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竜王と温泉宿、はじめました

第1話 第1話

第1話

第1話

右手の人差し指の付け根に、包丁の柄の擦り跡が、まだ赤く残っていた。

悠真は、その指を一度、ゆっくり開いて、また握る。皮が薄くなった内側の、固くなった部分が動くたびに、職場の業務用ガスコンロの油の匂いが、なぜか鼻先までよみがえった。三十二時間の連勤明け。仕込み二百食、ランチ百二十、ディナー百八十。料理長が背後で罵声をあげるたび、首筋の毛が逆立つ感覚——その全部が、いま、嘘みたいに遠い。

代わりに、苔の匂いがした。

足元は土だった。コンクリでも、ビルの裏口の灰皿の砂でもなく、湿った腐葉土の上に、だらしなく座り込んでいる自分がいる。黒いコックパンツの裾が、木漏れ日を受けて緑色に光って見えた。膝の横に、研ぎ直したばかりの牛刀が、鞘もなく転がっている。柄の銀の留めは欠けたままだった。三年前、酔った先輩から投げつけられたときの欠けだ。その小さな傷だけが、悠真の知っている世界の、最後の物証だった。

「……死んだのか、俺」

声が、思った以上に低くひび割れて出た。喉の奥が、まるで何日も塩水だけで生きてきたように、ざらりと擦れる感触があった。手のひらで首筋を撫でると、汗ではない、湿った夜露のようなものが指についた。

頭の上で、見覚えのない種類の鳥が一声鳴いた。応えるように、すぐ近くで、ぽこ、と水が湧く音がした。

顔を上げると、五メートルほど先に、大人三人ぶんはありそうな天然の湯壺があった。岩の縁から、湯気がほうほうと立ちのぼっている。空気は朝のものなのに、湯気の上だけ、夕方みたいに白い。光が、湯気の粒のひとつひとつに引っかかって、霧雨を裏側から照らしたみたいに、銀色にちらちらと揺れていた。

悠真は、四つん這いで近寄った。立つ気力は、まだ戻ってこない。掌に伝わる土の感触は、職場のタイルとはまるで違って、押し返してこなかった。柔らかく、深く、まるで自分の重さを許してくれているようだった。

湯壺の縁に手をついた瞬間、指先がじゅっと熱を吸った。慌てて手を引っこめる。だが、その熱は、痛いというより、懐かしかった。母親が銭湯につれていってくれた、小学校の冬休みの、最後の夜のことを、なぜか急に思い出した。脱衣所のオレンジ色の電球。母の手のひらの、ふやけた指のしわ。あの夜以降、自分はもう、誰かと一緒に湯に入ったことがない気がした。

靴を脱いだ。靴下も脱いだ。足の裏が、ひんやりとした腐葉土を踏んだ瞬間、びくり、と全身がふるえた。長いあいだ、革靴のなかで蒸されつづけていた皮膚が、はじめて外気を吸ったみたいだった。

足の指を、湯のなかに、そろりと沈める。

——肩が、おちた。

そう感じた。比喩ではなく、実際に、ずっと耳のあたりまで上がっていた両肩が、湯の温度に押されて、すとん、と本来の位置まで降りていった。鎖骨の下で、何かのロープが切れたような感触がした。たぶん、自分でも気づかないうちに、何ヶ月も、首と肩のあいだに、太い綱を巻きつけて生きていたのだ。膝の裏まで湯に沈めると、ふくらはぎの奥に固まっていた疲労が、湯のなかにすこしずつ滲み出していくのが分かった。湯の表面が、薄い灰色の油膜のようなものを浮かせて、ゆっくり岩の向こうへ流れていく。

息を、吐いた。

その吐息に、湯気が混ざった。

涙は、痛くもなくこぼれた。悲しいわけでも、嬉しいわけでもなかった。ただ、目の縁に長くたまっていた塩が、湯の蒸気で溶けて、頬を伝って落ちていくのが分かった。コック帽の下で何度もこらえてきたぶんが、今ごろになって、まとめて出てきたのかもしれない。

「もう、誰のためにも、作らなくていい」

口に出してから、自分でぎょっとした。

そんなことを、思ってもいいのか、と。胸の真ん中で、何か小さな、長く飼っていた鳥のようなものが、羽をひろげた気がした。

予約の電話、原価率三十二パーセント以内、SNS用のプレートの三時間、ミシュランという遠い言葉、店長の罵声、後輩の沈黙、深夜のシンクの底にこびりついた煮詰まったソース。あの全部に、「誰かのために作る」という大義名分が、ベルトのようについていた。それが、いま、湯の表面に、ふっと、ほどけて浮いた気がした。

