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星の名を呟く子と絆の刻印

第3話 第3話

第3話

第3話

縄を跨いだ瞬間、長靴の底が、泥の薄い膜の下に隠れていた古い石を踏んだ。

ぐぐ、と硬い手応えがあった。雨で洗われた表面の泥が剥げ、磨り減った石畳の縁が、夕闇のなかに薄く露わになる。リオンは息を呑み、後ずさろうとした。だが、足は動かなかった。胸の一点で脈打つ熱が、糸のように喉を通り、頭の芯まで張り渡されている。糸を引いている誰かが、岩の向こうにいた。

――おいで。

声は、耳のなかにではなく、肋骨の内側で響いた。鼓膜を介さぬその声は、どこか湿り気を帯びていて、千年溜まっていた地下水の匂いがした。

二枚の石門は、夕闇のなかで黒くそびえ、合わせ目の青白い光が、雪解けの川のように、ゆるやかに脈を打っている。光は文字を結び、文字は渦を結び、渦はリオンの胸の紋に、呼応していた。

リオンは襤褸の襟を握りしめた。指の節が、北のエルディア山脈から下りてくる風で、もうすでに固く冷えている。村長グレオールの嗄れた声が、まだ耳の奥に残っていた。――覗いた者は、その日のうちに名を削る。

名は、もとからない。

声に出さず、彼は唇を結んだ。削られる名のない子に、村が下せる罰は何だろうか。問いかけは、夕風に薄められ、すぐに消えた。

光が、また瞬いた。

二枚の石門の縫い目が、わずかに広がっている――気のせいではなかった。崩落のせいか、何かに「招く」意思があるのか、隙間は十二歳の少年の肩幅ほどに、確かに開いていた。

リオンは振り返らなかった。村のほうから、犬の遠吠えが一度だけ届き、すぐに闇に吸われた。彼は薪籠を雑木の根方に置き、襤褸の裾をひと結びに絞ると、両の手を石門の縁にかけた。苔の毛皮が、指のあいだに沈んだ。海綿のような感触のなかで、人の指が彫った冷たい線が、はっきりと指先に触れた。

息を、止めた。

肩から、滑り込んだ。

石の裂け目は、冷たく、湿っていた。襤褸の背を、水滴がひと筋、伝い落ちる。

門の奥は、外より暗いはずだった。だが、目を慣らすまでもなく、リオンには通路の輪郭が見えていた。胸の紋から漏れる微光が、襤褸の繊維を青白く透かし、足元の石畳まで届いている。

通路は、緩い下り坂だった。

石畳は、表面が一面、水で磨かれたように滑らかで、肉刺のできた足の裏でさえ、ひんやりとした絹のような感触を、長靴越しに伝えてくる。両側の壁には、苔と地下水の滴のあいだから、あの渦のような文字が、続けざまに連なっていた。文字を撫でて流れる青白い光は、リオンの歩みに合わせて、波紋のように先へ走り、また戻ってきた。

ずぅ、と低い音が、足の裏から伝わってくる。地鳴りに似た、しかし規則正しい鼓動だった。地の底で、巨大な何かが息をしているような――心臓の音にも似ていた。

「……生きてる、のか」

呟きは、自分の喉にすら届かぬほど、細かった。

通路は二度、左へ曲がった。曲がるたびに、左の壁から鉱物の匂いが、右の壁から枯れた花のような甘い匂いが、交互に漂ってきた。鼻の奥で、リオンはそれを「祭壇に焚かれた香の残り」だろうと感じ取った。香の名は知らなかった。だが、ばあさまの墓に手向けた野の花が、冬を越して乾き、もう一度春の風に当たる――その匂いに、近かった。胸の奥が、知らぬ間に、ひとつ、ぎゅっと縮んだ。

通路の終わりに、円形の広間が、静かに口を開けていた。

広間は、ヴェルナの集会所より、ふた回りは大きい。天井は半ば崩れ、夕闇の空が、円の縁から覗いていた。星はまだ、薄い。床には、磨き上げられた円の文様が、中心から外へ、輪状に幾重にも刻まれている。文様の溝には、雨水と苔とが沈み、そこにも青白い光が静かに溜まっていた。

円の中心に――水晶の祭壇があった。

それは、ひと抱えほどの透き通った塊で、低い台座から浮き上がるように、わずかに宙に揺れている。表面は、削り出された花弁のような筋目に覆われ、内側には、夜の星座を凍らせて閉じ込めたかのような、淡い銀の光が、幾つも、ぽつ、ぽつと瞬いていた。

祭壇の、その中に。

少女が、横たわっていた。

リオンは、思わず半歩退いた。長靴の踵が、円の文様の溝を踏み、たぷりと水音が立つ。

少女は、生きているとも、死んでいるともつかぬ姿だった。背は、リオンより少し高い。十六、七ほどに見えた。長い銀の髪は、水晶のなかで、ゆるやかな水流のように、彼女の頬の周りを漂っている。閉じた瞼は、薄い貝の内側のように、ほのかに桜色を帯びていた。胸の上には、両手を重ねるように剣の柄が抱かれ、白く長い指は、千年が触れていない木目の凪のように、静かだった。

