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愛され度∞〜世界が俺を好きすぎる件〜

第1話 第1話

第1話

第1話

肺の中の空気が、一瞬で消えた。

トラックのバンパーが脇腹に食い込んだ感覚はあった。次の瞬間、自分の体が宙に浮いて、アスファルトの匂いが鼻先を掠めて——そこから先の記憶はない。たぶん、即死というやつだったのだろう。

「……起きろ、って言われても」

頬に当たる土の感触で、俺は目を開けた。湿った腐葉土の匂い。背中の下で小枝が折れる、乾いた音。両手を地面につけて起き上がると、視界の端で何かがチカチカと点滅していた。

半透明の、青白いウィンドウ。

「……ステータス画面?」

口に出してから、俺は自分の声がやけに落ち着いていることに気づいた。死んだはずだ。確かに死んだ。湊翔真、十六歳、日本の高校二年生。下校途中、横断歩道に飛び出した小さな女の子を突き飛ばして——それで終わったはずの俺が、見知らぬ森で、半透明の画面と向き合っている。

頭上を見上げる。木々の合間に、月が二つ浮かんでいた。片方は欠けかけた銀色、もう片方は薄い青みがかった円。日本の夜空に、月が二つあった記憶はない。

「なるほど。これは、そういうやつか」

異世界転移、という単語が脳裏に浮かんだ。深夜のネット小説で何度も読んだ、お決まりの導入。本来なら混乱して泣き叫ぶ場面なのかもしれないが、不思議と頭は冷えていた。たぶん、肺がまだ空気を完全に思い出していないせいだ。胸のあたりが、じくじくと熱を持っている。

俺は改めて、目の前のウィンドウに視線を戻した。

【名前】湊翔真 【種族】人間/異界人 【レベル】1 【HP】48/48 【MP】12/12 【固有スキル】愛され度∞

「……は?」

思わず声が裏返った。

レベル1のステータスは、まあいい。HP48もMP12も、たぶんこの世界基準では雑魚もいいところなのだろう。問題は最後の一行だ。

「愛され度、無限大?」

何度も読み返したが、表記は変わらない。固有スキル、と銘打たれた欄に、ふざけたとしか思えない単語が並んでいる。攻撃力が高いわけでも、魔法が使えるわけでもない。「愛される」。それも「∞」。

「これは、転移特典って呼んでいいのか? それともガチャの最低保証か?」

ぶつぶつ呟きながら、俺は地面に転がっていた小石を拾い上げた。試しに数歩歩いてみる。痛みはない。怪我もない。学ランは制服のままで、不思議と土汚れひとつ付いていなかった。

——と、そこで気づいた。

背後の藪が、ガサリと鳴った。

体が反射的に強張る。森。異世界。ステータス画面が出るような世界なら、当然、化け物の一匹や二匹は徘徊しているはずだ。RPGの基本だ。レベル1の俺がエンカウントするのは、せいぜいスライムか——いや、最悪の場合、もっと厄介なやつかもしれない。

ゆっくり振り向いた。

息が止まった。

そこにいたのは、銀色の毛並みをした狼だった。ただし、サイズが違う。体高は俺の腰どころか胸まで届く。前肢の爪は黒曜石みたいに光って、開いた口の中には、サーベルのような牙が並んでいた。両目が、月の光を反射して金色に燃えている。

これは、ダメなやつだ。

逃げる、という選択肢が一瞬よぎる。だが足は動かない。動いた瞬間に追いつかれて、首筋に牙を立てられて終わる。野生動物のドキュメンタリーで何度も見た光景が、嫌な解像度で脳裏に再生された。喉の奥が、からからに干上がっていく。心臓が、肋骨の裏側を内側から殴っているような音を立てていた。さっきまで妙に冷えていた頭が、今度は逆に熱を持ち始めている。死ぬ。二度目の死。今度は、痛みを感じる時間まで律儀に用意されている死だ。

銀狼が、一歩、こちらに踏み出した。

「……っ」

爪が掌に食い込むほど拳を握る。今度こそ、本当に死ぬ。トラックに撥ねられて、運良くやり直しのチャンスをもらったと思ったら、二分後にこれか。冗談がきつい。

銀狼が二歩目を踏み出した。三歩目。落ち葉を踏みしめる音が、やけに静かに響く。鼻先が、俺の手のひらに触れる距離まで来た。獣特有の、湿った息が指先にかかる。生臭い。だが、不思議と恐ろしさよりも先に、その息の温度の高さに気を取られた。生きている熱だ。今からこの熱が、俺を引き裂くのだ。

