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星の名を呟く子と絆の刻印

第1話 第1話

第1話

第1話

最初の石は、十二歳のリオンの左頬を裂いた。

祭礼の泥をたっぷり含んだ小さな礫で、痛みより先に冷たさが皮膚に滲み、鉄錆と藁の苦みが、舌の奥にじわりと広がる。 ヴェルナ村、冬の祭礼の夜だった。薪と獣脂を焦がす匂いが、谷あいの空気を黄色く染めている。篝火の周りでは、葡萄酒を分け合う大人たちと、聖域の祭文を諳んじる子どもたちが、円になって踊っていた。リオンはその円の外、岩礁のような暗がりに立っていた。火の温もりに、ただ手のひらを向けていただけだ。それだけのことで、礫は飛んでくる。 「呪われ子だ」 「祭りの晩に、あれが顔を出すんじゃない」 声は誰のものとも分からない。生まれてから十二の年を、この村で数えてきた。七年前に拾い親の老婆が冬病で逝ってから、リオンの周りで誰かが名を呼ぶことは、ほとんどなかった。呼ばれるとすれば、名ではなく、その肩書のような言葉だった。 円のなかでは、村長の娘アンナが祭神の名を高らかに唱え、若者たちが太鼓を打ち鳴らしている。リオンの目には、その明るさは、雪の降り積もった硝子越しの絵のようだった。十二の歳になっても、彼にはあの円の内側で踊る作法が分からない。誰も教えなかったし、誰も呼ばなかった。 リオンは両手の甲で頬の泥を拭い、二度目の石が飛んでくる前に、円から音を立てずに身を引いた。指の節は、北のエルディア山脈から下りてくる風で固く冷えていた。 雑木林の小道を、黙って上る。長靴の底に湿った落ち葉が貼りつき、足音は布で包まれたように殺される。雲の隙間から、まだ薄く星が見えていた。 胸のあたりが、なぜか焦げたように熱かった。石をぶつけられた頬よりも、襤褸の下のその一点だけが、火を当てたように脈を打っている。

裏山の岩場には、人が腹這いになれるほどの平らな石が、東を向いて寝ている。 リオンはそこへ毎晩のぼった。冬の岩は石灰の粉を吹いて白く、肘をつくと粗い棘が肌に刺さる。だが、痛みは慣れた。痛みは、いまの彼にとって、自分が確かに生きている目印だった。 腹這いに伏し、空を見上げる。 石灰の冷たさが襤褸を貫き、肋骨のあいだまで染みてくる。だが、空の高さに目を慣らしていけば、その寒ささえ、星を見るための儀式の一部のように思えてくるのだった。雑木林の梢が風に擦れ、乾いた音を立てるたび、闇の天蓋が一段ずつ高くなる気がした。 「……北辰アルクトス。その下、緑にひとつ瞬くのが、剣のヴェガ。さらに東へ三つ並んだのは、いにしえの三姉妹星」 言葉は息に混じり、白く昇った。十二の冬の夜気は、口の中まで凍らせる。 村の麓で鳴っているのは、聖アンセルム教会の鐘だった。風向きによっては、岩場まで届く。鐘の余韻が雑木林を渡るあいだだけ、リオンは自分が誰かに呼ばれている子のように錯覚することができた。 行商の老人――名を、ガレルといった――は、二年前の夏、雷雨に追われてヴェルナの納屋に転がり込んだ。半月ほどの宿賃の代わりに、老人はリオンに、磨いた銀の盤を持ち出して星の名を教えた。エルディアと呼ばれるこの大陸の北の端では、星々はみな、いにしえの神々と古き王の名を冠している、と老人は皺だらけの口で言った。 「人の名前というのは、勝手に消えたり奪われたりするものだが」 肝の悪い茶を啜りながら、老人は言ったものだ。 「星の名前は、千年経っても、ずれぬ。お前のような子には、星の名のほうが、人の名より先になつくよ」 そう言うガレルの目尻には、深い皺が幾重にも重なっていた。リオンはその皺の数だけ星の名前を覚えようと、心のなかで密かに数えたものだ。皺の一本一本に、老人が渡ってきた土地の名と、見上げてきた夜空の枚数とが、刻みつけられているように思えた。 育ての老婆――村人は「ばあさま」と呼んだ――が、教会の門前に置き去られていた赤子からリオンを拾ったのは、十二年前の春の話だ。詳しい事情は、ばあさまが冬病で逝く間際まで語らなかった。 「お前の親は、たぶん、このヴェルナの者じゃないよ」 枯れた指でリオンの髪を撫でながら、ばあさまはそう言った。「だから、お前は、お前の名を、星に教えてもらいなさい」 それきりだった。 ばあさまが死んでから、リオンの食卓は薪割りの駄賃と、村の女衆が憐れみで戸口に置いていく硬パンと玉ねぎでできている。納屋の屋根は半分落ちかけ、雨の夜は古い荷桶を頭の上に置いて眠った。火を絶やさぬよう、夜中に二度起きて薪をくべるのが、もう何冬越しの習わしだろう。納屋の地下にはばあさまが残してくれた銀の燭台が一本だけ藁の下に埋まっていて、月に一度、それを掘り出して藁布で磨くのが、彼の唯一の財産との対面だった。 それでも、岩場で星の名を呟くこの時間だけは、リオンは自分のことを「呪われ子」と呼ばなかった。 彼方の星々が、いまだ名を持たぬ自分の代わりに、夜のすべてに名を授けてくれている。そう思うことで、夜は短くなった。 胸の熱は、今夜は妙に強い。 リオンは襤褸の襟を緩め、鎖骨の下に手を差し入れた。皮膚はじっとりと汗ばんでいる。冬の夜だというのに、汗である。 そのとき、北の空のいちばん深いところで、雨の匂いがふと立った。土と苔と、岩の奥に閉じ込められていた古い水の匂いだった。 鼻の奥で、リオンはそれを「いつもの北風とは違う」と感じ取った。

