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解析の異邦人

第1話 第1話

第1話

第1話

ドブの臭いが鼻を抉った。

頬に張り付くのは、湿った石畳。指先に触れるのは、誰かが齧り捨てた林檎の芯。舌の奥には錆びた鉄の味が残っている。

「……死んだのか、俺」

呟いてから、ようやく目を開けた。

頭上で、薄汚れたシーツが二階の窓から窓へ渡されている。木造と漆喰の壁。家畜の糞と煙の匂い。見上げた空は、終電を逃して歩いていた東京の曇り空とはまるで違う。星が、嘘みたいに多い。

巻き戻す。改札を出て、横断歩道に踏み出した。右から差し込んできたヘッドライトの光。ブレーキ音は聞こえなかった。肺の空気が一気に押し出されて、そこで意識が途切れた。

死んだ。間違いなく、死んだ。

なのに今、俺はぐっしょり湿ったスーツのまま、見たこともない街の路地裏に転がっている。革靴のつま先、ネクタイの結び目、内ポケットの硬い手帳。前世の小道具が、馬鹿正直に全部ついてきている。

身体を起こした、その鼻先に、半透明の青いパネルが浮かんでいた。

【ステータス】 名前 — 北浦 透 年齢 — 二十七 種族 — 異邦人 レベル — 1 固有スキル — 解析(Lv.1)

「……は?」

声が掠れた。手で払おうとしても、指は空を切る。視線を外すと消える。意識すると、また浮かぶ。

なるほど。これはチート判定で間違いない。

冷静、と言うには心拍は速すぎたが、それでも喚き散らすつもりは湧かなかった。終電を逃すたびに考えてきたのだ。明日、会社に行かなくていい人生があったら——その夢想の延長線上にこれがあるなら、悪くない。

問題は、固有スキルとやらが、何をしてくれるかだ。

試しに、足元に転がっている拳大の石へ意識を向けた。

(解析)

頭の中で唱えただけで、ステータスの横にもう一枚、パネルが開く。

【石塊】 組成 — 花崗岩 七割、鉄分 二割、含有不明結晶 一割 推定年代 — 三百十二年前 含有魔素量 — 〇.〇四八EM 備考 — 城壁修繕に用いられた残材

「……魔素」

鼓動が一段速くなった。ただの石が、ここまで吐き出している。三百十二年前の城壁の残材。EM——おそらく魔素の単位——という見たことのない記号まで、なぜか意味が頭に直接入ってくる。日本語で表示されているのか、俺の頭が勝手に翻訳しているのか、判別がつかない。

ともかく、これは強い。

情報は力だ。社会人を四年やればイヤでも分かる。何も知らずに会議室に入るやつは喰われ、議事録を握っているやつが昇給する。世界が変わっても、その原則だけは変わらない気がする。

立ち上がってズボンの泥を払い、自分の手のひらに視線を落とした。

(解析)

【北浦 透/異邦人】 備考 — 対象が術者本人のため詳細表示を制限 推定身体能力 — 当地成人男性平均の約一.二倍 警告 — 解析は一件につき魔素〇.〇〇二EMを消費

「燃費の概念があるのか」

呟いて、頬の擦り傷をなぞる。残量はいくらか表示されないが、感覚としてはあと数百回はいける。身体能力一.二倍は微妙な数値だが、デスクワーカーが急に格闘家になれる呪いよりはずっと現実的でいい。剣も拳法も知らない俺に、ピーキーな身体は危険なだけだ。

指先で胸を押さえる。皮膚の下、いつもより少し熱を帯びた血の流れ。みぞおちのあたりに、見慣れない小さな熱源が一つ、ぽつりと埋まっている気がする。これが魔素か、と直感した。意識を向けると、ほんの僅かに目盛りが下がるような、栓を捻れば流れ出る予感だけがある。使い慣れれば、感覚で残量を読めるようになるだろう。

「いや待て、翻訳もしてくれるって、それ最初に言えよ」

誰もいない路地で、つい突っ込んだ。

路地の奥から犬の吠え声、遠くから鍛冶の鎚音、誰かの呼び声。生活音だけは、知っているはずの中世風の街のそれだ。スマホの中の知識はほぼ使えないが、二十七年生きてきた身体感覚と、職場で叩き込まれた問題分解の癖だけは、丸ごと持ってきた。

