第2話
第2話
風が、額の傷に直接当たった。
夜の空気は、井戸水より冷たい。外套も持たずに出た俺の身体を、針のように刺してくる。村の灯りはもう背中側にしかない。前方は、月明かりだけが頼りの細い街道だ。山下健治の記憶では、こういう時に「徒歩三日」とか言われると即座にスマホで距離を検索した。ここにスマホはない。地図もない。あるのは、掌の中で温まり始めた銅貨十二枚と、十五年分のロイの足の裏の感覚だけだ。
一歩、二歩。
砂利を踏む音が、自分の鼓動と同じ速さで耳に届く。村の外を一人で歩くのは、初めてではない。獣を追って境界の森まで行ったことは何度もある。けれど、戻る場所のない一歩は、初めてだった。
頭の奥が、また鈍く疼いた。
(……まだ、続いてるのか)
膝から力が抜けそうになって、街道脇の杉の幹に肩を預けた。樹皮のささくれが頬に触れる。痛い、と思う前に、別の景色が割り込んでくる。
——終電後のオフィス。蛍光灯の白。プリンターから吐き出される紙の温度。誰もいないフロアで、シュレッダーが回る音。
——コピー機の傍で立ったまま食う、二百八十円の唐揚げ弁当。冷たい。米の角が立っている。
——胃が痙攣する瞬間、ワイシャツの第二ボタンを掴む自分の指。爪が、剥がれかけている。
ロイの十五歳の指は、その爪を覚えていない。けれど、頭の中の指は、確かに剥がれかけた爪の感触を知っていた。二つの記憶が、皮膚の同じ一点で交差している。健治のものでもなく、ロイのものでもない、新しい違和感が、指先から肘へ、肘から肩へと、波紋のように広がっていく。
「……はは」
声に出して、自分で驚いた。乾いた笑いが、夜の街道に転がる。一回笑うと、止まらなかった。
「はは、はははっ」
肩が震える。額の傷が引き攣れるたび、声が掠れる。腹の底から、別人の笑いがせり上がってくる。山下健治の二十九年と、ロイの十五年。どちらも、理不尽に踏まれて終わった。一度は会議室で吐血して、一度は石を投げられて。それで二度目の人生まで「無能」のレッテルを貼られたら、もう笑うしかない。
笑い声が止んだ時、頭の中が、奇妙に澄んでいた。
杉の幹からずり落ちるように、地面に座り込んだ。月明かりが、街道の砂利を白く光らせている。膝を抱えて、膝頭に額を載せた。傷の痛みより、頭の中の整理の方が先だった。
(まず、確認しろ)
業務の引き継ぎを受ける時、最初にやることは現状把握だ。山下健治の脳が、淡々と段取りを並べていく。
(一、ロイの十五年で、できたこと)
井戸を汲む。薪を割る。畑の畝を真っ直ぐ引く。獣の足跡を読む。雨の前夜の風の匂いを当てる。隣家の鶏の卵が、いつ孵るか言い当てる。畑の南端にだけ、なぜか芋がよく育つ理由を、土の手触りで説明できる。
——これが、適性ゼロの子どもにできることか?
(二、神官の判定方法)
額に指一本、一秒。それで「ゼロ」。
社畜時代に何度も見た。形だけの面接、形だけの査定、形だけのコンプラ研修。判定する側が結論を先に持っている時、手続きは儀式になる。神官の指が一秒で離れたのは、見ようとしていなかったからだ。あの白い衣の襟元、よく見れば擦り切れていた。袖口に、安い染料の青が滲んでいた。中央から派遣される一級神官なら、あんな衣は着ない。あれは、地方の村が年に数枚の銀貨で雇える、最下級の判定屋だ。
(三、では、なぜ俺は「無能」だったのか)
膝頭に額を押し付けたまま、息を整えた。
「測り方が、間違ってる」
夜の街道に、自分の声が響く。月明かりの下では、声まで白く見える気がした。
「あの神官の指は、たぶん、一種類の魔力しか測れない。村が代々雇ってきた、安い神官だ。複雑な属性は、判定できない」
声に出して整理すると、点と点が繋がっていく。山下健治が、安い外注業者のレポートを精査する時の手つきだった。「この数値、本当に取りましたか?」と詰める時の、あの淡々とした冷たさ。
(——だとしたら)
ゆっくり、右の掌を目の前に上げた。月明かりに、節くれ立った指が浮かぶ。十五年、土と水と薪に晒され続けた指だ。爪の根元には、洗っても落ちない畑の黒土が薄く残っている。掌の中央に意識を集める。十五年、ずっとあったはずの何か。村の井戸の水を冷たく感じる時、獣の気配を背中で感じる時、ふと働いていた、名前のない何か。胸の奥、肋骨のすぐ裏側に、小さな澱みのようなものが沈んでいる。それを、指先まで引き上げる——その感覚は、井戸の桶を引く動きにそっくりだった。
「——熱、だ」
掌の中心に、針の先ほどの熱が灯った。
