第3話
第3話
歩き続けて、靴底の革が薄くなった感触が、踵で分かるようになった。
夜明け前の街道は、薄霜が降りている。踏むたびに、ぱきりと小さく音が鳴る。村を出て一晩、ほとんど休まずに歩いた。月が西に傾き、東の空が灰色に滲み始めていた。十五年、毎日畑に出ていたロイの足は、思ったより遠くまで持ちこたえている。
(……ここまでだな)
街道脇の岩陰に身を寄せて、革袋の中身を確認した。銅貨十二枚。井戸汲みの駄賃を二年かけて貯めた金だ。山下健治の換算で言うなら、たぶん一食二百円相当。十二枚で、安宿には泊まれない。野営前提の道のりだ。
腰を下ろした瞬間、太腿の裏が攣った。
「いって……」
声が掠れる。喉が、思った以上に乾いていた。村を出る時、水甕から汲んでくる余裕がなかった。掌を見下ろす。昨夜、夜露を一滴だけ作った感覚を、もう一度なぞる。
熱を消す。冷気を引き寄せる。指先に意識を集める。
(……来い)
掌の窪みに、小指の爪ほどの水が滲んだ。
二度、三度、繰り返す。十回目で、ようやく一口分が溜まった。舐めると、夜露と同じ鉄の味。胃に落ちて、ようやく腹が「水」だと認識した。
山下健治の脳が、淡々と評価を下していく。「水属性、出力極小。連続発動コスト中。井戸を持ち歩く真似はできないが、一日分の飲み水なら自給できる」。
それで充分だ。命綱は一本でいい。
東の空が白み始めた頃、街道の前方で、車輪の軋む音が聞こえた。
幌付きの荷車が一台、こちらに向かって近づいてくる。御者は四十がらみの男、隣に同年代の女が座っている。商人だ。大きな町から来て、小さな村を回る、行商人。
(……どうする)
岩陰で、ほんの一拍だけ迷った。山下健治の本能は「リスクを最小化しろ」と言う。けれどロイの足の裏は、次に水場が出るまで何里あるかを知らない。
立ち上がった。手を、低く挙げる。
「すみません。街道を一緒に歩かせてもらえませんか」
御者が手綱を引いた。馬がぶるりと首を振る。男はじろりと俺を見下ろし、額の傷で視線が止まった。
「兄ちゃん、その傷どうした」
「転びました」
「夜の街道で、一人で?」
「……家を、出たもので」
御者の隣の女が、肘で男を小突いた。
「あんた、放っといてあげなよ」
「いや、こっちは商売道具を積んでるんだ。妙な奴は近づけられん」
俺は袖を捲って、両手を広げて見せた。掌の井戸縄の胼胝、肘の内側に走る古い擦り傷、手首の細さ。隠さない。隠さないことが、今は一番安い武装だった。
「武器も、金も、ろくに持っていません。後ろから歩くだけでいい。隣町まで、人の気配があるだけで助かります」
男が、しばらく黙った。馬の鼻息が、白く立ち上る。やがて、ふん、と鼻を鳴らす。
「歩け。荷車の真後ろ、三歩離せ。それ以上近づいたら、石を投げる」
「ありがとうございます」
頭を下げた。山下健治の二十九年で身についた、感情を乗せない頭の下げ方だった。角度は四十五度、戻すのは一拍置いてから。客先で揉めた時の、最も摩擦の少ないお辞儀。
歩き出す。荷車の車輪が、街道の砂利を均していく。その後ろを、俺は規則正しい歩幅で追った。三歩の距離、絶対に詰めない。詰めれば警戒される、離れすぎれば「ついてくる気がない」と思われる。三歩は、相手の視界の端に入り続ける、最適な間合いだった。
幌の隙間から、女が時折こちらを見る。最初は警戒、二刻もしないうちに同情、半日経った頃には、後ろを歩く青白い顔の少年が哀れに見えてきたらしい。視線の温度が、半日かけてゆっくり下がっていくのが、俺の頬の皮膚で分かった。
昼過ぎ、街道脇の楡の根元で休憩になった。女が、布に包んだ堅パンを一つ、地面に置いた。
「拾いな。あんた、朝から何も食ってないだろ」
「……いいんですか」
「うちのは、この街道沿いの薬草を集めて回ってる。あんた、目利きできるかい?」
(——来た)
ロイの十五年が、即座に反応した。村の南端の畑、芋の育ち方を見抜いた、あの感覚。土の盛り上がり方、葉の色の濃淡、虫食いの位置。見れば、答えが先に喉まで上がってくる。