腹が減った。

それが、今この瞬間の最優先課題だった。財布の中身は日本円で四千円ちょっと。通貨として使えない。職質されたら一発で詰む。突っ立っていても、解決しない。

歩き出した足元の水たまりに、自分の顔が映った。スーツのネクタイは半分ほどけ、髪はぐしゃぐしゃ、左頬に擦り傷。それでも目は醒めている。

理解できる世界は、攻略できる世界だ。

そう、自分に言い聞かせた。

路地の出口に近づくと、空気の質が変わった。

魚と香辛料、薪の煙、家畜と汗と革。温い風に乗って、いっぺんに押し寄せてくる。湿った石畳が、急に乾いた踏み心地に変わる。一歩、外へ出た。

——人、馬車、屋台、看板、革鎧、剣、ローブ。

視界が一気に開けて、思わず立ち止まった。木造三階建てが両側に連なる大通り。鎧の衛兵が二人、無造作に歩いていく。茶色のローブを引きずる老人、頭の上に木箱を載せた少女、腰に短剣を提げた若い男。誰一人、俺のスーツに目を留めない。

軒先に吊るされた銅鈴が、風にぶつかってちりちり鳴る。石畳の隙間から煮込み料理の湯気が立ち上り、玉葱と肉と、嗅いだことのない香草の匂いが絡み合って胃の腑を直接揺さぶった。腹の虫が、間抜けな音で鳴る。空腹は思考を鈍らせる。早く、何か食わなければ。

異邦人、というステータス表記が皮肉に効く。ここでは俺の方が異物だ。だが、振り向かれるより、無視されるほうがずっとありがたい。

(解析)

意識を散らして、通り全体を読みにかかった。

【市場通り(王都ヴェルダ・第三街区)】 所属国家 — ヴェルダリア王国 公用言語 — ヴェルダリア語(術者は『翻訳補正』により完全聴解) 通貨 — 銀貨/銅貨(銀貨一=銅貨百) 治安 — 中

ご丁寧な仕様書だ。ヴェルダリア王国、銀貨と銅貨、翻訳は最初からかかっている。誰の親切心なのか分からないが、随分とよくできたチートだ。

神様だか、システムだか、これを用意したのが何者なのかは分からない。これだけのチートを与えた以上、対価か、制約か、いずれ何かを請求してくる気はする。だが、今そこを心配しても仕方ない。判明していない条件に怯えるより、判明している手札で一歩進む方が、ずっと生産的だ。会社員時代、上司の機嫌に怯えて手が止まる同期は、いつも先に潰れていった。

通貨の存在が確認できたなら、稼ぐ手段も必ずある。素人が一日で稼ぐ方法は大抵ろくでもないが、解析持ちの素人は話が別だろう。鉱石を選別するでも、薬草を見分けるでも、賭場で配牌を読むでもいい。

唇の端が、少しだけ吊り上がるのが分かった。

——前世の俺は、たしかに死んだ。

胸の奥でもう一度、その事実を確認する。残業帰りに撥ねられた会社員は、もうどこにもいない。葬儀があるのかも、誰が泣いてくれるのかも、考えても仕方ない。

代わりに、ここに北浦透という名前のレベル1がいる。固有スキル『解析』。身体能力一.二倍。財布の中身は使えない四千円。

悪くない手札だ。

満員電車で押し殺されていた頃より、ずっと自由だ。

「だから何度も言ってんだろうがよ! 場所代だ、場所代!」

だみ声が、右手の屋台のほうから飛んできた。

果物を並べた小さな露店。台の上で林檎を握りつぶしているのは、革ジャケットを着た大男。その背後に、痩せた男が二人。露店の親父は腰を曲げて何度も頭を下げ、後ろで小柄な少女が顔を青くしている。栗色の三つ編みが、エプロンを握りしめた白い指の上で揺れていた。

頼まれてもいないのに、解析が勝手に走る。

【男A】レベル7。右膝に三年前の戦傷、可動域制限。 【男B】レベル4。素面、反応遅め。逃走傾向。 【男C】レベル5。利き手左。抜刀動作に必ず一拍の溜め。

——情報が、多すぎる。

頭の奥が一瞬しびれた。同時に三人を解析するのは、燃費がきつい。だが、それで十分だった。膝、抜刀の癖、逃走傾向。三本の糸が、俺の中で勝手に一つの手順に編まれていく。

介入する義理は、ない。

そう自分に言い聞かせかけた瞬間、栗色の三つ編みの少女と、目が合った。

大きく見開かれた、淡い緑色の瞳。怯えと、すがるような期待が、半分ずつ。声に出して助けを呼ぶ余裕すら、彼女にはなさそうだった。前世で何度も見送ってきた目だ。残業帰りの満員電車で、痴漢に遭った女子高生が周囲に投げかけていた、あの目。あのとき俺は車両の隅で、自分の疲労を理由に視線を逸らした。あれ以来、胸の奥に残っている小さな澱みが、今、軽く揺れた。

息を、一つ吐いた。

理解できる世界は、攻略できる世界だ。だったら最初の一手は、自分で選びたい。前世のあの夜、選ばなかった一手を、ここで選び直せるなら、それは安い買い物だ。

「ちょっと、すみません」

声を張った。三人組が一斉に振り返る。リーダー格の右膝に、俺は最初の一歩を踏み込んでいた。

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