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鑑定不能の神域、もう振り返らない

第1話 第1話

第1話

第1話

鑑定石に右手を押し当てた瞬間、掌に走ったのは熱ではなく、霜の張った金属の冷たさだった。レオン・アルヴィスは眉ひとつ動かさず、石に手を預けたまま十秒、二十秒、と数えた。

水晶柱は暗いままだ。本来であれば、十六の子の魔力に触れた途端に芯から青白い光が立ち上り、保有スキルの紋様が螺旋を描いて柱の表面を昇っていく。レオンは過去三人の兄たちの儀式に立ち会っている。長兄ガレンの時は剣の紋章が、次兄ノアの時は治癒の蔓草が、それぞれ柱の中央で花開いた。今、彼の掌の下にあるのは、ただの磨かれた水晶でしかない。

「……反応、なし」

鑑定司の老人が声を絞った。広間にざわめきが落ちる。十六歳の成人の儀。王都ウィスターの大聖堂で、貴族の子弟は鑑定石に手を当て、保有スキルを読み上げられる。三百二十年滞ったことのない儀式である。

ざわめきの中で最初に笑ったのは、公爵令嬢アリシア・グレヴィルだった。扇を広げ、背の高い椅子から身を乗り出す。藤色のドレスの袖口で銀糸の刺繍が揺れ、彼女が口を開く前に、隣席の貴婦人たちが既に小さく息を呑んでいた。

「おやおや。わたくしの婚約者殿は、本当に何もお持ちでないのね」

隣の侯爵令嬢ユーフェミア・ロアンが扇の陰で続ける。

「三男坊だもの。剣も魔法も中の下、領地経営の書類いじりだけは妙に詳しいと聞いていたけれど──それも机の上の趣味だったということね」

笑い声が広間に広がった。最初は小さく、やがて壁の高みまで届いて天井のステンドグラスを震わせた。レオンは右手を石から離し、軽く指を握り直した。掌の感覚は冷たいままで、爪の根が痺れている。何度も自分で組み上げた北辺結界の魔力路を辿る癖で、指先には薄く魔力が滲んでいる。だが鑑定石は、それを一片も読み取らなかった。

──おかしい。

それだけが、胸の奥に残った言葉だった。鑑定石が反応しないのではなく、自分の魔力が石に「読まれることを拒んでいる」ような、奇妙な手応えがあった。掌に押しつけた瞬間、石の方が一歩退いた。そんな感覚だった。

「アルヴィス家三男、レオン。スキルなし、と記録する」

鑑定司が震える声で羊皮紙にペンを走らせる。インクの滴が一つ、紙に滲んで小さな黒い星になった。父──辺境伯ルーカス・アルヴィスは、玉座の脇で沈黙したまま、息子と目を合わせなかった。組まれた腕の指が、軍服の袖を一度だけ強く握り、また緩んだ。

アリシアが扇を閉じた。骨の鳴る音が高く響く。

「陛下。お聞きの通りでございます。我がグレヴィル公爵家とアルヴィス家の婚約は、これで」

「無効、ということで構いませんわね」とユーフェミア。

王太子の臨席する場で、二人の令嬢は同時に膝を折り、聖王に向かって礼を取った。事前に申し合わせていたのが見て取れた。膝を折る角度も、ドレスの裾を払う指の位置も、まるで鏡写しのように揃っている。聖王は短く頷き、書記官に処理を命じる。婚約破棄。書類一枚で済んだ。

レオンはそれを、石の隣に立ったまま見届けた。胸の奥は静かだった。──むしろ、好都合だ。心のどこかでそう思った自分に、薄く笑いが漏れた。

公爵領グレヴィルの兵站表を、レオンは三年前から代理で組み続けていた。アリシアの父が音を上げた小麦の供給線、隣国境の街道警備、冬季の塩の備蓄──十六歳の三男が紙の上で回していた。表向きは父ルーカスの名で。ユーフェミアの侯爵領の治癒水路の浄化術式も、書庫から拾い直した古文献を組み直したのは自分だ。冬至の前夜、満月の魔力潮位を読みながら、何度も水路の鉄蓋を開けた。手の甲に、その時の擦り傷が残っている。今もうっすらと白い線になって、礼装の袖口から覗いている。

(知らないのは、お前たちだけだ)

言いかけて、レオンは口を結んだ。言わない。言ったところで誰の耳にも届かない。届いたとしても、彼女たちは「証拠は」と尋ね、その証拠の束は全て父の名で署名されている。

