第2話
第2話
四日目の朝、雨が上がった。
軒の縁から最後の雫が落ちる音を、リオンは納屋の梁の下で数えていた。一、二、三――間隔が次第に長くなり、やがて滴ることをやめる。三日続いた灰色の縦糸が、ふつりと途絶えた瞬間を、彼は耳で確かめた。
腰を上げると、湿った藁が膝の裏に張りつき、襤褸の裾から雨粒の重みが滴り落ちた。指先は冷えて感覚が薄い。手の甲を擦り合わせ、息を吹きかけて温める。鉄錆と藁の匂いに、土と腐葉のすえた香りが混じっていた。納屋の地面はとうに泥になっており、長靴の底が一歩ごとに吸いつくように沈む。
戸を押し開けると、谷を埋めていた朝霧の向こうに、エルディア山脈の稜線が、ぼうと薄墨色に浮かび上がっていた。雪を残した尾根が、ふだんより一段近くに見える。空気のなかに、鉱物のような、冷たい匂いがあった。
「……北の渓谷から、下りてきた匂いだ」
呟いた声が、自分の耳にも掠れて聞こえた。三日のあいだ、口を利いていない。喉の奥が、痰の絡んだ縄のように引き攣れる。唾を一度飲み下し、もう一度同じ言葉を、今度は声にせずに繰り返した。
村のほうから、犬の声が一斉に上がった。それから、男たちの怒鳴り声。雨上がりの空気を破って、何人もの長靴が泥を蹴る音が、北壁のほうへと駆けていく。リオンは反射的に納屋の柱に身を寄せ、戸の隙間から覗き見た。村長――白髭のグレオールが、若衆を四、五人ばかり引き連れ、棒切れと松明を手に、北壁の崩れた箇所へと急いでいるところだった。松明の脂が雨上がりの湿った空気に弾け、ぱち、ぱち、と短い音を立てている。
胸の熱が、また脈を打った。肋の内側で、心臓とは別の何かが、もうひとつ拍を刻んでいる――そんな感覚だった。
リオンは、薪籠を背負い、革紐で縛りつけた。
口実は、いつでも要らなかった。村のなかで誰もリオンに用を訊かない。だが、村の北端、崩落現場へ近づく言い訳として、薪拾いほど都合のよいものはなかった。雑木林は北の渓谷へ続いており、男たちが向かった先と、ほぼ重なっている。
ぬかるみに足を取られながら、雑木林の小道を上った。長雨で苔が緩み、岩肌の境目から、細い滝のような泥水が幾筋も流れ落ちていた。半町ほど進んだあたりで、見覚えのある楢の老木が、根こそぎ倒れて道を塞いでいる。三日前までは、確かに立っていた。剥き出しになった根の塊から、まだ生々しい土の匂いと、千切れた細根の青臭さが立ち昇ってくる。
倒木を迂回し、北壁の縁に立った。
息が、止まった。
ヴェルナの北側を護っていた高さ十間ほどの岩の壁が、根本から大きく抉れ、その奥に、誰も知らぬ岩室が口を開けていた。崩落した土砂の下から、灰色とも青黒ともつかぬ巨石が、幾枚も覗いている。それは、自然の岩ではなかった。明らかに、人の手で切り出され、組み合わされた、石組だった。
苔が、そこを覆っていた。
百年や二百年の苔ではない。岩の隙間という隙間に、深い緑が、毛皮のように生え重なっている。何代もの苔が、上の苔を養って死に、その骸が新しい苔の床になり、千年の厚みになっていた。指先で押せば、海綿のように沈み、押し戻すたびに、青く湿った匂いがゆっくりと立ち昇ってきそうだった。土砂が剝がれた跡から、その緑のなかに、文字に似た刻みが幾筋も走っているのが見えた。
楔形でも、ヴェルナの大人たちが教会で読み上げる聖文字でもない。リオンが見たことのない、線と渦とで組まれた、古い文字だった。見ているだけで、視線がその渦の中心へ吸い寄せられ、目の奥に、ちりちりとした痺れが残る。
「下がれっ。下がれと言うとるじゃろうがッ」
村長の怒声が、岩室の前で響いた。若衆の一人が、松明を掲げて中を覗き込もうとしたのを、グレオールが棒切れで叩き落としたのだった。松明は泥のなかで、じゅう、と短く呻いて消えた。叩かれた若衆は、よろめいて尻もちをつき、何か言いかけて、ぐっと言葉を呑み込んだ。
「これは……ヴェルナの土の下に、あってはならぬものじゃ」
白髭の村長は、声を震わせていた。棒切れを握る指の節が、白く浮き上がっている。
「神々がお隠しになった蓋ぞ。蓋ぞ、これは。覗くな。触るな。……名を、口にするな」
若衆たちは、一歩、二歩、後ずさった。誰も口を開かない。北の山脈から下りてきた風が、彼らの松明の火を、横ざまに薙ぎ倒した。火の粉が泥の上に散り、すぐに息絶える。誰かの喉から、ひゅっ、と細い悲鳴が漏れた。
