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勇者、辺境で薬草農家になる

第3話 第3話

第3話

第3話

戸口の敷居をまたいだ瞬間、夕の冷気が頬に貼りついた。

ロランは小屋の裏手へと、土を踏みながら回り込んだ。足音が藁屑を散らし、それがまた風で散る。雑草地は、思っていたよりも広かった。膝の高さほどに伸びた草のあいだに、霜が薄く白を残している。霜の上を踏むたび、靴底でさくり、と乾いた音が立った。十年、戦場で霜を踏んだ朝は数えきれないほどあったが、それは決まって誰かを討ちに出る朝だった。今夜は、ただ草を見にきただけだ。そう思うと、踵にかかる重みが、不思議なほど軽い。

陽はもう山並みの向こうに半身を沈めかけていて、橙の光が雑草の穂先を一本ずつ撫でている。風はほとんどないのに、穂は橙のなかで微かに震えていて、まるで一日の最後の呼吸を、それぞれが少しずつ吐いているようだった。

光は、まだそこにあった。

藪の手前、三歩ほど離れた地面に、青い揺らぎが膝丈で群れていた。蛍より淡い。蝋燭の芯より細い。指先を翳しても、手は明るくならない。光は地面のすぐ上、葉の内側だけに留まっていて、外の空気には漏れてこなかった。ロランは膝を折り、土に近いところまで身を屈めた。古傷が背中で軋む。けれどそれは、いつもの晩秋の痛みだった。膝の下で、霜が一粒、ぱきりと砕けた音がした。土の匂いが鼻先まで立ち上がってくる。それは戦場の塹壕で嗅ぎ慣れた、血と泥の混じった土ではなく、ただ枯草と霜と、地虫の眠りの匂いだった。

葉のかたちは、見たことのないものだった。

ロランは戦の旅のあいだに、薬草の知識を一通り叩き込まれている。傷口に当てる種類、解熱に煎じる種類、口にしてはならぬ種類。葉脈の走り方や、裏側の毛の生え方で、たいていの草は見分けがついた。北の従軍医は厳しい男で、葉一枚を取り違えれば兵が一人死ぬ、と何度も叱り飛ばしてきた。その声が今でも耳の奥に残っている。けれどこの草は、どれにも当てはまらなかった。葉は柳に似て細長く、縁に小さな切れ込みがある。表は深い緑なのに、裏返すと白銀色をしていた。茎は折れやすそうに見えて、指で挟むとしなやかに撓った。

そして、葉の付け根のあたりが、ほんのわずかに青く脈打っていた。

——脈打っている。

そう感じてから、ロランは自分の言葉に驚いた。植物に脈などない。けれど、ほかに当てはまる表現が、思い浮かばなかった。葉の内側を、細い水のようなものが、ゆっくり巡っている。それが外に滲んで、夕の光に重なって、青く見える。じっと目を凝らしていると、その青の流れには、わずかな速い遅いがあって、まるで眠っている獣の寝息に合わせるように、強くなったり弱くなったりしているのが分かった。

魔物の気配は、やはりない。けれど普通の草でも、ない。

ロランはしばらくのあいだ、ただ膝を折って、その青い揺らぎを見ていた。風が吹くたび、葉先が一斉に同じ方向へ傾き、揺らぎが束になって流れた。海のさざ波を、ずっと小さくしたような景色だった。剣を握ってきた掌が、なぜか、その揺らぎに合わせて、指の節をひとつずつ緩めていく。長いあいだ、こうしてただ何かを見つめているだけの時間を、自分に許してこなかったのだと気づいた。

「……一本、もらうぞ」

声に出してから、誰に断りを入れているのか、自分でも分からなくなった。草に、土に、それともこの土地の見知らぬ神に。どれであっても構わない、と思った。少なくとも、人を斬る前に名乗りを上げるよりは、ずっと正しい順番のような気がした。

慎重に根の際を指で挟み、ゆっくり引き抜いた。土はやわらかく、根は思いのほか素直に上がってきた。掌の上で、葉と茎は数秒だけ青く光って、それから普通の草に戻った。光は、生きた根が土に繋がっているあいだだけのものらしい。指先に、青い樹液ではなく、透明な汁が薄く滲んでいた。鼻の先まで持ち上げてみると、湿った石の匂いに、ほんの少し、蜂蜜のような甘さが混じっていた。子どもの頃、母が冬の終わりに焚いた香草の煙にどこか似ていた。けれど同じではない。母のそれよりも、もっと深い所から立ち上ってくる匂いだった。

ロランはその一本を、もう一本、もう一本と、五本ほど摘み取った。それ以上は、初対面の草に対して無作法に思えてやめた。摘んだ茎を片手に、もう片方で膝を支えて立ち上がる。立ち上がりざま、肩の古傷がいつもより弱く軋んだのは、たぶん、しゃがんでいた時間が短かったせいだろう、と自分に言い聞かせた。けれどその言い聞かせの裏側で、別の声が小さく囁いた。——本当にそうか。

