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勇者、辺境で薬草農家になる

第2話 第2話

第2話

第2話

街道を逸れた獣道は、三日目の夕にとうとう細い谷へと降りていった。

ロランは荷の紐を肩で結び直しながら、その下り坂を一歩ずつ踏んでいた。落ち葉が湿って黒く貼りつき、革靴の底が時折滑る。十年前なら一日半で抜けたはずの行程だ。けれど王都を出てからの三日で、古傷は冷えと一緒に膝の裏まで降りてきていた。踏み出すごとに腿の奥が鈍く突っ張り、肩の古い剣傷が、毛織の外套越しにもう一度針で縫われているような感覚を寄越してくる。

二日目の宿場で銅貨は三枚に減った。藁敷の床と冷えたパンの半分。それでも、朝にまた歩き出せただけ上等だった。

谷を下りきったところで、楓の幹が割れて、視界がふいに開けた。

低い屋根が、二十軒ばかり、緩い斜面に散っていた。茅葺と板葺が半々で、煙突から細い煙が三つ、四つと上がっている。畑の畝はもう取り入れを終え、裏手にいくつか積まれた藁山が、傾いた陽を受けて金色に縁取られていた。村の真ん中を、細い水路が一本、銀色に走っている。風に乗って、薪を焚く匂いと、どこかの軒先で煮込まれているらしい根菜の、湯気の柔らかい匂いが微かに届いた。

ハーゼル、と地図が呼んだ村だった。

ロランは小高い場所で一度だけ立ち止まった。胸の奥で、何かが薄く解けるような心地がしたのだ。誰かを救う為でもなく、誰かを討つ為でもなく、ただ、あの煙のうちのどれか一つの傍に、自分の体を置けるのなら——それだけのことが、十年ぶりに、許される気がした。

村の入り口には、傾いた木戸と、その脇に苔むした道祖神が一体あった。

ロランがそのあいだを抜けると、向こうの井戸端で水を汲んでいた老婆が、桶の縁に手を置いたまま顔を上げた。日に灼けた頬に、皺がいくつも畳まれている。

「兄さん、旅の人かい」

「ええ。この村に、村長さんはいますか」

ロランは喉の奥で声を整えた。十年、号令と命令ばかり張り上げてきた喉だ。普通の声を出すのに、思いのほか時間がかかる。舌の根が、自分のものではないように強張っていた。

老婆は怪訝そうに眉を寄せてから、井戸の柄を手で押さえて立ち上がった。

「ハロルド爺さんかい。あの薄青い屋根の家だよ。ちょうど、納屋で大根を吊るしてる頃合いさ」

「助かります」

会釈をして歩き出すと、老婆は背中越しに、ぽつりと付け足した。

「兄さん、ずいぶん遠くから歩いてきなすったね」

ロランは振り返らなかった。返す言葉が思いつかなかったからだ。靴の踵を見れば、革の縫い目が割れかけている。それで答えになると思った。背後で、桶に水の落ちる音が、ひとつ、ふたつと続き、やがて遠ざかっていった。

教えられた家は、正面に細長い納屋が並んでいた。戸口の前に、白いものを混ぜた髭の老人が、青首大根を麻紐に括っているところだった。麻と土と、わずかに南風に乾いた菜っ葉の匂いが漂っている。指先の節は太く、長年鍬を握りこんできた者の手だった。

「村長殿でしょうか」

ロランが声をかけると、老人は手を止めずに視線だけ寄越した。皺の奥に光る目は、思いのほか若かった。

「ハロルドだ。兄ちゃん、どこの徴税官かね。今年の麦は、もう半分は王都に上げたよ」

「徴税ではありません」

「じゃあ、何だね。物乞いには見えん」

ロランは少し迷ってから、革袋の口を緩めて、銀貨と銅貨の残りを掌に出した。冷えた金属が、夕陽を吸って鈍く瞬く。

「住む場所を、貸してもらえないかと。この村の隅でいい。空き家があると、街道筋で聞きました」

ハロルドは大根を吊るし終えてから、ようやくロランの顔を正面から見た。それからゆっくりと、その背中の鞘に目を落とした。

「鞘の長さの割に、剣が短いな」

ロランは思わず笑いそうになった。十年、見抜かれたことのない種類の鋭さだった。

「短剣しか入ってません。本物は、王都に置いてきたので」

「……ふむ」

老人は腰を伸ばし、納屋の奥の薄暗がりに目をやってから、小さく息を吐いた。その息は、白く、夕の空気に溶けるまでに思いのほか長く残った。

「村外れに、もう何年も人の入っとらん小屋がある。屋根は半分傾いとるが、雨は入らん。井戸も近い。冬まで使うなら、銀貨一枚で貸してやる。それ以上は要らん」

「銀貨一枚」

「不服かね」

「いえ、——助かります」

ロランは掌の銀貨を、そっと指先で押した。十年戦った報酬の、最後の一枚だった。

小屋までの道は、村の井戸から畑を二枚分横切った先にあった。

ハロルドが油桶を片手に提げて先に立ち、ロランは半歩遅れてついていく。畑のあいだの細道は、霜の降りた朝そのままに固く乾き、足跡が鋸のように残った。秋の陽は西の山並みの稜線にもう半分かかっていて、薄い橙が畝の縁を金色に縫っていた。どこか遠くで犬が一度だけ吠え、すぐに静かになった。

