第2話
第2話
銀色の光が消えたあとも、悠真はしばらく空を見上げていた。
火の脇で、焼いた果実の最後の一片が、橙色をぽつりと残している。風はまだ北から吹いていて、湯気と煙の混じった一筋を、まっすぐ空のほうへ運びつづけていた。気のせいだったのかもしれない、と思いながら、悠真はもう一切れに手を伸ばした。指先に伝わる果実の温度が、ほんのり下がっている。皮の縁が、火に近かったほうだけ、深い飴色に変わっていた。それを口に運び、ゆっくりと噛む。
甘さが、また舌の上でほどけた。さっきと同じ味のはずなのに、湯気と土の匂いがすこし強く混じったように感じる。風向きが変わったせいかもしれない、と悠真はぼんやり考えた。
ふと、湯壺のほうから、ぽこ、と泡の音がした。
水面が、円を描いて広がっていく。しずかな朝の森のなかで、その輪が、なぜか妙にはっきり見えた。悠真は、湯気のたゆたいを目で追った。湯気は、いつのまにか、火の煙よりも高く、太く、立ちのぼっている。森の梢のあたりで、湯気のかたまりが、薄い銀色を含んで光った気がした。
風が、ゆるくやんだ。鳥の声も、止んでいた。
悠真は、片膝をついたまま、顔をすこしだけ上に向けた。空の青のなかで、雲のひとつが、ゆっくりと押しのけられていくのが見えた。誰かが、上から、雲を片手で払いのけたみたいだった。膝のあたりが、すこし冷たかった。湯から上がったときの濡れが、コックパンツの裾に残っているせいだ。乾いた風が、その湿り気をなぞるように吹き抜けていった。
やがて、空気そのものが、しずかに、重くなっていった。
最初に来たのは、影だった。
空の高いところを、何か大きなものが横切ったらしい。火のまわりの土の上に、一枚の長い影が、すうっと走り、また消えた。雲の影にしては、輪郭がはっきりしすぎていた。先のほうが翼のようにひろがり、後ろに長い尾を引いていた。
悠真は、立ち上がりかけて、結局、立ち上がらなかった。立ちあがる、ということが、どうにもうまくいかない気がした。膝の力ではなく、空気の重みのせいだった。湯のほとりの空気が、まるで透明な布を一枚かぶせられたみたいに、肌の上にしっとりと張りついている。
影は、二度、三度と頭上をめぐった。そのたびに、湯気の柱が、風圧でゆらりと揺れた。四度目に、影が湯壺の上で止まった。
止まる、というのが妙な言い方だと、悠真にも分かる。空に踏み台があるはずもない。それでも、その何かは、明らかに、空中で速度を落としていた。雲よりずっと低い場所まで、ゆっくりと、ゆっくりと、降りてくる。湯気の上端を、銀色の腹がそっと撫でた瞬間、悠真の頬に、湯の粒が一斉に飛んできた。
銀色が、見えた。
鱗だ、と思った。一枚一枚が、湯気の照り返しを受けて、内側から薄く光っている。翼を広げたまま、その生き物は、湯壺のすぐ脇の、苔むした岩のあたりに、両前脚をそっとついた。爪の先が、苔のなかにめり込み、土が小さく盛り上がる。それから、後ろ脚も、しずかに、地に降ろされた。木の枝が、いっせいに揺れた。鳥の影が、奥のほうへ散っていく音がした。
悠真は、息を吸うのを忘れていた。
正面に、自分の家の二階分はあろうかという長い首が、ゆるやかな角度で曲がっていた。鼻先のあたりに、薄く湯気がかかっている。瞳は、紅というより、よく熟した果実の内側のような、しずかな色をしていた。瞬きをすると、その色のなかに、火の橙色が、二度、ゆれた。
銀竜——という言葉が、なぜか口のなかで一度かたちを取ってから、すぐに溶けていった。生まれてから一度も、自分が「銀竜」という単語を使う日が来るとは思っていなかった。逃げる、という選択肢は、とうに頭の外側へ追い出されていた。逃げるどころか、悠真は、火の脇に並べておいた最後の一切れの果実を、ふと、手のひらに乗せ直していた。職場の癖だった。誰かが厨房の匂いに足を止めたとき、まずは小皿に一口分を寄せる。あの動作を、こんな状況で身体が勝手にやるとは思わなかった。
銀竜は、首を、もうひと曲げした。鼻先が、火と石の上でゆれる湯気のほうへ、ゆっくりと近づく。
悠真は、ようやく、ひとつ息を吐けた。匂いを嗅いでいる、と気づいた。焼かれた果実の、青くて甘い匂い。湯気のなかにとけた、湯のミネラルの匂い。腐葉土と、苔の匂い。それらが混ざりあった一筋の煙の流れを、巨大な銀色は、しずかに、しずかに、たどっていた。
ふと、銀竜の喉のおくで、低い音が鳴った。唸り声、というほど鋭くはない。煮えた湯の底で気泡がほどける、あの音にすこし似ていた。納得、というか、確認、というか、そういう響きだった。
悠真は、ためらってから、果実を乗せた手のひらを、ゆっくり持ち上げた。
「……うまいです、たぶん」
言ってしまってから、自分で笑いそうになった。何年ぶりかわからない、客に試食を勧めるときの声のトーンが、勝手に出ていた。