リオンは、雑木の幹に身を隠しながら、その光景を見ていた。樹皮の苔が頬に張りつき、冷たい湿りが耳まで伝った。
岩室の奥――崩落した石組の、そのさらに奥に、二枚の大きな石が、確かに対になって立っているのが見えた。上端は崩れた土砂で隠れ、下端だけが半ば、姿を現している。その合わせ目に、ひとすじ、黒く深い縫い目が走っていた。門だった。地の底に、何かを閉じ込めるための、門。
胸の一点が、火を当てたように、強く脈を打った。脈が打つたびに、視界の縁が、わずかに歪んで見える。
その日の夕、村の集会所に、鐘が三度打ち鳴らされた。
緊急の触れだった。聖アンセルム教会の鐘は、祭礼か、葬列か、戦の前にしか鳴らされない。三度の鐘は、村の全員が集会所に出ろという合図である。
リオンは、いつものように、集会所の壁の外、板の継ぎ目に耳を寄せて立った。中に入る資格は、十二の歳になっても、彼にはない。冷たくなった泥の地面に膝をつき、襤褸の肩を縮めて板に頬を寄せると、グレオールの嗄れた声が、節穴を通して漏れてきた。板の繊維から、古い松脂の匂いが微かに立つ。
「……北壁の奥に、出たものについて、申し渡す」
集まった村人たちのざわめきが、波のように引いていく。咳払いひとつ、椅子の擦れる音ひとつが、やけに鋭く耳に届いた。
「あれは禁忌じゃ。ヴェルナの先代の、そのまた先代の、誰も知らぬ昔から、あの土の下にあってはならぬものとして、封じられてきた蓋ぞ。明日の朝、若衆を集め、土と石とでもう一度埋め戻す。崩れた土砂はそのままに、上から泥を盛り、苔を移す」
「村長、あれは何でございます」
「問うな」
老農の声に、グレオールは即座に被せた。被せる声に、ほんのわずか、怯えの色が混じっていた。
「問えば、答えねばならぬ。答えれば、知ってしまう。知れば、関わる。関わった者は、ヴェルナの土には還れぬ。……三百年前にも、あれを覗いた者がおった。誰も、戻らなんだ」
ざわめきが、さらに低くなった。誰かが、はっと息を呑む音が、節穴のすぐ向こうで聞こえた。
「子らには、近づかせるな。近づいた者は、追放と心得よ。覗いた者は、村の名簿から、その日のうちに名を削る」
リオンの背筋を、冷たいものが滑り落ちた。
名簿に名がある者と、名がない者。その区別は、ヴェルナでは、この世とあの世の境よりも厳しい。名を削られた者は、井戸の水を分けてもらえぬ。冬病が出ても、教会の祈りを受けられぬ。生きながら、村の地図から、消える。
リオンには、もとから、その名簿に名がない。
ばあさまの死後、村長は「拾い子の名は、改めて書き記す」と言ったきり、十二の歳になっても、まだ書いてくれていない。だから、リオンには、削られる名すら、もうないのだった。
板から離れ、彼は雑木林のほうへ歩き出した。今日の薪は、まだ半束も拾っていない。集会のあいだは、誰も外を歩かない。北壁の縁を、もう一度通って戻れる、最後の機会だった。
胸の熱は、夕の冷気のなかで、一段と強く脈を打っていた。歩を進めるごとに、その脈が、足の裏から地面へと、深く吸い込まれていくような気がした。
雑木林を抜け、北壁の縁に出る頃には、谷あいの空に、薄紫の宵が下りていた。烏が一羽、声もなく稜線の向こうへ流れていく。
崩落の現場は、村人たちが昼のうちに棒杭で囲い、縄を張り渡していた。立ち入るな、という印である。麻縄はまだ濡れて重く、垂れ下がった部分から、ぽたりと一滴、泥の上に落ちた。リオンは縄の手前で立ち止まり、薪籠を地に下ろした。
二枚の石門は、夕闇のなかで、昼よりもくっきりと黒く、その輪郭を浮かび上がらせていた。縫い目――上下を結ぶ、細く深い裂け目。
その隙間に、青白いものが、ふ、と灯った。
蛍ではなかった。蛍は、雨上がりの宵には飛ばぬ。松明の照り返しでもなかった。人は、誰一人として、ここにはいない。
光は、門のなかから、漏れていた。
リオンは縄を跨ぎ越し、知らぬ間に、足を一歩、踏み出していた。長靴の底が、泥のなかでぐじゅりと沈む。膝が、自分の意志ではない何かに引かれるように、もう一歩、前へ出た。
胸の熱が、ひとつ、強く弾けた。それと同時に、青白い光が、文字を結ぶように瞬き、リオンの耳の奥に、声ではない声が、確かに届いた。
――おいで。
雑木林の梢が、風もないのに、ざわりと鳴った。