第2話
第2話
走りながら、頭の片隅で「無謀すぎる」と冷静な自分が呟いていた。
レベル1。HP48。装備は学ランと、ローファー一足。武器はゼロ。それで、煙と血の匂いが混じる方角に、自分から駆け寄っている。普段の俺なら、まず通報を考えるところだ。だがここは異世界で、110番は通じない。
隣を、銀狼が音もなく走っていた。
体重があるはずなのに、落ち葉を踏む音がほとんど聞こえない。長い前肢が地面を撫でるように動いて、俺の二歩を一歩で詰めてくる。並んで走ると、自分の息の荒さばかりが妙に目立った。半分くらい、置いていかれそうだ。
「お前、名前あるのか」
走りながら聞いた。返事はない。当然だ。ただ、銀狼は一瞬だけ俺の方に目をやって、また前を向いた。金色の瞳の奥に、こちらの言葉を理解しているような色がある気がする。気のせいかもしれないが。
「……シル、でいいか。銀色だから、シル」
適当だ。だが、銀狼は否定しなかった。否定の仕方を知らないだけかもしれない。
低い藪を飛び越えた瞬間、視界の左から赤い影が突っ込んできた。
「うわっ」
反射的に身を屈めた頭の上を、何かが鋭い音を立てて通り過ぎる。振り返ると、地面に着地したのは、犬ほどの大きさのある赤い甲虫だった。鎌のような前肢が、月光を弾いている。挟まれたら、人間の腕なんて簡単に千切れる。
シルが低く唸って、俺と甲虫の間に割り込もうとした。
——その時。
赤い甲虫が、ぴたりと動きを止めた。
複眼が、俺を見ている。振り上げられたままの鎌が、ふるりと震えた。何かを迷っている、という風な仕草だった。やがて、甲虫はゆっくりと鎌を地面に下ろし、後ずさりするように二歩、三歩。俺の歩く先を空けるようにして、藪の中に消えていった。
「……今の、どういうことだ」
シルは、何でもないことのように歩き出した。
俺は数秒その場で固まったあと、慌てて後を追った。腑に落ちないにも程がある。あの甲虫は、間違いなく俺を狙っていた。獲物として認識した上で、跳びかかってきたはずだ。それが、こちらの顔を見た瞬間に、戦意ごと萎んだ。
視界の隅でステータス画面が、ささやかに点滅する。
【愛され度∞ 受動発動】 【対象:紅鎌虫(Cランク魔物)/友好度:中】 【判定:戦闘回避】
「戦闘そのものが、成立しなかった、と」
呟きながら、俺は奥歯を噛んだ。
森の中から、また別の気配がした。今度は複数。低い唸り声と、何かを引きずる足音が、左右の藪から重なって聞こえてくる。シルが立ち止まって、わずかに毛を逆立てた。喉の奥から、警告するような音が鳴る。
藪の中から、緑色の小鬼が三体、姿を現した。手にそれぞれ錆びた短剣や棍棒を握っている。ゴブリン、と呼ぶのが正しいのだろう。歪んだ顔が、こちらを見て——
止まった。
先頭の一体が、棍棒を取り落とした。隣の二体も、武器を握る手が緩んでいく。三体は、お互いの顔を見合わせ、何やら早口で囁き合った。それから、一体が前に進み出て、深々と頭を下げた。
「……いやいや」
思わず手のひらを向けた。すると、ゴブリンたちは弾かれたように一斉に道の脇へ寄り、両手で地面を指し示した。「どうぞお通りください」と、言葉が分からなくても伝わる仕草だった。
俺はシルと顔を見合わせた。シルはもはや警戒する気もなくしたらしく、悠然と道の真ん中を歩き始めた。俺もそれに続く。すれ違う瞬間、ゴブリンの一体が、汚れた指で俺の学ランの裾をそっと触れた。何か神聖なものに触れる、という手つきだった。
背筋が、ぞわりとした。
恐怖ではない。ただ、自分が「そういう存在」になってしまったことへの、奇妙な実感だった。
——存在するだけで、好かれる。
ゲーム的に翻訳するなら、敵対判定が常時オフになっている、というところか。フィールド上のモンスターが全員、勝手にこちらをNPC扱いしてくる。いや、NPCというより、たぶん、もっと上の何かだ。聖人とか、神の使いとか、そういう胡散臭いカテゴリ。
「冗談じゃないぞ、本当に」
歩きながら、俺は呟いた。
便利、ではある。圧倒的に便利だ。これがあれば、レベル1のままでも森を踏破できる。素材集めだって、たぶん向こうから献上してくる。生き延びるという一点に絞れば、これ以上ない加護だ。
ただ、嬉しくはない。