膝までを湯に沈め、悠真は、空を見上げた。

枝の合間から、薄い水色が覗いている。雲のかたちが、全部初めて見るかたちをしていた。見たことのある雲は、ひとつもなかった。それなのに、不思議と、こわくはなかった。

腹が、鳴った。

それも、悠真には驚きだった。コーヒーと立ち食いそばだけでつないでいた胃袋が、まだ「食う」と訴える元気を残していたなんて。腹の底のほうで、ぐう、ともういちど、催促するような音がした。なんだ、お前、まだ生きていたのか、と心のなかで話しかけた。

湯から足を引きあげ、岩の苔で軽く拭う。視線を巡らせると、湯壺の少し離れた斜面に、赤紫色の果実が、ぼとぼと落ちていた。林檎より小さく、洋梨より丸い。皮の表面に、白い粉のようなものが薄くかかっている。手にとって匂いをかぐと、青いような甘いような、知らない香りだった。掌のなかで、果実は思ったよりずっしりと重く、熟れた重さで、ひんやりと汗をかいていた。

「……毒だったら、笑える」

笑いながら、もう、片膝をついていた。死ぬ覚悟は、もうとうに、あの厨房で済ませたあとだった。

落ちていた枯れ枝を集める。料理人の指は、薪の太さを束で見るのに慣れている。火打ち石の代わりに、ポケットに残っていた使い捨てライターをまわす。最後にコンビニで買った、百円の青いやつだった。三度目で、火がついた。橙色の小さな炎が、苔のなかで、まるで生まれたばかりの生き物のように揺れた。

牛刀を、鞘代わりにしていたコック帽の布のなかから取りだす。

果実を二つに割る。種は小さく、果肉は熟れた洋梨のように透けていた。包丁の刃を、薄く、薄く、扇のように入れていく。職場でやれば一秒で叱られる、丁寧すぎる仕事だった。誰のためでもない切り方を、こんなふうに自分の手がまだ覚えていることに、悠真はすこし、笑った。指先が震えていないことに、自分でも驚いた。

刃をいれるたび、果肉がしずかに割れる音が、しん、と耳の奥で響いた。職場の、油の煮える音や食洗機のうなりに塗りつぶされて、もう何年も聞いていなかった種類の音だった。一枚、また一枚と石の脇に並べていくうちに、自分の呼吸が、いつのまにか刃のリズムに揃っているのに気づく。吸って、薄く落とす。吐いて、また落とす。そうやって息と手のあいだに、誰の罵声も挟まらない時間が流れていることが、ふしぎでならなかった。

近くにあった、平たい石を火の脇に置く。

果実の片を、その上に並べる。

しゅう、と音がたった。

香ばしい匂いが、立ちのぼった。

果汁が石の表面にじわりとにじみ、焼ける皮の縁から、ぷつ、ぷつ、と小さな泡が顔を出す。林檎を焼いたときの匂いに似ていて、それより、もっと野生のなにかが混じっていた。森の奥のほうで、ことり、と葉の落ちる音がした。鳥なのか、獣なのか、それとも湯気の重みに耐えかねた一枚なのか、悠真にはわからなかった——わからなくてよかった、と思った。

砂糖はない。バターもない。塩も、胡椒も、ガスコンロも、タイマーも、伝票も、ない。

——それでも、これは、料理だった。

果肉の縁が飴色に変わるのを見届けて、悠真は、刃の腹で一切れを掬い、ふっ、と息を吹きかけた。口に運ぶ。皮の薄い苦みのあとに、蜂蜜と桃を足したような甘さが、舌の上でほどけた。喉の奥で、ちいさく、湯気のような音がした。

ああ、と、声がもれた。

うまい、と思うより前に、

「俺の、ためのやつだ」

そう、思った。

二切れ目を口にいれたとき、また、目の縁が熱くなった。今度の涙は、塩ではなく、たしかに、甘いほうの涙だった。

腹に、果実の温度が落ちていく。

悠真は、火のそばに胡座をかいて、空を仰いだ。

湯気と、焼けた果実の煙が、ひとすじ、まっすぐ立ちのぼっていく。それが森の梢を抜け、青い空のずっと上のほう、まだ薄い朝の月が白く残っているあたりで、薄く、たなびいた。

風が、北のほうから吹いてきた。

ふと——目の端が、何かを捉えた。

雲よりも、ずっと高い場所だった。

そこに、銀色のものが、一度だけ、きらめいた。

鱗のように、光った気がした。

瞬きをすると、もう、なかった。

悠真は、しばらく、自分の見たものを疑って、それから、結局、もう一切れの果実に手をのばした。匂いは、まだ、まっすぐに、空へとのぼっていた。

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