第2話
第2話
王城の大広間に踏み込んだ瞬間、セレスティアの首筋を、三千の蝋燭の熱気が、なぜか冷たく撫でた。 深紅の絹が、大理石の床を擦る。裾の重みが踝に絡みつき、八歳から纏い慣れた淡色のドレスとは、運び方の作法すら違う。手袋越しの指先だけが、氷の刃を押し当てられたように、奥まで凍りついていた。
「ごきげんよう、ローゼンベルク公爵令嬢」 「ご機嫌……麗しく」
挨拶は飛んでくる。だが、目が合わない。三歩進むごとに、扇の縁が広間の空気を一枚ずつ捲り、彼女の背を撫でて遠ざかる。 昨日まで——いや、半刻前まで、彼女が広間に入れば、人垣はわずかに割れ、誰かが必ず先に頭を下げた。今夜は違う。誰もが斜めに視線を流し、ワルツの楽章の合間に、小声を交わしている。
「……よりによって、今夜、深紅を」 「殿下のお心が離れた、と専らの噂で」
声は、人垣の三層向こうから届く。届かせる気のない囁きが、わざと届く距離で囁かれていた。香水の甘ったるい層と、磨き立てられた革靴の蝋の匂い、そして人いきれの汗が、天井のシャンデリアの下で渦を巻いている。普段なら気にも留めない匂いの一つひとつが、今夜は鼻の奥に居座って、離れようとしない。
セレスティアは扇を開いた。象牙の骨が、軋む。普段なら拾わない微音が、今夜はやけに鮮明だった。 広間の奥、玉座の段下に、フェルナンドの後ろ姿があった。隣に、すずらんの髪飾り。ミレーヌの白い手が、王太子の腕に、当然のように添えられている。指先が、まるで何年もそうしてきたかのように、彼の袖の縫い目を、なぞるように撫でていた。 その光景を眺めながら、セレスティアは静かに気づいた。首の後ろの冷たさは、馬車を降りてからここまで、一度も、消えていない。
「セレスティア・ヴァン・ローゼンベルク」
楽団が、止まった。
よく通る声だった。フェルナンドが段下から振り返り、彼女を指差している。指の先が、わずかに震えていた。隣のミレーヌは、両手で胸元を押さえ、白い喉を反らして俯いている。 広間の人垣が、ゆっくりと半円を描いて広がっていく。中心に、セレスティアだけが残された。扇の骨を握る指に、力が入る。象牙が、また、軋んだ。靴底の下、大理石の冷気が、絹のストッキングを貫いて踝へ這い上がってくる。広間全体が、彼女ひとりのために組まれた円形闘技場に、姿を変えていた。
「貴様は——」 フェルナンドが、息を吸う。広間の蝋燭が、彼の声を吸い込むように、わずかに揺れた。彼の喉仏が、台詞を確かめるように、一度、上下した。 「我が想い人ミレーヌを、毒殺しようとした」
時間が、止まる。 正確には、セレスティアの周囲だけが止まった。ワルツの余韻、扇の風、絹の擦れる音——全てが、奇妙に遠ざかった。 唯一、近くに残ったのは、自分自身の心音だけだった。それすら、ひどく緩慢に感じられる。耳の奥で、自分の血液が水門を叩く音が、波のように寄せては引いていく。
「証拠もある」 フェルナンドが、銀盆を捧げた侍従を呼んだ。盆の上には、硝子の小瓶。蓋には、王家ではなく——ローゼンベルク家の紋章が、刻まれている。 セレスティアの、紋章だった。 小瓶の硝子は、蝋燭の炎を歪に映して、内側で液体がわずかに揺れている。あれは、ローゼンベルク家の薬棚にしまわれているはずの、家紋入り保管瓶だった。家令と、彼女と、父——三人だけが鍵を持つ薬棚の。
「ローゼンベルク邸の薬棚から発見された。中身は王宮鑑定済み。微量で人を殺す、無臭の毒だ」
ざわめきが、広間を埋めた。扇の動きが、急に速くなる。婦人たちは口元を覆い、紳士たちは互いの顔を見合わせ、誰かが「やはり」と漏らすのを、誰かが慌てて遮った。
「お、お、お姉様……」 ミレーヌが、震えながら一歩前へ出た。すずらんの髪飾りが揺れ、頬を伝った涙が、大理石の床に、一滴、二滴、落ちた。 「わたくし、信じませんでしたわ。お姉様が、そんなこと、なさるはずがないと。でも、でも……三日前、わたくしの紅茶に、見知らぬ粉が……倒れる寸前、侍女が気づいて……」
