第2話
第2話
「ちょっと、すみません」もう一度、声を張った。
リーダー格の大男が、握り潰した林檎を地面に放った。果汁が石畳に弾け、革靴のつま先まで飛んでくる。三人組の視線が、揃って俺へと向いた。
「あぁ?」
低く、潰れた声。革ジャケットの胸元から、汗と安酒の混じった臭いが流れてきた。昨夜の酒が、まだ抜けきっていない。解析の続報を待つまでもない。半分落ちた瞼と、こめかみに浮いた青筋が、宿酔いを白状している。
「何だ、てめぇ。見ねぇツラだな」
「すみません。道を聞きたくて」
我ながら、間抜けな第一声だ。だが、それでいい。スーツに革靴の異邦人が、いきなり喧嘩を売る筋合いはない。距離を詰める口実と、観察の時間が欲しいだけだ。
露店の親父は俺と大男を交互に見て、口を半開きにしている。栗色の三つ編みの少女は、エプロンを握る指の力をほんの少しだけ緩めた。淡い緑の瞳が、俺の顔から離れない。怯えの底に、薄く期待が混ざっている。気づかなければよかった、と一瞬だけ思う。気づいてしまえば、もう、見なかったことにはできない性分だ。
「道、ねぇ」
大男の唇が歪んだ。笑った、というより、面倒な客が一人増えた、という顔だ。背後の痩せた二人が、ようやく俺の存在に気づいて視線を上げる。一人は欠伸を噛み殺し、もう一人は腰の短剣の柄に、ぞんざいに手を置いた。
——抜刀の癖。利き手は左。
さっき読んだ解析の文字列が、勝手に頭で再生される。
場所代を巻き上げるのに、三人がかりの大袈裟な編成。装備の質に統一感もない。組織だった連中ではなく、寄せ集めだ。芯を一発で折れば、残りは勝手に崩れる。
「とりあえずよ」大男が、ぐい、と顎をしゃくった。「兄ちゃん、財布出しな。道案内ってのはタダじゃねぇんだ」
来た。腹の奥で、ちょうどよく筋道が通った気がした。
(解析)
意識を絞って、三人を一人ずつなぞる。さっきは表面だけだった。今度は、潰せる箇所まで読み切る。視界の縁が、ほんの一瞬だけ薄く色を失う。耳鳴りに似た高音が、頭の芯で短く鳴った。
【男A — ガロ】 レベル7。右膝靱帯に三年前の貫通傷、可動域三割減。 装備:革鎧(右脇下の縫い目に裂け目)、片手剣(柄頭の固定が緩み)。 状態:中度の宿酔。視覚反応〇.三秒遅延。利き足は左。
【男B — ピッツ】 レベル4。脛に古い骨折跡、踏み込み浅い。 装備:布鎧(防御値ほぼ無し)、棍棒。 状態:常用酒精による手の震え。逃走傾向、極めて強い。
【男C — フォル】 レベル5。利き手左。腰痛持ち、上段振りに難。 装備:革鎧(肩当て破損)、短剣(刃こぼれ)。 状態:覚醒中。抜刀前に必ず半歩下がる癖あり。
頭の奥が、ちりっと痺れた。三人連続解析で、みぞおちの熱源が、目に見える勢いで目盛りを下げた気がする。背筋に薄く汗が滲み、舌の付け根に鉄に似た味が浮いた。だが、これだけ吐いてくれれば十分だ。
——攻略順は、Aから。
右膝の靱帯。ここを潰せば、リーダーが沈む。レベル7が地に膝をつく光景は、後ろの二人にとって想定外のはずだ。沈んだ瞬間に、ピッツは必ず逃げる。逃走傾向、と表示が出た人間は、リスクから真っ先に距離を取る。前世の会議室でも同じだった。火の手が上がった瞬間、いつも先に席を立つやつが決まっていた。
残るのはフォル一人。利き手左、抜刀前に半歩下がる癖。下がる前に距離を詰めてしまえば、剣は抜けない。
頭の中で、手順が組み上がっていく。条件分岐、優先度、所要時間。エクセルのフロー図と変わらない。違うのは、失敗したら血が出ることくらいだ。それも、出るのが自分の血か相手の血かは、最初の一蹴りの角度で決まる。
「おい、聞いてんのか」
ガロが一歩、踏み出した。右足。踏み出しが、ほんの僅かに浅い。膝を庇っている。本人はおそらく無意識だ。三年前の古傷を、身体は今も覚えている。
「すみません」俺は両手を、軽く広げて見せた。「財布、と言われましても」
「ねぇのか?」
「ないわけじゃないんですが」
