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愛され度∞〜世界が俺を好きすぎる件〜

第3話 第3話

第3話

第3話

俺は走った。

革靴が湿った土に沈むたび、踵に泥が絡みつく。シルが俺の隣で、銀の毛を月光にさらしながら駆けていた。声がした方角は、広場の中央。萱葺きの屋根の家の、すぐ裏あたり——だったはずだ。

広場に飛び込んだ瞬間、足が止まった。

井戸の周りに、人が倒れていた。一人ではない。三人、四人。男も女も、年齢もばらばらで、全員が同じ姿勢で膝を折り、地面に額をつけるようにして動かなくなっていた。汗で張り付いた髪の隙間から、土気色の頬が見える。煙の臭いに混じって、酸っぱい吐瀉物の匂いが鼻を突いた。

胃の奥が、ぎゅっと縮んだ。

「……生きてる、のか」

返事はない。シルが慎重な足取りで老人の一人に近づき、鼻先で頬に触れた。それから俺の方を振り返って、短く一度だけ吠えた。否定の声ではない。たぶん、まだ息はある——そういう報告だった気がする。

さっきの細い声が、また聞こえた。

「……たすけ、て」

広場の隅。半壊した家の軒下。藁を敷いた地面に、誰かが横たわっていた。

俺は転がるようにそちらへ駆け寄った。

藁の山の上で、少女が一人、震えていた。たぶん十一か十二歳。茶色い髪が汗で頬に張り付き、唇の色は青白い。掛けられた古い毛布は、本人の体温と汗でぐっしょり湿気っていた。瞼は薄く開いているが、瞳の焦点はどこにも合っていない。

「俺が分かるか。声、聞こえてるか」

膝をついて顔を覗き込むと、少女の喉が、ひゅう、と鳴った。返事の代わりだった。

広場の向こうで、ざり、と足音がした。

振り返ると、白い長衣を着た男が一人、井戸のそばに立っていた。胸元に銀の鎖と、何かの神を表す紋章。教会の人間。神官、というやつだろう。

神官は俺たちを一瞥して、わずかに眉をひそめた。

「よそ者か」

「……あんたは」

「ヘンリック。アガード教団の巡回司祭だ」

低い声だった。年齢はたぶん四十前後。短く刈った髭の下で、唇が乾いている。足元には革張りの鞄が置かれていて、そこから空の薬瓶と、布に巻いた何かがのぞいていた。

「この村は、もう手遅れだ。おまえも長居するな」

「……手遅れって、どういうことだ。まだ息のある人が、こんなにいる」

「『黒咳病』だ」

神官は、抑揚のない声で病名を口にした。

「三日の発熱、四日目に肺が膿む。我々にできることは、苦痛を和らげる聖水を飲ませて、最後を看取ることだけだ。私の聖水は、もう底をついた」

「補充してくる時間は」

「司教区まで馬で二日。戻る頃には、ここには墓だけが残っている」

彼は鞄を持ち上げた。革の擦れる音が、やけに大きく響いた。

「報告は済ませた。あとは、村の境界に印を打って封鎖する。流行を広げないために、それが私の最後の仕事だ」

封鎖、という単語が、頭の中で硬い音を立てた。

「中の人間は、どうなる」

「治った者は出してやる。三日経って熱の引かなかった者は、ここで——」

神官は、最後まで言わなかった。代わりに、小さく頭を振った。

「無情に聞こえるか。だが、感染を広げれば隣の村も次の村も同じ道を辿る。教会の判断だ」

俺は、何も言えなかった。

論理は分かる。中世風の世界で、薬もまともな知識もない状況で、彼らができる最善が「隔離して焼く」だということは、理屈として理解できる。彼を責める言葉は、出てこない。