俺はトラックに撥ねられて死んだ。あの瞬間、女の子を突き飛ばしたのは、別に自分が善人だからではなく、ただ体が勝手に動いただけだ。だから、神様だか何だかが「お前は良いやつだから、特典をやろう」みたいな顔でこんな能力を渡してきたのだとしたら、それは少しズレている。俺は、選ばれるほど大層な人間ではない。
シルが、ふと立ち止まった。
俺もつられて足を止める。前方の木立が、急に開けていた。
風向きが変わった。
森の中の湿った空気に、別のものが混じり始める。焦げた木材。獣の毛が燃える、つんとした臭い。そして——森を抜ける前に気づいた、あの生臭い何か。どこかで嗅いだ覚えがある匂いだった。中学のとき、校庭の隅で猫が車に轢かれていた、あの日の匂いに似ている。
シルが、低く唸った。さっきまでの甘えた声ではない。喉の奥から振り絞るような、敵意に近い唸りだった。ただし、その対象は俺ではない。前方、木立の向こうだ。
俺は息を整えてから、最後の数歩を踏み出した。
森が、終わった。
眼下に、村があった。
なだらかな斜面の下、川沿いに広がる小さな集落だった。家は十軒もない。萱葺きの屋根、低い石垣、井戸を囲む広場。日本の感覚で言えば、限界集落と呼ばれる規模だ。ただし、その風景の半分が、黒く焦げていた。
広場の中心に、かろうじて立っている家が一軒。その壁に、人が寄り掛かるように倒れていた。距離があって顔は見えない。だが、地面に広がる黒い染みの色が、何の液体かを正確に教えてくれた。
俺は、息を吸うのを忘れた。
「……嘘だろ」
膝が、一瞬笑った。死体を見たのは、初めてだった。トラックに轢かれた自分の体の感覚はあったが、他人のそれをこんな距離から見るのは初めてだ。胃の奥が、ひっくり返りそうになる。
シルが、俺の太ももに頭を擦り付けてきた。落ち着け、と言われている気がした。
ステータス画面が、勝手に開いた。
【愛され度∞ 周辺探知】 【人間の好意反応:七件】 【内訳:重篤五件/軽傷二件】 【最も近い反応:広場中央/生命反応・微弱】
「七件、か」
たったの七件だ。村の規模を考えれば、たぶん、それが生き残りの全数だった。
シルがゆっくりと斜面を下り始めた。俺も後を追う。革靴が、湿った土に何度か滑る。膝に力が入らない。だが、立ち止まることもできなかった。
近づくにつれ、煙の正体がはっきりしてきた。家を焼いたのは、たぶん、戦闘ではない。火の粉が散ったような跡がない。家の中から燃えている。それに、戦闘で倒れたにしては、広場の死体には外傷らしい外傷がなかった。ただ、その場に座り込んだまま、息を引き取ったような姿勢だった。
——病気か。
俺は唇を噛んだ。中世風の世界。村単位で人が倒れているとなれば、可能性は限られる。疫病。それも、高熱を伴うやつだ。家を焼いていたのは、たぶん、感染源になった布や寝具を処分しようとした名残。最後まで意識のあった誰かが、それをやって——間に合わなかった。
入ってはいけない、と冷静な俺が囁いた。
正解だ。ここは異世界。免疫もワクチンもない俺の体が、この病にどう反応するかは未知数だ。引き返して、王都だかなんだかで報告する方が、ずっと合理的だ。レベル1が一人で踏み込んでいい場所ではない。
それなのに、足が、勝手に村の入口へ向かっていた。
集落の入口に、半ば朽ちかけた木の門柱が立っていた。誰も俺を止めない。門のこちら側で、俺は一度だけ大きく息を吸った。煙と、血と、知らない病の匂い。それを肺の底まで入れて、それから、踏み出した。
革靴の踵が、土を踏み込む。
その瞬間、ステータス画面が今までで一番強く点滅した。
【愛され度∞ 広域発動条件:成立可能】 【対象範囲:集落全域】 【発動には明確な『願い』が必要】 【警告:対象範囲が広域のため、術者への反動が予測されます】
「反動」
俺は、画面の文字を声に出して読んだ。シルが、心配そうにこちらを見上げる。
何が起こるかは分からない。命の保証もない。だが、ステータス画面に「願い」と書かれている時点で、答えはほとんど決まっていた。俺がここまで来たのは、合理的な判断ではなくて、もっと別の何かだ。たぶん、トラックの前に飛び出したあの瞬間と、同じ種類の何かだった。
広場の方から、誰かの細い声がした。子供の、それも、ほとんど吐息に近い声だった。
俺は走り出した。
シルが俺の隣で吠える。月が二つ並んだ夜空に、その遠吠えが、長く長く尾を引いて伸びていった。