赤くもない。光ってもいない。けれど、確かに、皮膚の内側に小さな熱源が生まれた。火傷するほどではない。けれど、ゼロではない。絶対に、ゼロではなかった。指の腹の下、骨の手前のあたりで、何かが小さく脈打っている。それは、走った後の鼓動のように、規則正しかった。
「……はっ」
今度は、笑いではない息が漏れた。喉の奥が震えて、その震えが、そのまま掌の熱と共鳴するような気がした。
熱を消そうとしたら、簡単に消えた。蝋燭の芯を指で摘むのと同じ、ためらいのない手応えだった。もう一度灯そうとしたら、今度は左の掌にも灯った。両手で同時にやろうとしたら、両方点いた。試しに足の裏に意識を回したら、足裏まで温かくなる。冷えた地面の砂利が、急に少しだけ柔らかく感じた。靴底越しに、土が呼吸しているような錯覚さえあった。
(——属性、複数いける)
息を呑んだ。
熱を消して、今度は別のことを試す。掌の上に、小さな水滴を作ろうとした。最初は何も起きなかった。空気の中の何かを掴もうとして、指が空を切っただけだった。けれど、井戸を汲む時の、水を引き寄せる感覚を思い出して指を動かしたら、指先に一滴、夜露のような水が滲んだ。月光を受けて、その一滴が、宝石よりも静かに光った。舌先で舐めると、確かに井戸水と同じ、鉄の混じった味がした。
風。風はもっと簡単だった。前髪が、自分の意志で揺れる。続けて、掌の上の砂粒が一つ、ふわりと宙に浮いて、また落ちた。
光。掌の上に、蛍ほどの光が浮かんで、消える。一瞬だけ、自分の節くれ立った指の影が、地面に落ちて、すぐに月の影に紛れた。
——四つ。確認しただけで、四つ。
膝の上で、俺は静かに息を整えた。喜びも興奮も、奇妙に薄かった。山下健治の脳が、業務評価のリストを淡々と更新していく。「全属性適性、暫定確認。ただし出力は微弱。原因は十五年の不使用による筋萎縮と仮定」。鍛えれば伸びる。それは、社畜時代に新人を見ていた目で、自分自身に下した評価だった。
ふと、笑いが戻ってきた。さっきの乾いた笑いとは、違う温度の笑いだった。喉の奥が、ほんの少しだけ温い。
「神官さん、あんた、本気でゼロ判定したの?」
夜の街道に、もう一度声が響く。
(これを、村に戻って見せたら、どうなる)
——間違いなく、搾取される。
山下健治の本能が、即座に答えた。社畜時代、優秀な後輩が一人いた。仕事ができることを公言した瞬間、上司の案件が全部その後輩に振られた。サービス残業で潰れて、半年で辞めた。彼の名前を、まだ覚えている。最後に給湯室で会った時の、目の下の青い隈の色まで、覚えている。
(派手にやれば、必ず搾取される)
ロイの父の顔が浮かぶ。継母の顔が浮かぶ。村長の顔が浮かぶ。あの神官の白い衣も。誰一人、俺の力を見つけたとして、俺のために使ってはくれない。
立ち上がった。砂利を踏む音が、さっきより少しだけ軽い。
(隠す)
掌の熱を消し、水滴を払い、風を止めた。光を、最後にもう一度だけ瞬かせて、消した。指先に残った湿り気を、麻のシャツの裾でそっと拭う。何事もなかったように、両手を腰の横に下ろす。その仕草の自然さが、自分でも怖いくらいだった。
(隠して、最低ランクから始める。ゆっくり、目立たないように、自由を買う)
街道の先、月の照らす方向に、隣町の灯りは、まだ見えない。けれど、方角は分かっていた。山下健治の二十九年が、初めて、ロイの十五年の身体の中で、役に立つ気がしていた。
夜風が、また額の傷に当たる。
今度は、もう、しみなかった。傷の上に、掌をかざす。微かな熱を、皮膚の表面だけに通す。痛みが、ゆっくりと引いていった。血の固まりが、温められて柔らかくなる。指先で拭うと、赤いものが、薄くなっていた。傷口の縁が、ほんの少しだけ閉じたようにも見えた。月光の下で確かめるには微妙な変化だったが、指の腹に伝わる皮膚の張りは、確かに先刻とは違っていた。
「治癒——も、いけるのか」
呟いた声に、もう驚きはなかった。確認する声だ。チェックリストに線を引く声だ。
街道の先で、何かが鳴いた。獣の声ではない。夜鳥の声だ。山下健治の知らない鳴き声を、ロイの耳が、ちゃんと識別していた。短く二度、間を置いてもう一度——あれは夜目鳥、雨の少ない晴れた夜にだけ鳴く種類だ。明日も天気は崩れない。三日の道のりを濡れずに歩ける。二つの脳が、ようやく一つの身体の中で噛み合い始める音がした。
歩き出す。
最初の一歩は、村を出る時より、踵が深く土を掴んだ。三日後、隣町のギルド。受付で何を言うかは、もう決まっている。
「冒険者登録、お願いします。ランクは——一番、下で結構です」
夜の街道に、足音だけが続いた。