第1話
第1話
額に石が当たり、皮膚が裂けた。
左目に血が流れ込む。口の中に鉄の味が広がる。十五の成人の儀、神官が読み上げた俺の魔法適性は——ゼロ。
「無能だ、無能のロイだ!」
子どもらが石を投げる。大人たちは止めない。神官の白い衣が太陽に光った。村長が一歩前に出る。
「セルダ家から無能が出るとはな。ロイ、村に魔力なき者を養う余裕はない。今宵限りで、お前は村の名簿から外れる」
石畳に膝をつき、左目を押さえた。指の間から赤が滴る。痛みより先に、喉の奥に苦いものがせり上がる。十五年だ。十五年、毎日、村の井戸を汲み、薪を割り、畑の石を拾った。それで食えていたのは、父が自警団長だったからだ。今夜から、それも消える。
「父さん」
呼んだ声が、思ったより細く出た。人垣の奥、革鎧の幅広い肩が、一瞬だけ止まる。
「ロイ」
父はこちらを見ない。
「お前は今夜から、私の息子じゃない。儀の結果だ。誰も恨むな」
それだけ言って、父は土を蹴って歩き出した。腰の自警団長の短剣が、夕日に光って遠ざかる。
(……ああ)
血の混じった唾を吐き捨てた。立ち上がろうとして、もう一発、肩に石が当たる。
「神様の選別だ! 無能は村を出ろ!」
隣家のヨナの声だった。三日前まで一緒に魚を釣った。今、その手には握り拳大の石。
ふらつく足で、人垣の隙間を縫う。村外れの小屋まで、誰も追ってこない。誰も呼び戻さない。
小屋の戸を、内側から閂で閉めた。
藁の匂い、土の匂い、それから雨漏りで湿ったかび臭。窓は一つきり、油紙で塞いである。冬は風が通り抜け、夏は熱が籠る。母が死んだ六歳の冬から、俺の寝床はここだ。母屋の二階には、父と継母と、半分血のつながった弟が住んでいる。
水甕の縁に左目を押し付けて、血を洗った。冷たい。傷口が引き攣れる。指で触った感じでは、眉の上が深く切れていた。針と糸はあるが、自分で縫う気力はない。水面に映った自分の顔を見下ろす。左半分が赤黒く濡れ、唇は紫がかって震えていた。十五歳の少年の顔。痩せた頬、伸びかけた前髪、それから、もう泣くことも忘れた目。
藁布団に膝を抱えて座る。
(あの神官、何を見たんだろうな)
成人の儀では、神官が額に手を当てて魔力を測る。俺の場合、神官の指は一秒も置かれなかった。「ゼロだ」。それだけ言って、神官は次の少年に移った。一秒。十五年の人生が、一秒で値踏みされた。神官の指先は、ひんやりとして、汗ばんでいなかった。あの指は、何人もの子どもの額に触れて、何人もの未来を決めてきた指だ。慣れた手つきだった。慣れすぎていた。
腹が鳴った。今朝は粥を半膳しか食えなかった。継母が「儀のあとはご馳走を出してやる」と言った。あれは皮肉だったのか、本当に父は俺を祝う気だったのか。どちらでもいい。
膝の上で、両の拳を握る。爪が掌に食い込んだ。掌の皮は厚い。十五年、農具を握り続けた皮だ。魔法が使えなかったから、その分、身体を動かした。畑を耕し、井戸を汲み、村の自警団に混じって獣を追い払った。役に立っていた、はずだ。
(なのに、俺は無能だってさ)
笑おうとして、頬が痛んだ。石が当たった頬骨だ。
外で、小屋の戸を蹴る音がした。
「無能! まだ村にいるのか! 出てこい!」
返事はしない。返事をすれば、また石が降る。息を殺して、藁の匂いの中に身を縮めた。靴音が三人分。やがて遠ざかる。木戸の板に泥のついた靴跡が一つ、夕日の赤に浮かんでいた。あれは隣家のヨナの靴か、それとももう一人別の誰かの靴か。判別する気力もない。
戸の隙間から、夕日が差し込んでいた。赤い線が、土間を斜めに切る。
考えなければならない。隣町まで三日。路銀は銅貨が四枚。父の小銭入れから抜くか? 抜けば追手がかかる。抜かなければ、隣町に着く前に飢える。どっちにしろ、座っているだけでは何も始まらない。
立ち上がろうとした、その時——。
頭の奥で、何かが弾けた。
「——っ!?」
額の傷とは違う場所が、内側から殴られたように痛む。視界が白く焼けた。藁布団に膝をつき、両手で頭を抱える。脳が膨らむ。後頭部から眼球の裏まで、熱い針が貫通した。耳鳴りがする。鐘を頭蓋骨の内側で打ち鳴らされたような、金属質の反響。歯を食いしばっても、その音は止まらない。舌を噛みそうになって、慌てて奥歯の間に布団の端を挟んだ。それでも頭蓋の裏側で、何かが破れる。膜が、層が、十五年分の薄い壁が、内側から押し破られていく感触。