儀式が終わり、人波が引く頃、父ルーカスは初めて息子に視線を投げた。視線は短く、矢のように真っ直ぐで、しかしどこか焦点が合っていなかった。

「屋敷に戻れば、荷を纏めておけ」

「はい」

「お前がいなくとも、領地は回る」

短く、低い声だった。レオンは父の眼を見返した。父の白髪交じりの眉が、ほんのわずかに震えている。だが言葉は撤回されない。

「……承知しました」

レオンは礼を取り、背筋を伸ばしたまま、靴音を立てずに大聖堂を出た。

帰路の馬車で、御者頭のヤン爺は一度も話しかけてこなかった。冬の街道凍結時、塩撒きの順番を毎年レオンに相談しに来ていた男である。今日の彼は手綱を握る手だけが強張り、何か言いたげに口を開いては、閉じた。窓の外を流れる街並みは、葬列を見送るように静かだった。

私室の扉を開けると、ベッドの上に既に革袋が一つ置かれていた。家令の用意だ。中身は外套、銀貨数枚、保存用の干し肉。それだけ。十六年暮らした部屋の壁紙の継ぎ目も、書棚の三段目に隠した古い算術書も、革袋には入っていない。

レオンは無言で書斎に向かった。

机の上に三冊の冊子を順に重ねる。表紙に手書きで通し番号が振ってある。

『辺境伯領兵站運用簿・改訂第七版』 『北辺結界術式・接続図』 『治癒水路・浄化更新手順』

全て、自分の筆跡だ。第七版の表紙には、最後の改訂を入れた日付の墨が、まだ少し新しい。

冊子を抱えて居間へ降りた。父ルーカスは暖炉の前で、葡萄酒のグラスを片手に立っていた。火の粉が一つ跳ね、絨毯に落ちて、すぐに消えた。

「父上」

「……」

「これを置いていきます。次の冬までに塩備蓄は通常の一・三倍。北辺結界の魔力源は、第三接続点に手を入れない。治癒水路の浄化は、満月の前夜に行うのが最も効率が良い」

レオンは机に冊子を置いた。父はそれを見ない。グラスの中の赤が、暖炉の光を受けて、揺れていた。

「俺がいなくとも回る、と仰いました」

「……ああ」

「それでも、置いていきます」

一拍。父の顎が動いた。何か言いかけて、止まった。喉の奥で空気が一度詰まり、それきりだった。

レオンは礼をし、書斎を出た。

外套を羽織り、革袋を肩に掛け、玄関を出る。空はもう紫に沈んでいた。屋敷の門までの石畳を、マントの裾が払う。掌の冷たさは、まだ残っている。歩くたびに、靴底の革が石を噛む音だけが、自分の存在を確かめてくれていた。

その時──。

門の脇に立つ結界石が、ふっ、と小さく明滅した。

レオンは足を止めた。アルヴィス家の北辺領を覆う、結界の起点石。普段は朝と晩、規定の魔力波で呼吸するように脈動する青白い石が、今、規格にない短い光を二度、確かに放った。

呼びかけるような点滅だった。八つの頃、初めてこの石に触れた日の光に似ていた。あの時、石は彼の手の下で確かに歌った。父も、兄たちも、それを「気のせい」と笑った。

「……」

レオンは石に近づかなかった。手も伸ばさなかった。ただ一度だけ目を合わせ、それから踵を返した。

(俺はもう、ここの主ではない)

掌の冷たさが、ようやく薄れていく。代わりに首筋に走ったのは、儀式の場では決して感じなかった、火に近い熱だった。心臓の奥で、何かが小さく頷いた。鑑定石が読まなかったもの。父が見ようとしなかったもの。それは確かに、自分の中にある。

門を抜けた頃には、雪が降り始めていた。

街道に沿って西へ歩く。荒野へ続く道だ。背後で屋敷の灯りが小さくなっていく。振り返らなかった。振り返れば、まだ何かを期待してしまいそうだった。

ふと、左手の指先に薄い光が灯った。鑑定石が読み取れなかったはずの魔力が、雪片に触れてはじけ、白い粒に変わっていく。レオンは指を握り、光を消した。

風が遠くで、低く唸った。獣の声に似ていた。一頭ではない。三、四──いや、もっと多い。声の重なり方からして、群れだ。

「──別に、構わない」

呟きは雪に吸い込まれた。外套の襟を立て、革袋の紐を肩で締め直す。掌に灯ったばかりの熱は、まだそこにある。

レオンは雪道を踏み、唸り声の方角へ、一歩、踏み出した。

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