銀竜は、その手のひらを、しばらく見つめていた。やがて、湯気の上で、ぴたりと静止した翼が、そっと畳まれた。畳まれる音は、思ったよりやわらかかった。革の上着のような、いや、母の冬のコートのような、そういう音だった。それから、長い首がさらに低く下がり、岩のあいだに、銀色の身体が、ゆっくりと折りたたまれた。
膝をついた、という言い方がいちばん近かった。
膝、と思った瞬間、銀色の鱗が、内側からかすかに歪んだ。歪んだのではなく、輪郭が、もうひと回り、別のかたちへ折りたたまれていった、というほうが近かった。湯気の白さが一瞬だけ濃くなり、悠真の視界をやわらかく覆い、その向こうで、銀色のものが、しずかに音もなく、別のかたちへ移っていく。
湯気が薄くなったとき、岩のそばに膝をついていたのは、人だった。
ひとりの、若い男だった。銀の長い髪が、肩のあたりで湯の粒を含んで光っている。素肌に、薄い銀の布のようなものを巻きつけているだけの、奇妙にあっさりとした姿だった。胸のあたりまで湯気がかかり、脚の先までは、悠真の位置からはよく見えない。瞳の色は、さっきの銀竜のままだった。熟れた果実のような、しずかな紅。
男は、自分の手のひらを、不思議そうに眺めた。五本の指を、ひとつずつ、ゆっくり閉じ、ひらいた。爪のかたちを、たしかめている動作だった。それから、視線を、悠真の手のひらの上の、最後の一切れの果実に戻した。
「お前の」
声は、低く、思いのほか若かった。年下、と感じる声だった。それが、巨大な銀の生き物から出てきたものだとは、悠真にはまだうまく繋がらない。
「お前の、それ」
男は、果実を指さした。
「……これですか」
「うまそうな匂いがした」
言いながら、男は、首を一度かたむけた。湯気のなかで、長い髪のひとふさが、肩のうえをすべって落ちる。
「ずっと、空の上で、嗅いでいた。北の風に、まじっていた。森のどこかで、誰かが、しずかなものを、焼いていると思った」
悠真は、どう返していいか分からなかった。
「で、降りてきた」
男は、それで全てを説明したという顔をした。湯気のあいだから、岩に置かれた牛刀のほうへ、ちらりと視線が走った。それから、火のなかで橙色を保っている平たい石、火の脇の果実の皮、湯壺の縁に脱ぎ捨てられたコック帽。男は、ゆっくりと、それらを順に視界に入れていった。料理人が、はじめて入る厨房の棚を見渡すような目つきだった。
「お前は、料理人か」
「……元、です」
「元」
男はその言葉を、はじめて触る食材のように、口のなかで一度ころがした。それから、何かをすこしだけ、不機嫌に思ったような顔をして、口の端を引いた。
「俺は、リオン」
名乗ってから、男は、湯気の向こうの悠真をしっかりと見た。瞳の奥で、火の橙色が、また一度揺れた。
「銀の竜の、主のほうだ」
主、という言い方が、頭のなかで竜王、と置き換えられるまでに、悠真にはすこし時間が要った。けれども、その言葉は、声に出さないでおいた。声に出してしまうと、湯気のしずけさを、自分の側から壊してしまう気がした。
「悠真、です。秋月、悠真」
「ユウマ」
湯気のなかで、自分の名前が、しずかに転がされた。
「ユウマ。頼みがある」
「……はい」
「お前のそれを、毎日、俺に食わせてくれないか」
リオンと名乗ったその男は、果実を指さしたまま、まっすぐに言った。声は張られていなかった。張らなくても届く、それくらいの距離に、二人はいた。
「金は持たない。金がいるなら、岩でも、鉄でも、もう要らない鱗でも、なんでも置いていく。お前の手から出てくる、しずかな匂いのものを、毎日食いたい。それだけだ」
悠真は、口を開きかけて、閉じた。火の上で、果実のひと切れが、ぱち、と小さくはじけた。
返事をする前に、悠真の腹が、もう一度、ぐう、と低く鳴った。
リオンが、目を細めた。笑った、と気づくのに、すこし時間がかかった。男の唇は、ほとんど動いていない。それでも、瞳の奥のほうで、火が、ふっとほどけた。
「お前、まだ食う気でいるな」
「……はい。さっきから、ずっと、もうちょっと食いたかったので」
「結構なことだ」
リオンは、岩のうえに片膝をついたまま、湯壺の縁にそっと指先を寄せた。湯の表面が、きらきら、と一度だけ揺れて、それから、何ごともなかったように、また、ふんわりと湯気を立てはじめた。
悠真は、火の脇の最後の果実を、半分に割った。半分を、リオンの手のひらに、そっとのせた。
「……毎日、というのは、たぶん、無理です」
「無理か」
「材料が、続かないので。いまのところ、湯と、果実と、石くらいしか、ないので」
「ならば」
リオンは、果実の半分を、目の高さに掲げた。橙色の縁が、湯気の白に透けた。
「明日からの分は、俺が連れてゆこう。森の、見たことのないものを、見せてやる」
湯気が、また、ひとすじ、まっすぐに、空のほうへのぼっていった。