長雨は、その夜から始まった。

夜半に屋根の隅から滴り始めた水は、明け方には納屋の床に小さな池をつくり、二日目には、村のどの軒先からも糸が垂れた。三日続いて雨は止まなかった。北のエルディア山脈の雪が、季節外れの暖気で溶け、泥となって渓谷に下りているのだ、と村の老人たちが軒先で囁き合った。 リオンは納屋にこもって、薪を割るしかなかった。雨に濡れぬよう天井の梁の下に並べた薪を、斧の柄を握り直しては割り、また並べる。手のひらの皮はとうに豆を超えて固くなっているが、湿った木は重く、斧の重さがいつもの倍ほどに感じられた。 二日目の昼、村の若衆の一人が、頭巾を深く被って戸口の前を通り過ぎたが、リオンと目を合わせなかった。三日目の朝には、村の南端へ続く荷車道が、泥の川になって流された、とどこからともなく噂が届いた。 三日目の夜だった。 最初は、雷だと思った。 納屋の壁が、空気の弦を弾いたように鈍く震えた。続けて、地の底から低く長い音が立ち上がってくる。リオンは斧を放り出し、片膝をついて床板に耳を当てた。木目を通して、確かに「岩同士が滑り合う音」が、足の裏まで届いた。 床板の冷たさを越えて伝わってくるその振動は、まるで地の底で巨大な獣が寝返りを打ったかのようだった。リオンの指先が、無意識のうちに胸の熱い一点を押さえる。汗は冷えて背筋を伝い、襤褸の繊維が肌に貼りついて離れない。 ずぅ、と何かが尾を引いて唸る。家畜小屋の山羊たちが、それに合わせて、子の声で鳴いた。 リオンは思わず後ずさり、納屋の柱に背中をぶつけた。 村のほうで、犬が一斉に吠えた。 戸口の隙間から外を覗く。雨は灰色の縦糸となって視界を埋めている。だが、北の方角――村の北壁を越えた先、誰も近づかぬ渓谷のほうから、闇のなかに、青白く明滅するものが、ぼう、と一つ滲んで見えた気がした。 ――いま、見間違えたか。 思わず瞼を擦る。視界の青はすぐに雨に溶けて消えた。だが、胸の熱だけが、はっきりと脈を打った。祭りの夜から、ずっと灯し続けている、その同じ場所だった。 谷の奥から響くのは、もはや雷ではなかった。雷は空にしかない。だが、その音は、地の腹の奥から這い上がってくる。古い、と感じた。古いものが、長い眠りから、寝返りを打ったような音だった。

戸口を閉めても、地鳴りは止まなかった。 納屋の中、薪の山に背を預けて座り込んだリオンの耳に、谷の奥のほうから、何かが「割れる」音が確かに聞こえた。岩が割れたのか、土が崩れたのか。あるいは、千年のあいだ閉じられていた何かの蓋が、ようやくひとつ、ずれたのか。 雨脚は弱まる気配を見せなかった。 リオンは膝を抱え、襤褸の襟をきつく握った。胸の熱と、北から響く地の音と、雨の匂いと、そのどれが原因なのか分からないまま、両の眼だけが、暗闇のなかで奇妙に冴えていく。 ――星に呼ばれた、と思った。 名を持たぬ自分を、名を持つ何かが、岩のずっと向こうから、呼んでいる。 夜明けまで、まだずいぶんある。 聖アンセルムの鐘も、地が震え始めてからは、ぴたりと一打ちも返さなかった。

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