第3話
第3話
骨に、届いた。
革靴の踵が、ガロの右膝の外側を、真っ直ぐ捉えた。一.二倍の身体能力、五十数キロの体重、半歩分の助走。三年前の傷で薄くなった靱帯の上に、それが全部乗った。
濡れた木が裂けるような、低い音。靴底越しに、骨と腱が同時にずれる感触が、足首まで遡って来た。
「ぐ、ぁ——」
ガロの上半身が、ぐらりと前に折れた。柄にかけた指が、剣を抜く前に空を掻く。膝が抜けた、というより、膝そのものが横へ流れた。古傷が、三年越しに本気で笑った音だった。
俺は、踵を引いた。立ち位置を、半歩だけ後ろへ戻す。深追いはしない。倒した相手の上に被さる馬鹿は、漫画と新人だけだ。
ガロの巨体が、果物の籠を巻き込んで、石畳に転がった。林檎が、林檎の臭いが、転がる。籠の編み目が割れる乾いた音と、果汁の弾ける湿った音が、ほぼ同時に鼓膜を打った。革ジャケットの背中越しに、ピッツとフォルの顔が一瞬で覗く。二人とも、口が半分開いていた。
——一.五秒。
頭の中で、解析が勝手に時計を刻んだ。あれだけの巨体が、一蹴りで沈むまで、たぶん一.五秒。十分に異常だった。後ろの二人にとっては、想像の外側にある光景のはずだ。
「に、兄貴っ」
ピッツが、半歩、下がった。視線は、もう俺の顔に当たっていない。路地の出口、ガロの倒れた身体、出口、出口。三秒のあいだに四度、目玉が泳いだ。逃走傾向、極めて強い、の表示通り。
「逃げないんですか」
俺は、できるだけ静かに声をかけた。声に脅しの色を乗せない。脅しは、決断を遅らせる。逃げ道を提示する声色だけが、この距離では一番速く効く。
「先に逃げた方が、生きやすいですよ」
最後の一押し。ピッツの肩が、ぐっと跳ねた。次の瞬間、痩せた身体は棍棒を放り出して、路地の奥へ全力で駆けていた。布鎧の裾が、汚い旗みたいに翻った。木の棍棒が石畳の上を二度跳ねて、排水溝の縁で止まる、その軽い音まで、やけにくっきりと耳に届いた。
残ったのは、フォル一人。
利き手左、抜刀前に半歩下がる癖。表示通りに、フォルは半歩、下がっていた。下がりきった足が、まだ床に着ききっていない。腰の短剣の柄に、左手の指がかかっている。抜くには、あと一拍。
その一拍を、俺は与えなかった。
地面を、もう一度蹴った。
距離、二歩弱。フォルの肩が後ろへ流れる、その逆側へ、自分の身体を滑り込ませる。前世の満員電車で、痴漢冤罪を避けるために覚えた、人と人の隙間の縫い方だ。剣術ではないが、距離を殺すには十分だった。
抜きかけた短剣の、刃先が鞘を出る前に、俺の右手の甲が柄頭を上から押さえた。
軽く、押した。
それだけで、フォルの抜刀動作が止まった。腰痛持ちの上半身は、半歩下がった姿勢から、上段へ力を出せない。表示通り、律儀に出せなかった。指先に伝わってきた柄頭の振動は、抜こうとした力が行き場を失って、男自身の手首へ跳ね返っている小さな痙攣だった。
「あ——」
フォルの喉が、間抜けな音を漏らした。
俺は、空いた左手で、フォルの胸ぐらを掴んだ。布越しに、心臓の早鐘が指へ伝わってくる。革鎧の肩当てが、表示通りに半分外れていた。掴んだ手で軽く引き寄せて、ガロの巨体の上へ、押し倒すように乗せた。
二人分の体重が、石畳の上で、もう一度濡れた音を立てた。
「畜生、覚えてやがれ——」
ガロの掠れた声。古傷の右膝を、両手で抱え込んでいる。涙混じりの罵声は、もはや脅しの形を成していない。フォルは、ガロの腹の上で、白目を半分剥いて固まっている。失神はしていない。次の動作の指令を、自分の脳が拒否しただけだ。
俺は、息を一つだけ吐いた。
肺の奥に、終電の駅で吸ったのとよく似た、汗と石と肉の臭いが入ってきた。ただ、ヘッドライトはもう、こちらへは向いていない。
時計に直せば、たぶん十秒。会議で議事録を取る時間より、ずっと短い。
ふと、踵に痺れが残っているのに気づく。一.二倍の身体能力でも、骨と靱帯を蹴り抜く衝撃は、ちゃんと痛みとして返ってくる。スーツのズボンの膝に、林檎の果汁が薄く飛んでいた。指先で軽く拭うと、生地の織り目に、甘い酸の匂いが薄く染み込んでいた。
「あの、」
栗色の三つ編みが、視界の端で揺れた。
