第3話
第3話
広間の扉が閉まった。 レイは、雪の降り止まないギルド本部の正面石段に立っていた。背中には、十年積んできた装備の代わりに、薄い外套一枚と、係員から押しつけられた除名通知の写しだけがあった。扉の向こうから漏れていた笑い声は、もう聞こえなかった。 「補佐役殿」 背後から声がかかる。ギルド徽章をつけた書記官だった。痩せた男で、頬骨の上に細かい黒子があった。 「もう一件、こちらでお預かりするものが」 「なんだ」 「報奨金の精算と、ギルド預り金の返還です。広間ではお伝えしませんでしたので」 「分かった」 書記官は石段の脇、軒下に身を寄せて帳面を広げた。雪が落ちないよう、肘で覆いを作っている。インク壺の蓋を開ける指が、わずかにかじかんでいた。羽根ペンの先で、男は数字の列をなぞった。 「『黎明の剣』の口座より、十年分の補佐役の取り分が、こちらに記録されています」 帳面の数字を、レイは視線で追った。 ゼロの位置が、思っていたよりずっと、近かった。 「……これだけか」 「補佐役は、本来、ガレン殿の私的雇用です。パーティ報酬の取り分は、ガレン殿との合意で決まる、と」 「そう書いてあったか」 「契約書の写しは、こちらに」 書記官は別の紙を差し出した。十年前、レイがサインした書類だった。隅の文字が小さい。読まされた覚えはあった。読み込んだ覚えは、なかった。サインの線が、若くて、まっすぐで、何も疑っていない男の手跡だった。 「裏取りの上、本日付で全額をガレン殿に返金しております。貸付の名目で。十年分の宿賃、装備修繕費、食費、見習い時代の指導料。すべて」 「全額か」 「はい」 「で、俺の手元に残るのは」 「銀貨二枚です」 書記官は二枚の硬貨を、革袋の上で滑らせた。雪の上で、銀が二度跳ねた。跳ねた音は、思ったより高く、思ったより、空虚に響いた。 「身一つで関所までは、これで足ります」 「関所」 「除名された冒険者は、迷宮都市カラドの域外退去です。北の関所まで、護送がつきます」
護送と言いながら、騎兵ではなかった。 ギルドの傭兵が二人、馬を一頭、付けただけだ。馬には、レイの荷ではなく、書類袋が積まれていた。書類袋のほうが、レイの装備より、ずっと丁重に紐で縛られていた。 「補佐役、行くぞ」 傭兵の一人が顎で街道を示した。三十代、頬に古い切り傷。レイは知らない男だ。十年通った街で、こうもあっさり、知らない男に押し出される。 レイは銀貨二枚を、外套の内ポケットに落とした。落ちる音が、薄い金属の音だった。十年の音にしては、軽すぎる音だった。指先で硬貨の縁を一度なぞる。冷たい縁だった。 歩き出す。 雪の街道は、踏み固められていなかった。今朝の新雪が、足首まで沈む。傭兵二人は馬の轍の上を歩いていた。レイは、轍の外を歩かされた。一歩ごとに、ふくらはぎの裏に、雪の冷たさが噛みついた。 カラドの市門をくぐる時、門番が黙礼した。十年、毎週この門で頭を下げてくれた門番だ。今日、目を合わせなかった。 「補佐役、これ」 門番が、紙包みを一つ、雪の上に置いた。乾燥肉、らしい。レイが拾うのを待たず、門番は背を向けた。背中の肩甲骨のあたりが、わずかに張り詰めていた。 「ありがたい」 レイは紙包みを拾い、外套の内に入れた。傭兵が舌打ちをした。 街道を北へ。 迷宮都市カラドは、北壁を背にして築かれた街だ。北の関所までは、徒歩で半日。雪が深くなれば、丸一日かかる。今日は、丸一日のほうだった。 歩きながら、レイは気づいた。 肩が、軽い。 十年背負っていた剣がない。革鎧がない。ギルド章の重みがない。それは知っていた。だが、もうひとつ、別の何かが軽くなっていた。 胸の奥の歯車ではない。もっと上の方。鎖骨の上、首の付け根あたり。十年、そこに乗っていた、何か見えない錘が、ふっと、外れていた。 気のせいだ、と最初は思った。 半時間歩いた頃、傭兵の一人が振り向いた。 「おい補佐役」 「なんだ」 「お前、何か、してるか」 「いや」 「そうか」 傭兵は前を向いた。馬の鼻息が白く尾を引く。だが歩幅が、わずかに早くなった。レイから距離を取ろうとしている動きだった。馬の耳が、後ろに一度倒れて、また戻った。 雪が深くなる。風が出てきた。北西から、刃のように冷たい風が、外套の襟元を撫でる。撫でられた頬の皮膚が、しびれた。しびれた後、奇妙に熱くなった。熱さは、頬の表面ではなく、皮膚の二枚下、骨の上で生まれていた。 (また、これか) 胸の奥の歯車ではない、別の場所が、脈打った。今度は、首の後ろ、髪の生え際だった。雷の気配に似ていた。だが、雷ではない。もっと、根の深い、湿った熱だった。沼の底で何かが目を覚ました時の、あの匂いに近い熱だった。 レイは右手を、左の二の腕に当てた。十年、自分で押さえてきた場所だ。指先で皮膚を押すと、その下で、何か低く震えるものがあった。震えは、押さえれば押さえるほど、押し返してきた。
