第3話
第3話
雪片が掌の上で続けて弾けた。光は強さを増さず、ただ輪郭だけが鮮明になっていく。レオンは指先の角度をひとつ調整し、魔力の出口を半分に絞った。鑑定石の柱が読み取らなかったものを、雪の上で測り直す作業だった。読まれなかったのではない。読みきれなかった、のだ。掌の真ん中で、儀式の場では潜らせていた熱が、今、薄く立ち上がっている。
「──六」
低く呟いた。
最初の一頭の頭が、第二の影と重なる位置に滑り込み、第三、第四が左右に展開する。後列にもう二頭。計六頭。革鎧を粗く編んだ胸当てに、雪が斑に積もっていた。先頭の個体は、左の二の腕に、人骨を削った腕輪を巻いている。村人の指を、糸で数珠に通したものだ。指の関節は、それぞれが違う方向に折れ曲がっていた。一本ずつ、別々の悲鳴の中で千切り取られた指だった。糸は人の腱を撚って作られていて、雪の中でもなお、焦げ茶の艶を残している。レオンはその腕輪の節を、心の隅で数えた。九。指の数で言えば九本。家族で言えば、少なくとも三家族。半月の間、塩番の手前で誰を狩っていたのかが、その腕輪一つで分かった。
胃の底で、薄い火が音もなく鳴った。怒りは沸き立たない。沸き立つほど浅くないものが、肋骨の裏で、温度だけを静かに上げていた。八つの夜、結界石の前で抑え込んだ熱と、同じ温度だ。
ゴブリンたちは吠えなかった。吠えるべき距離を既に越えている。足の甲を浅く沈ませ、雪を立てずに半円を狭める。獲物の目を見て、時間を計っている。獣の段取りではなく、半年、人を喰った手つきだった。半年の間、塩番の村で誰かが消えるたびに、ギルドは「迷子」と書類を閉じてきた。書類の閉じ方を、目の前の六頭は知っていた。だから吠えない。だから、足跡を雪に立てない。レオンは右の踵をほんの数寸、後ろへ引いた。後退ではない。重心を斜めに分け、左掌の光を、自分の身体の影に隠す位置取りだ。
風が一度、止んだ。
呼吸の数を、レオンは奇数で揃えた。
──同じ刻。
王都ウィスター中央広場の社交館では、グレヴィル公爵家の小ホールに灯が増やされていた。
「──ですから、わたくしの目に狂いはなかったの」
アリシア・グレヴィルが、銀の縁の硝子杯を、わずかに傾けた。深紅の葡萄酒が燭台の光を受けて、底に小さな星を作る。星は、彼女の指輪の翡翠と、卓の真ん中でならんだ。集まったのは公爵家寄りの令嬢たちと、それぞれの婚約者にあたる若い当主、第二王子の側付きの家臣が三人。十六の椅子に、十四人。空席の二つは、儀式の場であてつけに外されたアルヴィス家の席だと誰もが知って、誰も口にしなかった。
「机上の三男坊」と、アリシアは続けた。「兵站簿だの結界図だのを抱えて、領主気取りで頷いていたあの方──」
「──結局、紙の上の人形でしたわね」
ユーフェミア・ロアンが、扇をひらりと閉じる。骨の鳴る音が、ホールの白い壁に短く跳ね返った。
「ねえ聞いていらして? 鑑定司のあのお爺様、声を絞って『反応、なし』とおっしゃったの。お爺様の声があんなに小さくなったのを、わたくし初めて聞きましたわ」
「お可哀想に」
「ええ、本当に。三百二十年、滞ったことのない儀式が、あの日初めて滞った。歴史に残ってしまうかしら」
笑いが、布で擦るように広がった。給仕の少年が銀盆を傾け、深紅が再び杯に注がれる。卓の縁では、薔薇水の香炉が低く煙を立てていた。強すぎず、しかし鼻の奥にだけは確かに残る、グレヴィル公爵家の冬の匂いだ。卓の銀器は磨きすぎていて、燭台の炎を一本ずつ、二倍に増やして写していた。十六の椅子のうち、空席の二つだけが、燭台の光を反射しなかった。光らない椅子の背は、話題から正確に外され、はじめから存在しないかのように扱われていた。
「乾杯、いたしませんこと?」
ユーフェミアが立ち上がった。藤色のドレスの裾が、椅子の脚を一度払う。
「無能を切り捨てた、我らの賢明に」
「賢明に」
杯が、ひとつ、ふたつ、卓の上で交わる音を立てた。澄んで、少しだけ甘い音だ。アリシアは杯を口の前で止め、ふと眉を寄せた。