嘘だ。 セレスティアは、その嘘を、肌で知っていた。 涙の落ちる角度。指の震えの周期。喉の引きつる回数。全て、計算で組まれている。脚本だ、と思った。誰かが、この夜会のために、台本を書いた。何度も推敲され、立ち稽古を重ねられた、念入りな脚本だ。 だが、それを、誰が信じるだろう。三千の蝋燭の下で、ミレーヌの涙は、宝石のように美しく光っていた。広間の貴族たちが見ているのは、計算ではなく、その輝きの方だった。
「証言者もおります」 フェルナンドが、続けた。 ローゼンベルク邸の侍女が三人、震えながら前へ進み出る。二日前まで台所で笑顔を交わしていた顔ぶれが、揃って俯き、声を絞り出した。先頭の侍女は、先月セレスティアが流行り風邪のとき、夜通し額の濡れ手拭いを替えてくれた娘だった。 「……令嬢様が、薬棚から、小瓶を……」 「お茶会の前夜、夜更けまで、調剤室の灯りが……」
声が、嘘の上に嘘を積み重ねていく。一枚目の嘘の上に、二枚目、三枚目と、薄い紙が貼り重ねられていく。やがて、その重なりは、本当のことよりも厚く、堅くなる。
——お父様。 セレスティアは、視線を広間の右端へ流した。 ローゼンベルク公爵が、立っていた。 彼女の父が、立っていた。 目を、伏せていた。
それだけだった。 何も言わない。何も否定しない。指一本、動かさない。ただ、目を伏せている。 家紋の刺繍された胸元が、呼吸のたびに、ゆっくりと上下している。生きてはいる。だが、そこに、父はいなかった。立っているのは、ローゼンベルク家の名を背負った、ひとつの石像だった。
——ああ、そう。 胸の奥で、何かが、静かに崩れた。音もなく、灰になって落ちた。 十八年。父の言葉に感情を返さなくなって、十八年。家門のため、と便箋に書かれ続けて、十八年。それでも、奥のどこかで、ほんの一片だけ、まだ期待していた自分がいたらしい。父が、一度だけでいい、家門のためではなく、私を呼ぶのではないか、と。 その一片が、今、灰になった。 不思議と、涙は出なかった。代わりに、肺の底に、乾いた砂のような感触が、ゆっくりと積もっていった。これから先、自分は、この砂を抱えて生きていくのだろう、と思った。
「……殿下」 セレスティアは、ようやく声を出した。三千の蝋燭の前で、彼女の声は、思いのほか平らだった。 「私は、ミレーヌ様のお茶会に、招かれておりません」 事実だった。王都の貴族なら、誰もが知っている。
「なら、誰かを使ったのだろう」 フェルナンドが、即座に被せた。 答えは、用意されていた。何を言っても、答えは用意されていた。問いかけは、扉のない部屋に投げ込まれた小石のように、内側で跳ね返り、彼女の足元に戻ってくるだけだった。
セレスティアは、扇を閉じた。象牙の骨が、最後にひとつ、長く軋んだ。 脚本の最後の頁には、彼女が引き立てられる場面が、既に書かれている。それを変える台詞を、彼女は持たなかった。
「衛兵。公爵令嬢を、地下牢へ」 フェルナンドの手が、上がる。 鎧の音が、近づいてくる。
鎧の籠手が、セレスティアの両腕を掴んだ。 深紅の絹が、鉄の手のひらに、皺を寄せて潰される。八歳から十年と少し、毎朝磨いてきた爪が、籠手の縁に当たり、固く乾いた音を立てた。 痛みは、ない。痛みなんて、もう、ずいぶん前から、感じない。
引き立てられる。広間の人垣が、半円のまま、彼女の通り道だけを開けていく。三千の視線が、彼女の背中に貼りついた。同情も、嘲笑も、混じり合って、粘度のある液体になり、肩を伝って落ちていく。 最後に、彼女は振り返った。 玉座の段下、フェルナンドの背中。その隣で、ミレーヌの口角が、わずかに、上がっていた。 涙は、もう、乾いていた。
衛兵が、扉を開けた。 広間の暖気と、廊下の冷気が、彼女の頬で鋭く混じり合う。 首の後ろが、また、冷たかった。 ——氷の刃を、押し当てられたような。 ひと足、踏み出した深紅の裾は、もう、振り返らなかった。