第3話
第3話
肩の関節が、内側で火を抱えている。脇腹の肋骨は、息を吸うたびに釘の頭で引っ掻かれる感触。だが、左手にはまだ、エマの指の体温が確かに残っていた。
「エマ。立ち上がるのは、俺の合図で」 「はい」
返事だけは、相変わらず律儀だった。亜麻色の髪が俺の鎖骨に擦れて、汗の塩と苔の青臭さが、一緒くたに鼻の奥へ届く。視界の右下では、半透明の長方形が、消えずに浮かんだままだ。
『 絆対象: エマ ── 共鳴待機 』
──共鳴、待機。
待っているなら、こちらから起こせばいい。試すしかなかった。動かせない右肩はそのまま、左手だけでエマの小さな手を握り直す。指の腹を、彼女の掌に押し当てる。爪の間に入り込んだ砂岩の粉が、こすれてざりっと鳴った。たったそれだけの動作で、画面の文字列が一段、静かに滑った。
『 絆Lv.0 → Lv.1 』 『 共鳴: 対象の潜在能力を一時的に引き出します 』
エマが、ひゅっと息を呑んだ。
「レオ、にいちゃん」 「動くな。痛むのか」 「……あたたかい、です」
彼女の閉じかけた瞼の奥で、ふっと青い光が点った。火じゃない。蛍でもない。もっと冷たくて、深い、海の底みたいな青だ。女神シルフィーナの瞳と、同じ色。エマの両目の虹彩、その真ん中に、六弁の小さな紋章が浮かび上がって、消えない。睫毛の影に滲む青は、瞬きのたびにわずかに揺れた。
「眩しくないか」 「眩しくは、ないです。なんだか、足の先まで、息が通るような」
エマが自分の右手を開いた。そこに何かが宿った様子はない。だが、頬の擦り傷を払う指の動きが、さっきよりも滑らかだった。呼吸の幅が広がっている。乾いていた唇に、薄く赤みが戻っているのも、俺は見逃さなかった。
──眠っている力を、引き出す。文字通り、か。
頭上、ヴェルカ崖の縁から、母グレートウルフの遠吠えがもう一度落ちてきた。さっきまでの苛立ちの音じゃない。仲間を呼ぶ声だった。だが、距離は遠ざかっていく。三十尺の崖を覗き込む知能は、あの個体にはなかったらしい。
俺は短く息を吐き、視線を崖の上へ向けた。三十尺。落ちた距離。ということは、登り返す距離もそれだけある。E判定の右肩と肋骨では、本来、登れる距離じゃない。
「エマ。その共鳴、まだ続いてるか」 「……はい。目の奥が、まだ温かいです」 「そのまま、俺の脇腹に、手を置いてみてくれ」
何が起きるかは、分からなかった。だが、共鳴待機の表示が消えていない以上、まだ何か残っている。エマは少し迷ってから、俺の左の脇腹──肋骨が軋んでいる側に、両の掌をそっと添えた。掌の縁が、布越しに、骨の角を探るようにそろりと動く。
最初に、冷たいと思った。次に、火の粉が散ったような熱を感じた。
──違う。彼女の掌が冷たいんじゃない。掌から、何かが俺の中に流れ込んでいる。一度きりの呼吸の合間に、肋の隙間を糸が縫っていくような、繊細で確かな流れだった。
『 共鳴中継: 治癒類魔力(微小) 』 『 対象: レオ 』
画面の文字が、また一段ずれた。
脇腹の釘は、抜けない。抜けないが、釘の頭を抑えていた誰かの指の力が、ふっと弱まった。そんな感触だった。痛みの輪郭が、鋭利な針から、湿った布越しの圧迫へと変わる。息を吸ったときに胸郭が広がる角度が、ほんの数度、戻った。
「エマ。お前、こういうの、習ったことあるか」 「ないです。お祈り、くらいしか」 「……お祈りで、十分だ」
エマが少し笑った。笑った瞬間、両目の紋章の青が、一段だけ明るくなった気がした。情緒で出力が変わるのか、と俺は頭の隅でメモを取る。怒りでも、恐怖でもなく、笑顔で出力が伸びる。それは、覚えておく価値のある仕様だ。
「立ってみる。手は離すな」 「はい」
