第2話
第2話
雪は本降りに変わっていた。
レオン・アルヴィスは外套の前を片手で掻き合わせ、街道の轍を踏みながら西へ進んだ。靴底に張りついた雪が一歩ごとに固まり、革を冷やす。足首の腱から脛へ、冷えは細い針で縫い上げるように這い上がってきた。耳の奥で唸り声が、また低く響いた。三つ。いや、四つ。声同士が間を詰めて吠え合っている。獣ではない。獣は群れて吠える時、もっと整った序列を見せる。これは、もっと粗い喉だ。喉と喉の間に、濡れた布を引き裂くような擦過音が混ざる。
──ゴブリン、か。
胸の中で名を呼んでも、足は止まらなかった。革袋の紐が肩に食い込む。重さはない。中に入っているのは外套の替え一枚と銀貨十二枚と、家令が黙って混ぜた干し肉。十六年分の体重に比べれば、軽すぎる荷だった。軽さは、置いてきた物の輪郭をかえって浮かび上がらせる。書架の三冊、机の右の二段目、廊下の北側に立てかけた予備の杖。ひとつひとつ思い出すたび、胸の奥でかすかに位置がずれていく音がした。
街道の左手に、薄い灯が見えてきた。番所の常夜灯だ。アルヴィス家領北西の出口、通称『塩番』。冬季、王都へ抜ける塩商人を改める小屋で、屋根の下にいつも誰か一人が詰めている。常夜灯は油の節約のため、本来この時刻には消えているはずだった。油の匂いが、雪の中まで微かに伸びてきた。匂いは粗精製の鯨油で、屋敷の灯りより一段、煤の縁が太い。
(……ヤン爺の合図か)
レオンは口の端を、ほんの少しだけ緩めた。御者頭のヤン爺が屋敷を出るとき、誰かに先触れを走らせたらしい。塩番の老兵に、息子の最後の通行を見送らせる。父の指図ではないだろう。父は息子と目を合わせなかった。けれども家中の年寄りは、合図を一つ二つ、勝手に交わす程度の自由を持っている。年寄りの自由とは、命じる側が見落とす隙間に咲く、小さな野の花のようなものだ。誰も摘まない。誰も咎めない。ただ、咲いている。
灯のもとで、革鎧の老人が一人、長柄を抱えて立っていた。
「──若様」
ハルト・モウル、と名乗った男だった。レオンが八つの頃、北辺結界の起点石を初めて触った日に、後ろで槍を構えていた兵だ。今は塩番の番頭を兼ねている。雪に白くなった眉の下で、目だけが黒く動いた。眉の白さは年のせいではない。あの夏、北辺の野火で右の眉だけ焦がし、生え変わった毛が雪の色に近づいたのだと、幼いレオンに本人が笑って話したことがあった。今、その眉は微動だにしない。
「通る」とレオンは短く言った。
「……承っております」
ハルトは長柄を脇に寄せ、道を空けた。半歩。それ以上は空けなかった。半歩、というのは、礼ではあるが、見送りではないという宣告に近い。レオンはその距離を読んだ。読んで、黙って受け取った。
「お見送りは、ここまでで」
「結構」
「一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
レオンは足を止めた。雪片が睫毛に止まり、まばたきで散る。睫毛の先で溶けた一滴が、頬の冷えた皮膚を伝って、顎の輪郭で止まった。
「来月の塩、王都への運び出しが半月遅れます。先月、若様が組み直された配分で、行けますか」
老兵の声は震えていなかった。任務として尋ねていた。震えを許さない、という訓練を、四十年かけて喉に染み込ませた声だった。レオンは半歩戻り、外套の内側から指先を出して、空に簡単な数を切った。指先は冷えで青みがかっていたが、数字の輪郭は崩れなかった。
「行ける。鉱山口の備蓄から二樽だけ前借りしろ。雪解けの第一便で返す。第七版の補遺、最終頁に手順を書いた。父上の机の上にある」
「最終頁、ですな」
「ヤン爺に読ませろ。あいつが分からなければ、もう誰にも分からん」
ハルトは笑わなかった。代わりに長柄の石突きで、雪を一度、軽く突いた。石突きが固い土に当たる、乾いた音が一つだけ返ってきた。返事の代わり、と聞こえた。
「……承知いたしました」
レオンはそれ以上、何も付け加えなかった。最終頁。机の上にあの三冊を重ねた時、表紙の下にもう一枚、薄い羊皮紙を挟んだ。改訂第七版の正式な補遺ではない、走り書きの一葉だ。誰が読むかも分からない。けれど書かずには出られなかった。塩、結界、水路。来月、再来月、春。指示というより、引き継ぎでもなく、ただ「ここから先はこうすれば回る」という、運用の地図だった。インクは、暖炉の脇で書いたから、最後の一行だけ少し滲んだ。乾く前に冊子を閉じてしまった。閉じる時、表紙の革が指先に残した冷たさを、今もはっきりと覚えている。
──俺がいなくとも回る。