そのすべてが、半透明だった。

肌の向こうに、水晶の銀の光が透けて見えた。睫毛は本物の睫毛なのか、それとも光がそう見せているだけなのか。鎧の胸甲には、リオンの胸の紋とそっくり同じ渦が、そっと一つ、刻まれていた。

胸の一点が、強く弾けた。

体温が、そこから一気に、指先まで巡る。リオンは喉の奥で短く呻き、襤褸の襟を握って立ち止まった。膝が震えていた。だが、震えているのは恐怖からではなかった。怖さに似た、しかしまったく違う何かが、心臓の裏から喉を押し上げてくる。

「……あなたは、誰だ」

声は、自分の耳にも、頼りなく響いた。

水晶のなかの少女は、答えなかった。当たり前だった。だが、答えの代わりに、祭壇のまわりの円の文様が、ひとつ、また一つと、青白く灯り始めた。一番外の輪から、二番目、三番目。光の輪は、リオンの足元へ向かって、輪を絞っていく。

逃げる、という考えは、なかった。

リオンは、輪が足元に届いた瞬間、片足を引いた。だが、輪は彼の踵をすり抜け、円の中心、祭壇の真下へと、すべて吸い込まれていった。床が、わずかに震えた。

水晶の表面に、波紋が立った。

少女の指が――千年動かなかったはずの白い指が、剣の柄から離れ、ゆっくりと、リオンのほうへ伸びてきた。水晶を、内側から押し上げるように。

リオンは、息ができなかった。

手が、勝手に上がった。

胸の紋に手をやろうとしたのか、剣を払いのけようとしたのか、自分でも分からなかった。気づけば、襤褸の袖から覗く彼の右手が、水晶の表面の、ちょうど少女の指先と向かい合う一点に、触れていた。

冷たくは、なかった。

冬の岩でも、雪解けの川でも、井戸の縁の鉄でもない、どれとも違う温度だった。皮膚に触れた瞬間、水晶は溶けたわけではなく、ただ、そこだけが、ふっと「無い」ことになった。指は、銀の光の層に沈み、やがて、薄く細い、別の指の先に触れた。

爪と爪が、ほんの一点で、合った。

その瞬間――

胸の紋が、灼けた。

リオンは咄嗟に襤褸の襟を引き裂いた。皮膚の上、鎖骨のすぐ下に、青白い渦の文様が、うっすらと、しかし確かに、灯っていた。光は、皮膚の下から染み出すようにして、襤褸の襟元まで滲み、彼の肩の影を、淡く青く縁取った。

水晶の少女の胸甲に刻まれた渦と、リオンの胸の紋とが、針と糸のように、互いの中心を引き合った。

声が、肋骨の内側で響いた。

『……やっと、来てくれたんだね』

少女の唇は、動かなかった。だが、声は、確かに、彼女から届いた。湿り気を帯びた、夕の鐘よりも柔らかな声だった。長く、長く、声を出さずに堪えてきた者の喉から、ようやくほどけた、最初のひとひらの息のような、声だった。

リオンの目が、熱くなった。

呪われ子、と呼ばれて十二年。名のない子と呼ばれて十二年。この夜まで、誰一人、彼を「来てくれた」と言った者は、なかった。誰も、彼が来ることを、待っていなかった。

「……俺、を」

唇が震え、言葉は途中で崩れた。涙は、眦で止まり、頬には落ちなかった。代わりに、胸の紋が、もう一度強く脈を打ち、少女の胸甲の渦と、ぴたりと音を合わせた。

その瞬間、円の文様の溝に溜まっていた青白い光が、いっせいに、跳ね上がった。

天井の崩れ目から、ぱらぱらと、泥と小石が落ちてきた。最初は、ひと粒、ふた粒。次に、握り拳ほどの土塊が、続けざまに祭壇の縁を打った。広間の壁の文字の渦が、波紋を逆向きに走らせ、千年を堪えていた何かが、一斉に、ほどけ始めた。

ずう、と地の底で、あの規則正しい鼓動が、不規則に乱れた。

「……壊れる」

リオンの呟きに重なるように、少女の指が、水晶のなかで、もう一度ゆっくりと動いた。剣の柄を握り直す動きだった。閉じていた銀の睫毛が、ほんの一瞬、震えた。

『大丈夫。今度は、私が起きる番だから』

声は、ほどけたばかりの息で、しかし、芯のある一筋の声だった。

天井の太い梁が、軋み、ひとつ、円の縁に落ちた。土埃が、青白い光を一気に灰色に塗り潰した。リオンは、水晶に触れた指を離せぬまま、もう片方の手で襤褸の襟をきつく握り、瞼を、強く閉じた。

光と、音と、千年とが、彼の周りで、いま、ほどけていく。

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