そして——

——ふに、と。

その鼻先が、俺の手の甲を押した。

「……え?」

サーベルのような牙が、俺の指の隙間を撫でる。湿った感触。獣の体温。だが、噛みつく気配はない。それどころか、銀狼は喉の奥から低い、しかしどこか甘えたような音を漏らして、頭をぐいぐいと俺の腕に擦り付けてきた。耳の後ろの毛が、頬に触れる。意外なほど柔らかい。表で輝いていた銀の毛並みは、近くで見るとうっすらと青みを帯びていて、月光を内側に閉じ込めたような艶を放っていた。

尻尾が、ふさり、ふさりと揺れている。

「……お前、犬じゃないよな?」

恐る恐る尋ねたが、銀狼は答えない。当然だ。代わりに、彼——なのか彼女なのか分からないが——は俺の足元に座り込んで、丸太のような頭を膝に乗せてきた。重い。それなりの体重だ。膝が軋む。だが、その瞳は、捨てられた飼い犬が再会した飼い主を見るような、まっすぐな光をたたえていた。何か、ずっと探していたものに、ようやく辿り着いたとでも言いたげな目だ。

頭を撫でるべきだろうか。撫でていいやつなのか。俺の指は迷ったまま、結局、銀狼の耳の付け根に触れた。指先に、ぴくりと反応が返ってくる。怒られる、と一瞬身構えたが、銀狼はむしろ目を細めて、もっと、とでも言うように頭を押し付けてきた。

ぐるる、と喉が鳴った。気持ちよさそうな音だった。

「……マジか」

視界の隅で、半透明のウィンドウがまた点滅した。

【スキル『愛され度∞』が発動しています】 【対象:銀月狼(Aランク魔物)】 【友好度:最大値】

「Aランク」

俺は、思わずその文字を音読した。レベル1の俺がエンカウントしたのは、たぶん、この森でも上位に入る化け物だ。普通に襲われていたら、HP48なんて二口で消し飛んでいた。

それが、今は俺の膝で目を細めている。

——存在するだけで、好かれる。

あの最低保証みたいなスキル名の意味が、ようやく腑に落ちた。攻撃力ではない。防御力でもない。これは、「相手の敵意そのものを成立させない」スキルだ。トラックに撥ねられて死んだ高校生に、神様だか何だかが用意した、ふざけているようで、実はとんでもない外れ値の力。

「……チート、ってやつか」

口の中で呟くと、銀狼が応えるように尻尾を一度地面に叩きつけた。

俺は銀狼の毛並みを撫でながら、頭の中で状況を整理した。森。二つの月。Aランクの魔物が懐く異常事態。たぶん、俺はもう日本には帰れない。帰り方も、戻る理由も、今のところ見えていない。

ただ、一つだけ、はっきりしている。

撥ねられる直前に庇った、あの女の子の顔。長い前髪の隙間から覗いた、驚いたような大きな瞳。あの子は、無事だっただろうか。せめてあの子だけは、ちゃんと家に帰れていればいい。それだけが、俺がこの世界に置いてきた唯一の心残りだった。

立ち上がる。膝の上の銀狼が不満そうに鼻を鳴らしたが、俺はその頭を軽く叩いてから、森の奥に視線を向けた。

木々の隙間、遠く——

煙が、上がっていた。

細い、けれど確かに人の暮らしが燃えている煙だ。

「人がいる」

呟きながら、俺は一歩踏み出した。銀狼が立ち上がって、当たり前のように俺の隣を歩き出す。並んでみると、本当にデカい。たぶんこいつ一頭で、村の一つや二つは滅ぼせる。

それが、俺の散歩仲間だ。

「とりあえず、その煙のところまで行ってみるか。情報がいる」

学ランのネクタイを締め直して、俺は煙の方角へ歩き出した。湿った腐葉土の上に、革靴の踵が沈む。

ステータス画面の隅で、何かの数字が、もう一つ増えていた。

【愛され度∞ 周辺探知:有効範囲内に好意反応——多数】 【内訳:重篤な負傷者を含む】

「……重篤?」

銀狼が、低く唸った。風向きが変わって、煙の匂いに、別のものが混じり始める。

——焦げた木材ではない。もっと、生臭い何か。

俺は走り出した。

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