スーツの内ポケットへ、ゆっくり手を入れる。ガロの視線が、ほんの一瞬、俺の手元に落ちた。視覚反応〇.三秒遅延。表示通りだ。その瞬間、俺は前に出る角度を、頭の中で確定させた。右斜め前へ半歩。ガロの利き足ではない、右膝の外側へ、自分の体重を全部乗せる軌道。
露店の親父が、息を呑む音が聞こえた。
「悪ぃが」ガロが、にぃ、と笑った。「あれば全部、置いてけ」
背後のフォルが、短剣の柄に置いた手の指を、一本ずつ動かした。抜刀の準備動作。だが、身体はまだ前傾していない。半歩下がってから抜く癖。表示通り、律儀なものだ。
ピッツは、目玉だけを左右に動かしている。ガロの肩、俺の手元、路地の出口。視線が三秒に二度、出口へ流れる。逃げ道を確認する人間の癖だ。膝の上に置いた指先が、小刻みに震えているのも見えた。手の震え——表示の通り。あれは安酒のせいでもあるが、半分以上は怯えだ。
少女が、唇を噛んだ。三つ編みが、肩の上で小さく揺れる。エプロンの裾を握り直す指の関節が、白く浮き上がっていた。
俺は、内ポケットから取り出した手を、空のまま広げてみせた。
「すみません、ほんとに、何もなくて」
ガロの眉間に、皺が寄った。
「……あ?」
その、間。
頭の中で、秒針が刻まれる音がした。
激昂した人間の視野は、必ず狭まる。前世の上司で学んだ。怒鳴る人間ほど、足元の罠が見えない。今、ガロの注意は俺の顔と空の手のひらに二分されている。膝への意識は、たぶんゼロだ。
「てめぇ、舐めて——」
ガロの喉から、低い唸りが漏れる。半歩、踏み込んでくる。右足。膝を庇った、浅い踏み込み。
俺は、ほんの僅かに体重を後ろへ逃した。
「いえ、舐めてはないです」
声は、自分でも驚くほど静かに出た。喉の渇きも、心臓の早鐘も、声の表面にだけは出ていない。会議室で炎上案件の説明をしていた頃、嫌というほど鍛えられた声だ。
「ただ、一つだけ、教えてほしいんですが」
「あぁ?」
「その右膝、痛みません?」
ガロの瞳孔が、開いた。
それは、怒りの色ではなかった。もっと原初的な、図星を突かれた人間の反応だ。三年前、誰かに刺された古傷。本人にとっては、絶対に他人に知られてはいけない弱点。それを、見ず知らずのスーツ姿の男が、初対面で言い当てた。
「て——てめぇ、なんで」
声が掠れた。半歩、後ろへ下がりかけて、膝が抜けかけた。あの古傷は、咄嗟に体重を抜くと、きまって笑う。表示通りだ。
背後のピッツが、ガロの肩越しに俺を見た。怯えと困惑が、痩せた顔の上で混ざっている。逃走傾向、の文字が頭の中で点滅する。あと一押しで、こいつは走り出す。
フォルだけが、半歩、後ろへ下がった。抜刀の準備動作。表示通り、律儀に下がる。下がってから抜く癖。
——条件、揃った。
俺の腰が、自然と落ちた。
社会人の四年で、剣術も拳法も覚えなかった。覚える時間も金もなかった。だが、満員電車で揉まれた身体は、人混みの隙間を縫う癖だけは覚えている。一.二倍の身体能力なら、最初の一歩は、想像より速いはずだ。
露店の親父が、少女の肩を掴んで一歩下がらせた。賢明な判断だ。
少女の淡い緑の瞳が、まっすぐに俺を見ていた。期待でも、すがりでもなかった。今度は、見届ける、という目だった。誰かが何かをしてくれる、と信じる目ではなく、何が起きるのかを目に焼き付けようとする目だ。
その目が、背中を押した。
前世のあの夜、車両の隅で逸らした視線の借りを、ここで返す。安い買い物だ。
「すみません」
俺は、もう一度繰り返した。
「ほんとに、急いでるんで」
地面を、蹴った。
スーツの裾が、風を切った。
革靴の踵が、石畳を一度だけ強く蹴る。距離は、一.五歩。ガロの右膝の外側、靱帯が三年前の傷で薄くなっている、その一点だけを見ていた。視界の端で、ピッツの目が泳ぎ、フォルの肩が後ろへ流れていく。解析の図解が、現実の動きと、一秒の遅れもなく重なっていく。
——いける。
頭の奥で、確信に近い予感が走った。
ガロの怒鳴り声が、空気を震わせた。腰の片手剣に、太い指がかかる。柄頭の固定が緩んだ、あの剣だ。抜く動作は、間に合わない。
俺の右足が、宙に浮く。
膝の外側めがけて、体重が、落ちていく。
異邦人の最初の一蹴りが、王都ヴェルダの石畳の上で、空気を裂いた。