父の声が、雪の中で一度だけ、頭の奥に蘇った。低く、短く、節をつけずに切り落とされた、あの声だった。
(回る、と仰ったな)
回る、という言葉は、よく回る、を意味しない。今より滞りなく、ではなく、ただ止まらない、というだけのことだ。冬の塩は遅れる。結界石の魔力波は、北辺の第三接続点でいずれ歪む。治癒水路は満月の前夜を一回逃すたびに、浄化効率が一割ずつ落ちる。三年で誰かが気付く。気付いた頃には、半分が苔で詰まっている。詰まったあとに通水を回復させるには、十六年かけて積み上げた手順を、また最初の一行から書き直さねばならない。書き直せる人間が、果たして残っているのか。それは、もう、自分の問いではなかった。
それでも、回る。
レオンは唇の裏を歯で軽く噛んだ。痛みはなかった。痛みより先に、喉の奥が一度、熱を持った。怒りでも哀しみでもない、もっと細い熱だった。糸を一本、火で炙ったような、輪郭の明確な熱。父がそう言うなら、そう言うのだ。証明する義理は、もう、ない。
「ハルト」
「は」
「結界石が、今夜、二度光った。屋敷の門のだ。お前の係ではないが、伝えておけ」
老兵の眉が、わずかに動いた。何か言いかけ、口を閉じ、もう一度開いた。喉仏が一度、上下した。二度光るという事象が、この男の四十年の経験のどこにも収まらない事だと、その動きで分かった。
「……承知。父上にお伝え致しますか」
「いや」とレオンは答えた。「ヤン爺に伝えろ。父上は、聞かない」
「は」
レオンは塩番の灯を背に、再び歩き出した。番の枠木をくぐる時、頭の上で梁が一度きしんだ。ここから先は、領地の結界の外だ。北辺結界の魔力路を、レオンは指の感覚で辿れる。出口の枠木を越えた瞬間、左の掌の薄い痺れが消えた。常に身体に乗っていた領地の結界の支えが、外れたのだ。風が、少しだけ重くなった。重くなった、というよりも、肩から首の付け根にかけて、見えない衣を一枚剥がされたような、皮膚に直接吹き当たる風の感触だった。十六年、結界の内側でしか呼吸してこなかったのだと、外に出てはじめて知る。
唸り声が、近くなっていた。
街道の左、雑木林の向こう。低い喉が、揃わない呼吸で吠えている。一つ二つではない。レオンは数えるのをやめた。雪の積もり方を見る。北東から南へ、四列。獣道ではない、何かが並んで踏みしめた跡だ。歩幅の狭い、内股気味の足跡が、互いに少しずつ重なり合いながら続いている。距離からして、結界の外側に半月以上居座っている。配備上、こうなる前に第三巡回隊が掃いているはずだった。来月の補遺に書く予定だった事項が、すでに崩れている。崩れていた、ということを、補遺を書いた本人だけが、追放の夜にようやく気付く。皮肉と呼ぶには、味が薄かった。
(囲まれる前に、抜けるか。受けるか)
抜けることはできた。塩番に戻り、ハルトに兵を呼ばせれば、明朝には掃討できる。十六年、自分が組んだ防衛網の中である。逃げ込む先の段取りは、目を瞑っても書ける。書けるからこそ、書きたくなかった。
レオンは振り返らなかった。
革袋の紐を肩から外し、足元の雪に置いた。袋が雪に沈む、くぐもった音。代わりに左の掌を握り、ゆっくりと開く。指の関節が冷えで一拍遅れて従った。指先に、儀式の場で鑑定石が読まなかった魔力が、薄く灯った。雪片に触れた途端、白く弾けて消える。鑑定司の老人が見れば腰を抜かす光量を、レオンはわざと弱く保った。試している。儀式の石が黙ったあの感覚を、もう一度、自分の手で確かめている。確かめて、どうするのか、という問いには、まだ答えを出していなかった。出さないまま、唸り声の方へ、掌を一度傾けた。
唸り声が一段、語に近づいた。喉の奥で擦れる、低い、人語ともつかぬ音。ゴブリンの方言だ。北辺結界の外側、半年に一度、辺境の村が手を焼く相手。レオンが書いた兵站簿の末尾に、いつも討伐隊の人数と消耗品の見積もりを記してきた相手だった。紙の上では数字でしかなかった生き物が、今夜、初めて、自分の前に肉と臭いを持って立とうとしている。
雑木林の影から、最初の一頭がぬっと頭を出した。続いて二頭、三頭。雪の中に黒い輪が、ゆっくりと閉じていく。輪の閉じ方には、迷いがなかった。獣の警戒ではなく、馴れた段取りの動きだ。半月以上、ここで何かを狩り続けてきた手つきだった。
レオンは外套の襟を下ろし、口元を雪に晒した。吐く息が、白く伸びる。掌の光が、ほんのわずか、強くなった。雪片が掌の上で立て続けに弾け、その小さな音だけが、雪原のすべての音を一瞬だけ後ろに退かせた。
「──別に、構わない」
声は雪に吸い込まれ、一片も残らなかった。背後で塩番の灯が、もう見えなくなっていた。