顔だった。 「正直に言ってもいい?」 「ああ」 「ずっと、怖かったの」 「俺が」 「ええ」 ミラは左手を持ち上げた。金の指輪が、雪明かりに光る。 「あなた、Eランクのはずでしょう。なのに迷宮の中で、いつも変な瞬間に、変な場所が氷漬けになってた。火が太くなってた。骸骨兵が止まってた。──説明、できないでしょ」 広間の冒険者の何人かが、息を漏らした。気づいていた者がいた、ということだ。レイは黙って聞いた。 背中に、視線が幾つも刺さるのを感じた。賞賛ではない。畏怖でもない。値踏みするような、距離を測るような、湿った視線だった。レイは肩の力を抜かなかった。抜けば、その視線に押し倒されそうだった。 「鑑定書は無属性、E級。なのに現場で何かが起きる。あれ、あなたがやってたのよね」 「……」 「答えなくていい。答えられないでしょ」 ミラの声が低くなった。 「私、聖女よ。来月、教会本部の認定が下りる。──得体の知れない補佐役と、これ以上隣にいられない」

ミラの言葉は、まだ続いた。 「ガレン様は気づいてないわ。でも、私には分かるの。あなたの周りの空気、ときどき、ぞっとするくらい歪むのよ」 「歪む」 「ええ。聖魔法を使うと、肌で分かるの」 ミラは一歩、レイから離れた。広間の床がきしむ。 聖衣の裾が、その一歩の分だけレイから遠のいた。十年、ずっと一歩半の距離だった。盾の射程と、聖句の届く距離。その境目に、いつもミラは立っていた。今、それが二歩半に広がった。広がった分の冷気が、レイの胸元を撫でた。 「だから──」 ミラは、もう一度、笑った。 「私、ずっと、危険物に近寄りたくなかった」 広間の空気が、凍った。 冒険者の誰かが、革鎧の下で身じろぎする音がした。教会の白衣の一人が、唇を覆った。領主の使者が、青いマントの内側で、ゆっくりと指を組み替えた。 壁際の燭台で、蝋の雫が一滴、石の床に落ちた。じゅ、と短く鳴って、それきり広間に音はなかった。誰かが咳払いをしようとして、やめた。誰かが視線を逸らそうとして、結局逸らせなかった。 レイは何も言わなかった。 ただ、革鎧を脱ぎ、係員の袋に入れた。袋の口が閉じる音。十年が、紐一本で結ばれて、閉じた。 革と汗の匂いが、最後にひと息分、鼻先をかすめた。冬の朝の凍りついた血の匂いも、夏の迷宮で滴った油の匂いも、その革には染み込んでいた。袋の口が絞られた瞬間、その匂いも、ぷつりと断たれた。 胸の奥の歯車が、もう一度、深く、ひとつ脈を打った。 今度は、押し戻さなかった。

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