第1話
第1話
朝六時、羽根ペンの先端から青黒いインクが一滴、羊皮紙の余白に落ちた。 セレスティア・ヴァン・ローゼンベルクは舌打ちもせず、銀の小刀でその点を削り取り、上から滑らかに「フェルナンド殿下御加判」と署名した。北部辺境伯への詫び状である。輸出関税の見直しを約束しておきながら、王太子は三日前、同じ件を別の派閥に逆の確約をしていた。 「……三件目」 ぽつりと呟いた声は、薄暗い書斎に吸われていく。窓硝子の向こう、王都の屋根はまだ青い。暖炉は朝早くから焚かれているのに、指先だけが氷のように冷たかった。 卓上には茶器がひとつ。一口も口にしていない紅茶の表面に、白い膜が張り始めている。彼女はそれを見ないようにして、四通目の書簡へ手を伸ばした。封蝋は、王太子の私印。中身は読まずとも知れている。失策の始末だ。 「セレスティア様、起きておいででしたか」 扉の隙間から、侍女頭ハンナが顔を覗かせた。手にした銀盆には、深紅の薔薇を象った封蝋が一通。王宮主催、本夜の夜会の招待状である。 「ええ。十五分前から」 「お早いことでございますね。……まあ、本日はお忙しゅうございますものね」 口許だけで笑う声が、書斎の冷気にやけにくぐもって聞こえた。 セレスティアは封蝋を割り、薔薇の欠片を指先で払った。蝋の縁が、爪のあいだに浅く食い込む。痛みはない。痛みなんてもう、ずいぶん前から、感じない。
午前八時、ローゼンベルク邸の応接間に、北部商業組合の長老が三人通された。 「公爵令嬢様じきじきのご対応、痛み入りまする」 「殿下が直接お話しすべき案件と心得ますが」 セレスティアは茶器を傾けながら、淡々と数字を並べた。三日前の関税協定、別貴族への確約、両者の損益、和解金の算定額。羊皮紙には既に二案の妥協線が引かれている。 応接間の暖炉では、薪が一本、ぱちりと音を立てて崩れた。火の粉が網の向こうに散る。三人の長老の視線が、ほんの一瞬だけ羊皮紙の上で停まり、それから揃ってセレスティアの顔へ戻った。皺だらけの指が、紙の縁を撫でながら、何度も二案の数字のあいだを行き来する。 「殿下はご多忙でいらっしゃいます。皆様にご無理を強いる前に、私の名で整えさせていただきました」 長老の一人が、白い眉の奥でわずかに目を細めた。 「……失礼ながら、令嬢様。殿下は本件を、ご承知で?」 「もちろんです」 嘘ではない。三度説明した。三度とも、フェルナンドは半分も聞かずに頷いて、男爵令嬢ミレーヌのもとへ駆けていった。それでも署名と蝋印は本物だ。彼女が本物にしてみせた。 「全ては、殿下のお力です」 口慣れた一文を、微笑とともに置く。舌の裏で、その一文の苦味だけがいつまでも消えなかった。長老たちは深々と頭を下げ、書類を抱えて去っていった。 扉が閉まると同時に、セレスティアは茶器を卓に戻した。陶器の底が硬い音を立てる。硬い音が、ひと呼吸遅れて、応接間の天井の梁に薄く反響した。指先で持ち手をなぞる。陶器は朝に淹れたまま放置されていた茶の名残で、ぬるく湿っていた。 「お見事でございます、お嬢様」 ハンナが布巾で卓上を拭きながら、抑揚のない声で囁いた。 「お見事だなんて。当然のことよ」 「左様でございますね。殿下の御為にございますれば」 ハンナの声に、薄い針が一本紛れているのを、セレスティアは聞き分けた。だが咎めはしなかった。咎める権利を、十年前にどこかで落としてきた気がする。 窓の外、庭園の朝霧が払われ、白薔薇の棘が朝露に光っていた。セレスティアは指先で羊皮紙の縁を撫でる。紙の角が、爪のあいだに浅く食い込む。これも、痛みはない。 午前十時、王城から早馬。午前十一時、財務卿からの相談状。午前十二時、領地代官からの収支報告——彼女は正午の鐘が鳴るまでに、十一通の判を捺した。全て、王太子の名で。 昼食は摂らなかった。鏡台の前に座り、湯気の立つ薔薇水で指先のインクを落とす。爪のあわい、皮膚の皺の奥にまで滲んだ青黒は、薄まりはしても消えはしない。鏡の中の自分は、銀髪をきっちりと結い上げ、藍色の瞳に疲労の影もなかった。完璧な公爵令嬢。完璧な婚約者。 「……完璧な、ね」 唇の端が、わずかに歪んだ。 鏡台の隅、八歳で婚約が定まった日に下賜された、王家の紋が刻まれた銀の鎖。十年と少し、毎朝磨いてきた。曇りひとつない。それなのに、なぜか今朝に限って、首にかけるのを忘れていた。