そして、流れ込んできた。
——蛍光灯の白い光。 ——液晶画面に並んだ数列。 ——「お前、まだ帰れると思ってんの?」と頭上で響く課長の声。 ——コンビニのおにぎりの包装フィルム。剥がす指が震えている。 ——終電の窓に映った自分の顔。落ち窪んだ目、伸びた無精髭、二十九歳。 ——タクシーの後部座席で意識が遠のく直前の、運転手の「お客さん? お客さん?」。
誰の記憶だ。誰の。
(俺の、だ)
そう認識した瞬間、もう一度、頭の中で何かが繋がる音がした。会社員、山下健治。三年連続、月の残業二百時間。胃に穴。最後は会議室で吐血して、救急車で運ばれて——そこから先が、白い。色も音もない。記憶の終端は、ぷつりと切れたフィルムのように、続きがなかった。
膝の上で、息が切れていた。汗が藁布団に落ちる。心臓が、肋骨の内側で暴れている。山下健治の二十九年。ロイの十五年。二つの時間が、一つの頭の中で重なり、押し合い、ねじれて、それでも、ばらばらにはならなかった。むしろ、二つの記憶は奇妙な順序で整列していった。井戸を汲む手の動きと、エクセルのセルを埋める指の動き。獣の足跡を読む目と、上司の機嫌を読む目。畑の畝を真っ直ぐに引く感覚と、報告書の行間を整える感覚。別の世界の、別の身体で覚えた所作が、同じ一つの神経を通って繋がっていく。
ゆっくり、顔を上げた。
油紙の窓から差し込む夕日。土の匂い。藁の匂い。ロイの十五歳の身体。額の傷の引き攣れ。それから、山下健治の二十九年と、月の手取り十八万と、上司の罵声と、潰れる前の胃の痛みと——全部、同じ頭の中にある。
(……死んだのか、俺)
声に出す気力もなかった。代わりに、笑いが漏れた。乾いた、息の混じった笑いだった。
「ああ」
掠れた声で呟いた。
「……俺、また踏みつけられてんのか」
ブラック企業で潰されて。転生してきた先で、また「無能」と石を投げられた。一族の長の長男に生まれて、十五年養われて、適性ゼロで切り捨てられた。神官が一秒で値踏みした。
何かが、おかしい。
山下健治の頭脳で、ロイの十五年を見直す。村の井戸を汲める身体。獣を追い払った反射神経。畑の生育を見抜いて、収穫を二割増やしたあの夏。それを、適性ゼロ?
「いや、待て」
低く呟いた。掠れた喉が、別人のもののように響く。
「井戸を汲む腕力、獣の動きを読む目、作物を選別する勘。あれが全部、ゼロのわけがない」
声に出すと、頭が冷えていく。山下健治の脳が、業務評価でもするようにロイの能力を整理していった。月次レポートを作るときの、あの淡々としたリズムだ。数字を並べ、根拠を添え、結論を出す。感情を挟まず、ただ事実を積み上げる。それが、十五年間殴られ続けたロイの身体の中で、初めて起動した。掌の汗が引き、呼吸が深くなる。怒りでも悲しみでもない、ただ「この案件を片付ける」という事務的な温度が、胸の中に降りてきた。
「神官は、魔法じゃない何かを見落としてる。あるいは——」
ゆっくり立ち上がる。膝に力が入った。藁布団から立つだけの動作が、社畜の頃と全然違う。腰が軽い。視界も澄んでいる。十五年、毎日畑に出ていた身体は、二十九歳のデスクワーカーの身体とは違う生き物だった。
「測り方の方が、間違ってる」
外はもう暗い。村の灯りが遠く見える。母屋の方では、おそらく今頃、父が継母と弟と夕食を食っている。
戸の閂に手をかけたまま、もう一度小屋を見回した。藁布団。水甕。錆びた鎌。十五年使った木の食器。
——全部、置いていく。
水甕の底から、隠していた革袋を引き抜いた。中身は銅貨十二枚。井戸汲みの駄賃を、二年かけて貯めた。父の小銭には手をつけない。借りも作らない。
閂を外し、戸を押し開けた。夜気が額の傷に染みる。隣町まで三日。歩く方向は、もう決まっている。
ギルド、というものがあるらしい。山下健治の記憶が言っている。
——派手にやれば、必ず搾取される。
「だったら、目立たないように稼ぐ」
息を吐いた。最後に一度だけ、母屋の灯りを振り返る。それから踵を返し、村の外へ続く道に、最初の一歩を踏み出した。