ただ、足元で藁の山が、わずかに動いた。

「……おじ、さま」

少女の声だった。

神官の肩が、ぴくりと跳ねた。彼は俺の背後に向かって、ぎこちなく目を細めた。

「リナか」

知っていたのか、と俺は思った。

「もう、目を、さました、の」

「私は、おまえの母さんに約束した」

神官の声が、低く震えた。

「最後まで側にいる、と約束した。だが、聖水はもう一滴もない。私の言葉では、神は応えてくれない。私は、おまえに——何もしてやれない」

彼は、短い髭の下で唇を噛んだ。

それから、俺の方を見た。

「すまんが、その子の手を、誰か握ってやってくれる人間が要る。私は外で印を打たねばならん。長くても、明日の朝までだ」

返事を待たず、神官は背を向けた。革張りの鞄を肩に担ぎ、井戸の脇を抜けて広場の出口へ歩き出す。背中の白い長衣に、夜露と煤が混じって、薄汚れていた。

去り際、彼の肩が一度だけ大きく上下した。たぶん、深い息だった。

シルが、低く一度、唸った。だが、彼を引き止めるための唸りではなかった。

俺の喉の奥にも、引き止める言葉はなかった。

少女に向き直った。

リナ、という名前らしい。いつから一人で藁の上に置かれていたのかは分からないが、毛布の下から覗く小さな手は、夜気と熱で奇妙な色をしていた。指先が、青みを帯びている。爪の付け根に、血の気が戻っていない。

「リナ。聞こえるか」

呼びかけると、薄い瞼がもう一度持ち上がった。今度は、わずかに視線が俺に合った。

「だ……れ」

「翔真。さっき、森から来た」

「もり……」

「ああ。お前が呼んだから、走ってきた」

少女の唇が、かすかに動いた。笑おうとした、のかもしれない。だが、その動きの途中で、彼女は咳き込んだ。乾いた、ひゅうひゅうという音。俺は咄嗟にその背中に手を回して、起こすように支えた。背中の皮膚が、布越しでも分かるほど熱い。

咳が止まると、リナは息をするのに精一杯になった。

俺は彼女の手を、毛布の上から探り当てた。指先が、氷みたいに冷たい。手のひらだけが、奇妙に熱い。掌を合わせると、リナの指がわずかに俺の指に絡んだ。意思を持った力ではなく、たぶん、生き物の反射だった。

「……おかあ、さん」

彼女が、ぽつりと言った。

「ここには、いない」

「しんじゃ、った?」

「分からない。でも、ここにはいない」

嘘は、つきたくなかった。俺はこの村の何も知らない。広場の井戸のそばで動かなくなっていた女の中に、彼女の母親がいたのかもしれない。神官が「母親に約束した」と言った時の声から察するに、たぶん——もう、いないのだろう。

リナは、もう一度、ゆっくりと息を吸った。

「おにいさん、は」

「うん」

「ここに、いて、くれる?」

俺は、何度かまばたきをした。

それから、彼女の手をもう一度、握り直した。今度は、ちゃんと自分の意思で。指の間から、リナの指の細さが伝わってくる。鉛筆より細い。これが折れずに残っているのが、不思議なくらいだった。

「いる」

声が、勝手に喉から出た。

「いる。お前の手を、離さない」

リナは、それを聞いて、もう何も言わなかった。ただ、握り返す力が、ほんの少しだけ強くなった気がした。

シルが、俺たちのそばに伏せた。長い銀色の体が、夜気から少女を遮る壁になる。喉の奥から、低く優しい音が鳴っていた。子犬を寝かしつけるような音だった。

ステータス画面が、視界の隅で強く点滅した。

【愛され度∞ 広域発動条件:成立可能】 【発動には明確な『願い』が必要】 【警告:対象が集落全域・重篤多数のため、術者への反動は致死域に達する可能性あり】 【それでも発動を行いますか】

「致死域、ね」

俺は、画面に向かって口の端を歪めた。

二回目の死。冗談がきつい、と少し前に思ったばかりだった。撥ねられて死んだ自分が、辿り着いた最初の村で、また死ぬのか。神様だかなんだかが用意した「最低保証」は、案外シビアな代物だったらしい。

リナの指が、また俺の指を、弱く握った。

俺は、その感触を確かめるように、強く握り返した。

息を吸う。

肺の底に、煙と、酸っぱい吐瀉物と、藁の埃と、リナの汗の匂いが入り込んだ。トラックに撥ねられた瞬間、肺の中の空気が一瞬で消えた、あの感覚を思い出した。あれを、もう一度やる。それだけのことだ。

「シル」

銀狼の耳が、ぴくりと立った。

「ちょっと、付き合えよ」

シルは答える代わりに、俺の太ももに頭を擦り付けてきた。それが、是という返事だと、なぜか分かった。

俺はリナの手を握ったまま、もう片方の手のひらを、半壊した家の柱にそっと押し当てた。掌に、燻った木の温度が伝わってくる。村全体に、自分の輪郭を伸ばしていく感覚。

ステータス画面の文字が、ゆっくりと書き換わっていく。

二つの月が、雲の隙間からこちらを見下ろしていた。

俺は、口を開いた。

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