「ここだよ」

老人が、藪の手前で立ち止まった。

雑木に半ば埋もれるようにして、低い茅葺の小屋が一棟、傾いた肩を斜面に預けて立っていた。戸口の梁は太く、節の多い樫材だ。長く誰も触れていないのに、不思議と崩れかけた感じはしなかった。

ハロルドは鍵代わりの木栓を抜き、戸を押した。蝶番が、軋るような咳をひとつした。

「あとは、好きにしなされ」

老人は油桶を一度こちらに掲げて見せ、それきり背を向けた。土を踏む足音が、畑のあいだに溶けていく。やがて、その音も藁山の向こうへ消えて、辺りは耳の奥が痒くなるほどの静けさに包まれた。

ロランは戸口で一度立ち止まり、それから中へ一歩入った。

煤と、乾いた藁と、それから古い土の匂いがした。床は踏み固めの土間と、そのさらに奥に板敷の小上がりがひとつ。竈は隅に組まれていて、煤けた鉄鍋がひとつ、五徳の上に伏せてあった。蜘蛛の巣が天井の梁から垂れていたが、それすらも、この小屋に長く時間が積み重なってきた証のように見えた。

ロランは荷を下ろした。

革袋と、巻いた毛布。薄い替えのシャツと、地図と、鉄の短剣。それで全部だった。

——驚くほど、軽い。

両手で持ち上げる前は気づかなかった。十年、剣と鎧と治癒薬の包みを背負って歩いてきた肩には、この重さは荷物というより、ほとんど影のようなものだった。

小上がりに荷を置き、それから窓辺へ歩いた。板の継ぎ目が、足の運びに合わせてかすかに鳴いた。

格子は半分朽ちていたが、はめ殺しの板を片手で引くと、思いのほか素直に開いた。秋の終わりの陽が、土間にまっすぐ差し込んでくる。傾いた光の中で、塵が金粉のようにゆっくりと旋回した。

ロランは窓枠に手をついた。指の腹に、荒い木目と、長年の風で擦れた木肌の手触りが伝わってくる。

息を吐いた。

長い、長い息だった。胸の奥に十年溜め込んだ、熱と鉄と血の匂いを、内側から少しずつ押し出すような息だった。途中で何度か喉が引きつったけれど、止めなかった。吐ききって、ようやく次の息を吸ったとき、体の奥が、十年ぶりに軽くなっていた。

剣を振らない。誰も殺さない。

——眠れる場所を、探していた。

それが、いま、ここにある。

ロランは目を閉じて、もう一度息を吸った。土と、藁と、誰かが昔この竈で焚いた薪の名残の、ごく薄い煤の匂いがした。城の謁見の間の冷えた石床とは、何もかも違う匂いだった。瞼の裏に、王都の灰色の天井が一瞬よぎり、それから波が引くように消えていった。

——その時だった。

開けた窓の向こう、裏庭にあたる雑草地で、何かが、ふっと、青く光った。

ロランは目を開いた。

風が一度通り過ぎる。雑草が、波のように倒れ、起き上がる。光は、その雑草のあいだに、確かにあった。蛍火に似て、けれど蛍ではない。蛍は秋には飛ばないし、何よりこの光は、地面から、低く、しんと立ち上っていた。

裏庭の隅、藪の手前。霜の薄く降りた一画に、群生のようにそれは揺れていた。葉のかたちは、ここから見える限りでは、ふつうの薬草と変わらない。だが、夕陽が落ちきろうとしているこの時刻、青く、淡く、内側から光っている。光は強くはなく、息を吹けば消えてしまいそうな、けれど目を逸らすと急に存在感を増すような、奇妙な揺らぎを持っていた。

魔物の気配ではない。戦場で十年、ロランの背骨はそういう種類の警告には敏感だった。これは、もっと、植物の側の何かだ。

「……何だ、お前は」

呟いたのは、自分でも意外なほど穏やかな声だった。

窓枠から手を離す。土間の冷えが、足の裏から這い上がってきた。剣は、もう鞘の中にすらない。けれど、ロランは戸口へ向かって、ゆっくりと一歩を踏み出した。

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