午後二時、応接間に二通目の書簡が届いた。 父——ローゼンベルク公爵からだった。 『本夜の夜会、くれぐれも粗相のなきよう。殿下のご機嫌を損ねれば、家門に響く』 それだけ。署名すらない。 セレスティアは便箋を二度折り、抽斗の奥に滑り込ませた。父の言葉に、もはや返す感情はなかった。八歳で婚約が定まって以来、家から贈られた言葉は全て同じ趣旨だった。粗相のなきよう。家門のため。お前は道具だ、と彼は一度たりとも口にしなかったが、便箋の余白は十年一貫して同じ意味を載せ続けていた。 「セレスティア様」 ハンナが、銀盆に三通目の書簡を載せて入ってきた。今度の封蝋は薔薇ではない。すずらん——男爵家ローゼリア家の紋。 「どなた、と書いておありかしら」 「ミレーヌ・ローゼリア様、より」 ハンナの語尾が、わずかに震えた。 セレスティアは封を切った。便箋からは、嗅ぎ慣れた香水の匂いが立ち上る。甘ったるい百合の香。フェルナンドの胸元に染みついた、あの匂いだった。 読み進めるごとに、その匂いは便箋の繊維の奥から、執拗に立ち上ってくる。指先の皮膚が薄く粟立った。婚約者の襟元に頬を寄せたとき、何度この香りに迎えられただろう。一度も尋ねたことはない。尋ねても答えは同じだ——「気のせいだろう」と、彼は微笑むに違いない。 『ご機嫌よう、お姉様。本日の夜会、楽しみにしておりますわ。殿下より、わたくしも特別にお招きいただきましたの。お姉様にお会いできるの、わたくし、本当に嬉しくて』 便箋の右下に、小さな薔薇の押印。爪先で擦ると、墨が滲んだ。封蝋ではなく、後から押した素人の細工だった。 ふ、と笑いがこぼれた。 「楽しみにしております、ね」 セレスティアは便箋を蝋燭の火にかざした。すずらんの紋が縮み、黒く焦げて崩れていく。指先に灰が落ちる。熱はない。 「ハンナ。本夜のドレスは、深紅で」 「……深紅、でございますか」 ハンナの声が、わずかに上ずった。普段、彼女が夜会で身に着けるのは淡い水色か白。深紅は、王太子妃には派手すぎると父が嫌う色だった。 「ええ。一番濃いものを。それから、髪飾りは要らないわ」 「で、ですが、王家の銀の鎖を……」 「今朝、外したままにしてあるの。そのままで」 声に、自分でも驚くほどの平らな確信があった。まるで、誰かが背後から手を伸ばして、彼女の喉を借りて喋っているような——いや、違う。これは自分の声だ。十年ぶりに思い出した、自分の声だった。 ハンナが何か言いかけ、結局口を噤んで下がっていった。 鏡の中の自分が、燃え残った便箋の灰の向こうで、ゆっくりと、こちらを見ている。 理由は、わからない。 ただ、今朝目覚めた瞬間から、首の後ろが冷たかった。氷の刃を一枚押し当てられたような、奇妙な違和感。羽根ペンを握る指も、紅茶の温度を確かめる舌の根も、何かを覚えていた。何かを——確かに、忘れているはずなのに、覚えていた。
午後七時。馬車の窓から、王城の灯が近づいてくる。 深紅のドレスの裾を整えながら、セレスティアは膝の上の手袋を握り直した。絹越しに、自分の脈が静かに打っている。指先のインクは、まだ薄く残っていた。 馬車の揺れに合わせて、深紅の絹が、足首のあたりで小さく波打つ。普段の淡色のドレスより、明らかに重い。この重さを身に纏うのは、八歳で婚約が定まって以来、初めてだった。窓硝子に映る自分の輪郭が、いつもより鋭く、他人のように見える。 向かいの席で、ハンナが目を伏せたまま囁いた。 「セレスティア様。本夜は……どうか、お気をつけて」 「あら。何があるの?」 「いえ。ただ、なんとなく」 「そう」 セレスティアは応えず、車窓の外へ視線を投げる。王城の正門前、馬車から降りる男爵令嬢ミレーヌの後ろ姿が一瞬、視界をよぎった。すずらんの髪飾りが、街灯の光に揺れている。隣には、フェルナンドの背中。二人の影が、一つに重なって石畳を伸びていた。 首の後ろが、また冷たくなる。 セレスティアは手袋を、指先まで丁寧に嵌め直した。 「行きましょう」 馬車が止まり、扉が開く。 深紅の裾が、王城の階段の最初の一段に、音もなく落ちた。