(……寒いわね)
火は炉に焚かれていた。窓は閉まっていた。それでも、左の二の腕の内側に、ほんの一瞬、雪を肌に当てたような感触が走った。気のせい、と片付けて、杯を口に運ぶ。葡萄酒は、舌の上でわずかに苦い。先月までの仕入れと、銘柄が変わっている。仕入れの差配を取りまとめていたのが誰だったのか、彼女は思い出さなかった。思い出す必要がないと、彼女自身が信じていた。仕入れ係も、結界図の写しも、夜番の手配も、それを誰がやっていたのかを問う必要のない種類の事柄だと、生まれてから一度も疑ったことがなかった。だから、左腕の内側を撫でた違和感も、息を吐く間に忘れた。
雪原で、最初の一頭が踏み込んだ。
地を蹴る音は、雪に沈んで小さい。だが踵で押した瞬間、ゴブリンの腰の低い動きに、半月かけて磨かれた殺気の段取りが乗った。錆びた鉈が、左斜め下から、レオンの腹を抉る角度で振り上がる。
レオンは半身を切らず、踏み込んだ足の側に重心を残したまま、左の掌を一度、軽く握った。
光は、握った瞬間、外には漏れなかった。代わりに、ゴブリンが踏み込んだ雪面が、足首から先だけ──ほんの拳ひとつ分の領域だけ──白い粉が結晶の角度を失って、ふっ、と粉砂糖のように浮いた。
ゴブリンの足が、滑った。
鉈の軌道が、ほんの三寸、外側にずれた。レオンは外套の襟の下から右手を抜き、空いた間合いに肘を入れた。骨と骨の鳴る乾いた音。ゴブリンは仰け反り、二頭目の影に倒れかかる。倒れた個体の喉から、初めて短い悲鳴が漏れた。
それで、輪が崩れた。
崩れた瞬間、レオンは長く息を吐いた。
自分でも意外なほど、長い息だった。十六年、ずっと胸の真ん中に置きっぱなしだった、何か固い物の輪郭が、その息に乗って、半分だけ外へ出た。半分。残り半分は、まだ胸の内に残っている。残り半分が、首筋から肩の付け根に向かって、火に近い熱を立てている。儀式の場では、この熱を全力で抑え込んだ。抑え込まなければ鑑定石の方が砕けると、八つの夜の結界石の感触が告げていたからだ。
(……抑える理由が、もう、ない)
二頭目が、雄叫びを上げて踏み込んできた。今度は仲間を踏み越えながら、両手の鉈を振りかぶる。三頭目が背後に回り込み、後列の二頭が左右から弧を描いて間合いを詰めてくる。半年磨いた手つきが、今夜は崩れる側に回った。それでも、六対一は、六対一だ。レオンは胸の真ん中に、自分の右手を一度だけ当てた。十六年、結界石の感触で覚え込んだ抑え方を、ひとつずつ、内側から外していく。締めていたねじを順に緩めていくような感覚だった。緩めた分だけ、身体の芯から、青白い熱が肌の下を這い上がってきた。喉の奥が、灼けるほど冷えた。
レオンは外套の前を、ゆっくりと開いた。
雪の中で、右の掌を、初めて空に向ける。
掌の真ん中に、薄い銀の点がひとつ、灯った。儀式の場で見せなかった光だった。点は瞬きのたびに数を増やし、五、十二、三十三、と増えていく。雪片が、空中で、彼の掌の上の点に向かって、ほんのわずかに角度を傾けた。風が、もう一度止んだ。
止まった風の中で、レオンの唇がひとつだけ動いた。
「──測れなかった、と言うなら」
掌の上で、点の数が、まだ増え続けている。
「測ってやるよ」
風が、戻らなかった。
戻らなかった代わりに、足元から雪が同心円に薄く払われた。半径三歩の白い円が、彼の靴底を中心に開く。円の縁には、雪の結晶が一粒ずつ、まるで耳を澄ますように向きを揃えて立っていた。空中の雪も、もう自由に降りてはこない。掌の上の点と、足元の円の縁と、その二点を結ぶ見えない線の上で、世界が一拍だけ静止していた。ゴブリンたちの動きが、揃わないまま、半拍だけ遅れた。半拍。それは、彼らの段取りがはじめて読み違えた、一拍だった。
同じ刻、社交館でアリシアが葡萄酒の杯を置いた。指がわずかに震えていた。
(……何かしら、この胸騒ぎは)
王都の北の空、雲の一点だけが、ふっ、と内側から青く明るんだ。誰一人、窓の外を見なかった。
レオンの掌の上で、点の数は、まだ増え続けている。