日が傾いた頃、関所が見えた。 丸太を組んだ柵に、青と銀の旗。辺境伯ヴァルドの紋章だった。関所の手前、街道脇に小さな番屋があり、煙突から細い煙が立っている。煙の匂いは、樫の木と、油と、長く薪をくべ続けた炉の匂いだった。 傭兵が馬を止めた。 「補佐役、ここまでだ」 「分かった」 「これより北は、辺境伯領。お前の身柄は、もうカラドのギルドの管轄じゃない。関所を抜けたら、戻ってくるな」 「戻らない」 「それと、これだ」 傭兵が、馬から書類袋を下ろし、中の一枚を引き抜いた。赤い封蝋。 「除名通知の正本だ。関所で渡せ。ガレン殿から、北側に達しが行ってる。お前を、辺境伯領の入域者として記録しろ、と」 「ガレンが」 「そう書いてある」 レイは封蝋を受け取った。蝋の感触が、外套越しでも分かるくらい、硬かった。指の腹に、紋章の凹凸が、はっきりと食い込んだ。 傭兵二人は、それで踵を返した。馬を引いて、来た道を戻る。雪の上に残った彼らの足跡を、新雪がすぐ埋め始めた。十年通った街への道が、半時間で見えなくなった。 レイは関所のほうを向いた。 柵の門は、半分開いていた。番兵が一人、槍を抱いて立っている。番兵はレイを見て、少し驚いた顔をした。「補佐役」と呼ばれない男が、十年ぶりに、ただの男としてここに立っていた。 レイは封蝋を差し出した。 番兵は受け取り、封を解き、目を走らせた。眉が、ひとつ動いた。 「……お前、これだけで来たのか」 「これだけだ」 「銀貨は」 「二枚」 番兵は、ふん、と短く息を吐いた。憐れみでも、嘲りでもない、ただの息だった。息は、白く、すぐに風に削られて消えた。 「通っていい。北側に村はない。最寄りの宿は、二日先のドール村だ」 「分かった」 「夜になる前に、街道脇に逃げ込め。森には魔狼が出る。Aランク級だ。素手で歩く距離じゃない」 「ああ」 「短剣も、ないんだろ」 「ない」 番兵は黙って、自分の腰の鞘から、革巻きの短剣を抜いた。差し出した。 「貸す、じゃない。やる。返さなくていい」 「いいのか」 「俺の私物だ。記録には残らん。──持っていけ」 レイは短剣を受け取った。柄の革は、汗で黒ずんでいた。誰かの汗だ。レイの汗ではない、誰かの十年が染み込んだ柄だった。手のひらに、その重さが、思ったより素直に馴染んだ。 「恩に着る」 「恩じゃない。お前の顔、見送るのが嫌なだけだ」 番兵はそう言って、目を逸らした。 レイは関所をくぐった。 柵の向こう、雪の街道は、もう踏み固められていなかった。轍はない。誰かが先に通った跡もない。一歩進むと、足が膝まで沈んだ。雪の冷たさが、布越しに、骨にまで届いた。 首の後ろの脈が、また震えた。 鎖骨の上の錘が、もう一段、ずれた。 レイは、初めて、自分の左手を見た。 指先が、ほんの少し、青白く光っていた。
気のせいだ、と十年なら、そう思った。 だが、今日は、そう思わなかった。 レイは右手で左手を覆った。覆った下で、青白い光が、ゆっくり脈打っていた。鼓動と同じ拍だった。胸の奥の歯車と、同じ拍だった。 (抑えてきた) 十年、抑えてきた。鑑定書に「無属性、E級」と書かれて以来、自分の中で何かが動こうとするたびに、首根っこを掴むようにして押さえつけてきた。仲間の足を引っ張らないために。Eランクの分際で、と言われないために。ミラの聖魔法の邪魔をしないために。押さえるたびに、胃の底に小さな苦みが落ちた。それを十年分、飲み下してきた。 押さえる相手が、もう、いなかった。 雪が深くなる。風が強くなる。森のほうから、低い遠吠えが、ひとつ届いた。遠吠えは、一頭ではなかった。遅れて、もう一頭。さらに遅れて、三頭目。森の奥行きを測るような、計算された間隔だった。 レイは短剣の柄を握った。 握った瞬間、左手の青白い光が、勝手に、もう一段、強くなった。脈の間隔が、短くなった。錆びた歯車が、押さえる手を失って、自分の重さで回り始めた音だった。歯車の歯が、十年分の錆を、一枚ずつ、内側から剥がしていく音だった。 レイは、短剣を構え直した。 口の端が、わずかに、動いた。 笑った、のかもしれない。 誰も見ていなかった。