少女が、エプロンの裾を握ったまま、半歩、こちらへ踏み出していた。淡い緑の瞳が、ガロとフォルの絡まった姿と、俺の顔の間を、二度、行き来する。
「だ、大丈夫、ですか」
声が、少し震えていた。怯えの残響と、安堵と、それから——
俺の意識が、ほんの僅かに彼女の顔へ向いた、その瞬間。
(解析)
意識して向けたわけではなかった。たぶん、緊張が抜けて、意識の蛇口が緩んだ。三人連続で読みにかけた直後の、惰性のような一回。
【リリィ・グランツ】 種族 — 人族 / 年齢 — 十六 職業 — 露店手伝い / レベル1 現在の感情 — 安堵(七)/興味(六)/怯え(三)/羞恥(二) 補足 — 対象は術者に対して『恩義以上の関心』を抱きつつある
頭の奥で、ちりっと、別種の熱が走った。
——ああ。
短い一音だけが、内側に落ちた。
リリィ、と表示された名前。十六歳。安堵と興味と、ご丁寧に羞恥の数値まで、几帳面に並んでいる。恩義以上の関心。これは、たぶん、見るべきではなかった種類の情報だ。前世なら、人事考課のシートを盗み見たときの後味に近い。中身を知ってしまった瞬間に、知る前の自分には、もう戻れない種類の情報。
俺は、視線を、少女から半歩だけ、横へ逸らした。
「ええ、まあ。怪我は、ないです」
声が、少しだけ硬くなった。彼女の顔を見ながら答えると、たぶん、俺の表情の方が崩れる。安堵と興味の数値が、こちらの内側を見透かすようにこびりついていた。
少女——リリィが、こちらへ駆け寄ってくる足音。三つ編みが揺れる音。エプロンの裾が、石畳の上で、軽く撥ねた。
「あ、ありがとうございます、本当に、本当に」
頭を下げる動作。視線の高さが下がる。安堵(七)が、八に変わる気配が、こちらの感覚にまで届く。
便利だ、と一瞬だけ思って、すぐに、これは便利の方向で使ってはいけない情報だ、と思い直した。数字で読めるということは、数字で操作できるということだ。前世のマーケティング会議で、何度も繰り返した詭弁の構造に、よく似ていた。
露店の親父が、林檎の籠を抱え直しながら、何度も頭を下げた。ずんぐりした体格に、白いものが混じった顎髭。汗ばんだ額に、安心と動揺が半分ずつ滲んでいる。こちらは解析にかけなくても、表情で十分に読めた。
「い、いやはや、何とお礼を、命の恩人ってのはこういう」
「いえ、たまたま、通りがかっただけなので」
ガロが、足元で呻いた。
このまま放っておけば、街のどこかから衛兵が来るか、こいつらの仲間が来るか、どちらにせよ俺はもう、ここに長居すべきではなかった。スーツに革靴の異邦人が、路上で人を伸している絵面は、どう転んでも面倒事の核になる。
「すみません、俺、急ぐので」
そう言って、足を、半歩だけ後ろへ引いた。
その手首を、柔らかく、しかし思いがけず強く、掴まれた。
「待ってください」
リリィの、淡い緑の瞳が、真っ直ぐにこちらを見上げていた。安堵の数値はまだ表示の余韻として頭の隅に残っているが、今、瞳に揺れているものは、たぶん、そこには表示されない別の温度だった。
「あの、ギルドへ。ギルドへ、行ってください。お礼も、それから、登録も」
「登録?」
「あなた、強いです。すごく」
少女の指は、俺のスーツの袖口を、離さなかった。指の節は細く、けれど袖口の生地を摘む力は、想像より一段、強かった。逃がしたくない、という意思が、握力に直接出ている握り方だった。
ギルド。聞き覚えのある単語が、頭の中で勝手に補正される。冒険者ギルド、という形に。さっき市場通りを解析したときは、そこまでは表示されなかった。だが、その単語が出てきた以上、王都ヴェルダにも、それは在るのだろう。
俺は、リリィの指先を見下ろし、それから、もう一度、彼女の顔へ視線を上げた。
今度は、できるだけ、解析の意識を絞った。それでも、瞳の奥の数値だけは、勝手に薄く滲んだ。
——攻略可能な世界、と、攻略してはいけない少女。
その差を、ここで間違えると、たぶん、俺はろくでもない男になる。
「分かりました」
短く、答えた。
「案内、お願いできますか」
リリィが、頷いた。三つ編みが、嬉しそうに、跳ねた。袖口を掴む指は、結局、ギルドへ歩き出す俺の歩幅の半歩前を、ずっと離れないままだった。