小屋へ戻り、土間の竈の前にしゃがむ。納屋の裏に薪が少し積んであるのを、さっき覗いたときに確かめておいた。乾いた小枝を集め、火打ち石を打つ。指の動きだけは、十年経っても忘れていない。三度目で、火口の麻屑が赤く灯った。煙が一筋、煤けた天井へと立ち上る。最初の橙の光が竈の中で揺れ、土間の壁に自分の影が大きく伸びた。その影は、剣を抜くときの構えではなく、ただ前屈みに火を覗き込む、ひとりの男の輪郭だった。

伏せてあった鉄鍋を取り、井戸から汲んできた水を半分ほど張った。

火にかけて、しばらく待つ。

水が温まる音は、ロランの好きな音のうちの一つだった。底のあたりで、小さな泡が、ぽつ、ぽつと弾ける。やがてその音が連なって、湯気が鍋の縁から細く立ちのぼり始める。十年、野営で何百回と聞いた音だ。けれど野営の夜は、たいてい湯が沸く頃には次の見張りの番が回ってきていた。湯が沸くのを、ただ眺めていられる夜は、滅多になかった。今夜は、見張りも、命令も、討つべき敵もいない。鍋の底で泡が育っていく音だけが、土間の隅々まで満ちていく。

青い草を、葉ごと、ゆっくり鍋に沈めた。

葉が湯に触れた瞬間、湯の表面が、ふわりと一度だけ青く揺れた。それきり光は消え、湯の色だけが、ごく薄い、空の浅いところのような青に染まっていった。湯気が立ちのぼるにつれ、鼻先に届く匂いが変わっていく。最初は湿った石の匂い。途中から、夏の終わりに通り雨が落ちたあとの、土が呼吸する匂いに近くなった。最後に、ほんの一筋、薄荷に似た冷たさが混じった。鍋の縁を伝って、青がゆるやかに渦を巻き、また真ん中でほどける。その渦をじっと見ていると、目の奥のほうが、不思議に静まっていくのが分かった。

ロランは木椀に湯を移した。

両の掌で椀を包む。掌に湯気が当たり、それから椀の底の熱が、ゆっくりと指の節を温めていく。剣だこの硬い皮膚の下まで、その熱が滲み込んでくる。長い行軍のあいだ、こうして椀を抱えて温まった夜は何度もあったはずなのに、その熱が手の節の奥まで届いた記憶は、ほとんどなかった。

口をつける前に、一度、湯気だけを吸い込んだ。

胸の奥に、湯気が降りていく。それが、肺の底に着く前のどこかで、すっと、ほどけた。うまく言葉にできないが、固く結ばれていた紐が、自分でも気づかないうちに少しだけ緩む、そういう感触だった。鎧の革紐を、戦のあとに一段ずつ外していくときの、あの肩から重みが落ちていく感じに、どこか似ていた。

それから、一口、含んだ。

舌の上に、ほんのり甘い、ほんのり苦い、けれど大半は、ただ温かいだけの液体が広がる。喉を通り、胸を通り、それが——

肩の、古傷のあたりで、ふっと、止まった。

ロランは反射的に椀を傾けた手を止めた。

止まった、と感じた次の瞬間には、その場所の痛みが、すっと、引いていた。

冷えと一緒に何年も腰の裏まで降りてきていた、北の山岳の氷竜の尾の感触。鈍く、針で縫われつづけるような、あの痛み。それが、痛みだったということを、痛みが消えてはじめて思い出すような形で、消えた。脇腹の古傷の引きつりも、笑うときの違和感も、どこかへ流れ落ちていった。膝の裏で雨の前に必ず疼いた古い裂傷も、踵の奥で寒い朝に鳴っていた骨の軋みも、まるで誰かが一枚ずつそっと剥がしていくように、体から離れていった。

ロランは椀を膝の上に置いた。両手で抱え直したまま、しばらく、息をしなかった。息を吐いた瞬間に、この感覚ごと、湯気と一緒に逃げてしまうような気がしたからだ。

竈の火が、ぱち、と音を立てて爆ぜた。煤けた梁の上で、影が一度だけ揺れた。

「……何だ、これは」

声は、自分の声であって、自分の声ではないような響き方をした。土間の壁に、その声がほんの一瞬反射して、すぐに薪の燃える音に呑まれた。

ロランは椀の中の、淡い青の湯を見つめた。

湯気が、傾いた窓辺の光のなかで、ゆっくりと螺旋を描いて立ちのぼっていく。光の粒が、そのなかで、いくつも瞬いては消えた。十年、仲間の治癒術ですら溶かしきれなかった骨の奥の冷えが、たった一杯の煎じ汁に、こんなにも素直に解けるものなのか。神殿の高位の癒し手が、銀の杖を額にかざしても、最後まで残った芯のような冷たさが、ただの草の湯に、こうもあっさりと譲ってしまうのか。

ロランは椀を口元まで持ち上げ、湯気の向こう側を見た。

裏庭のほうで、もう一度、青い揺らぎが、風に静かに撓んだのが、開いたままの窓越しに見えた気がした。

明日、もう一度、あの草を、よく見てみなければならない。

その思いだけが、十年ぶりに、誰かに命じられた使命ではなく、自分の内側から、静かに立ち上がってきていた。

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