街道脇の草むらに目をやる。葉の形、茎の太さ、根元の土の湿り具合。陽の入り方で葉裏の銀色が反射する角度。
「あそこの岩の下、三葉のやつ。あれ、止血草です。傷の治りが早くなる」
「……ほう」
御者の男が、初めて顔を上げた。
「もう一つ、向こうの倒木の根元、白い小花のやつ。あれは熱冷ましで、根が太い時期です」
男が立ち上がって、確かめに行った。膝で湿った苔を踏み、葉を一枚千切って噛む。眉が、確かに動いた。
「兄ちゃん、これ、誰に習った」
「親父、自警団長でして。獣の傷の手当てに、いつも使ってました」
嘘ではない。半分本当だ。残りの半分は、健治の脳が「葉脈の対称性」だの「採取適期」だのを勝手に補完していた。
「採れるだけ採ってくれ。報酬は、銅貨二枚」
「四枚で」
口が、勝手に交渉していた。山下健治の値切り癖だった。常駐先の請求金額を、いつも一割上乗せして提示していた、あの反射。
男が、初めて笑った。歯の隙間が黄ばんでいる。長年、街道の風と煙草で焼けた歯だった。
「三枚だ。それ以上はうちの儲けが消える」
「決まりです」
掌に、銅貨が三枚増えた。汗で湿った金属の重みが、肋骨の内側まで沁みた。
夕暮れまでに、薬草を両腕いっぱい採った。荷車に積んでもらい、俺は変わらず三歩後ろを歩く。陽が赤く傾いた頃、街道の先に、街の輪郭が見え始めた。
石壁。三層に重なった屋根。煙突から立ち上る、夕餉の炊煙。
「あれが、ガレドの町だ」
御者が、振り向きもせずに言った。
「ギルド、あるんですよね」
「中央広場の、北側だ。看板に剣と杯の紋章が描いてある。迷うことはない」
「……ありがとうございます」
門が近づく。衛兵が二人、長槍を持って立っていた。荷車は通行料を払って通った。俺の番が来る。
「身分を示すものは」
「ありません。村を出た者で、ギルドに登録に行きます」
衛兵が、額の傷を見た。それから、俺の節くれ立った手を見た。
「入場料、銅貨一枚」
「払います」
掌から一枚、衛兵の革袋に落とした。残り、十四枚。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
人の匂い。揚げ物の油。馬糞。汗。それから、香辛料の鋭い匂い。十五年、村の藁の匂いしか嗅いだことのなかったロイの鼻が、一斉に情報を浴びる。眩暈がした。山下健治の脳が即座に補正を入れる。「終電後の新宿駅より薄い。問題ない」。
中央広場まで歩いた。石畳に夕陽が長く落ちている。噴水の水音、その北側に、二階建ての石造りの建物が見えた。剣と杯の紋章。
冒険者ギルド。
入口の階段に、夕陽が当たっている。出入りする人影、革鎧、金属の擦れる音、男たちの笑い声。山下健治の知っている、安居酒屋の入口の喧騒に似ていた。けれどその中に、ロイの十五年が嗅ぎ取る別の匂いがある。鉄錆と、獣の血と、薬草の青い匂い。
階段の下で、俺は一度だけ立ち止まった。
掌の中、銅貨十四枚が汗で温まっている。
頭の中で、淡々と段取りを並べた。
(一、登録時、適性は最低限しか出さない。神官の村のように、安い水晶ならゼロ判定で済むかもしれない)
(二、出てしまった場合は、装って驚かない。社畜時代、成果を奪われない最善の方法は、最初から成果を見せないことだった)
(三、ランクは、絶対に最低)
息を吐いた。
階段に、足をかける。一段、二段、三段。木の扉に、掌を当てた。古い樫の、乾いた手触り。村の井戸の桶の縁と、似た硬さだった。
扉を、押した。
蝶番が低く軋み、内側から、酒と煙草と汗の匂いが噴き出してくる。十数人の冒険者の目が、一斉にこちらを向いた。革鎧、剣、弓、杖。誰もが、俺の額の傷と、痩せた身体と、井戸汲みの掌を、一瞬で値踏みする。
カウンターの奥、若い受付嬢が、書類から顔を上げた。
口元が、すぐに笑いに崩れる。
「あら……ご新規さん? 何のご用かしら、坊や」
「冒険者登録、お願いします」
声は、思ったより低く出た。山下健治の二十九年と、ロイの十五年が、一つの喉を通って、初めて外の世界に届いた音だった。
受付嬢の手が、棚の登録水晶へ伸びる。透明な石が、夕陽を受けて、静かに光った。