左手で苔の山を押す。右肩は使わない。左足を立てる。捻った左足首が悲鳴を上げる──が、悲鳴の音量が、想定の半分くらいだった。エマの掌から、まだ薄く何かが流れている。
立ち上がりきった瞬間、画面の右下に、新しい一行が現れた。
『 共鳴持続: 残り約三分 』
──時間制限あり、か。
なるほど。これはチート判定で間違いない。だが、無制限じゃない。出し惜しみも、出し過ぎも駄目だ。冒険者になる夢の前に、まずこの三分の使い方を覚えろ、ということらしい。
俺は崖の壁を見上げた。岩肌は脆い砂岩。所々に、灌木が根を張っている。直登は無理だが、斜めに走る亀裂を辿れば、登り口の岩棚までは行ける。問題は、そこから先の十尺。手がかりがない。
「エマ、肩車できるか」 「やります」
即答だった。十一歳の即答に、こちらの覚悟の方が遅れた気がした。
俺はエマを背負って、岩の亀裂を辿り始めた。彼女の体重は、思っていたよりも軽い。共鳴の温度がまだ薄く流れていて、E判定の脚でも、一歩、また一歩と進めた。岩の角に左の靴底が滑る。砂岩の粉が、ぱらぱらと崖下へ落ちていく。背中越しに、エマの心臓の音が、俺の肩甲骨にこつこつと当たっていた。早いが、乱れていない。怖がっているのに、信じている拍子だった。
「にいちゃん」 「なんだ」 「上、明るくなりました」
エマの声で、俺は崖の縁を見上げた。──おかしい。陽は落ちる方向だったはずだ。空が明るくなる時間じゃない。
赤い。
夕陽じゃない、もっと赤い、煤の混じった、火の色だ。
南区の方向から、煙が立ち上っていた。
──孤児院。
足が、勝手に速くなった。岩の亀裂を最後の一息で登り切り、登り口の岩棚に体を引き上げる。エマを地面に下ろし、そこから先の十尺は、俺の左手と、エマの両手で、互いの体を引き合うようにして登った。共鳴の残り時間が、画面の中で削れていく。
『 共鳴持続: 残り約一分 』
崖の縁に手をかけた瞬間、風に乗って音が届いた。
孤児院の、鐘の音だった。
俺はエマを抱えて崖の上に転がり出た。共鳴の文字が、画面の中でゆっくり消えていく。
『 共鳴終了 』 『 絆Lv.1 ── 待機 』
エマの両目の青い紋章も、ふっと消えた。彼女の頬は紅潮していて、息は荒い。だが、立てている。額に張りついた前髪の下、黒い瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
「エマ。残ってろ」 「やです」 「即答すんな」 「やです。にいちゃん、置いていきません」
二度目の即答だった。脇腹の釘は、共鳴が切れた途端にまた頭を擡げてきた。だが、走れる。走らないと駄目だ。
俺は腰の短剣を抜いた。錆の浮いた鋼。さっきと同じ刃。だが、握る指の震えが、さっきよりは少ない。柄の革が、汗を吸って指に吸いついてくる。
南区へ向かって走った。麦の刈り跡を踏み、丘陵を下る。風が顔の右側だけを撫でていく。空気の中の煙の濃度が、一歩ごとに濃くなる。木が燃える匂いじゃない。藁の匂いだ。聖アエラ孤児院の屋根は、藁葺きだった。喉の奥に、苦い炭の粒が貼りついていく。
「レオにいちゃん、走れますか」 「走れる。お前の共鳴のおかげだ」 「……まだ、目の奥、すこし熱いです」 「覚えておけ。それが、お前の力だ」
エマは頷いた。十一歳の頷き方じゃなかった。隣で踏まれる麦の音が、俺の歩幅に合わせて、半拍遅れずついてくる。
孤児院の煉瓦の塀が見えた。蔦の絡んだ、いつもの塀。だが、塀の上に、緑色の影が三つ、四つ──いや、もっと──蹲っているのが見えた。
ゴブリン。
──まずい。
俺は走りながら、舌打ちを呑み込んだ。ゴブリンの群れが、孤児院を取り囲んでいる。塀の南側に集まっているのは、内側の子どもらの声を嗅ぎつけたからだ。距離からして、十は下らない。鐘を鳴らしているのは、誰だ。シスターか。年下の誰かか。鐘の打ち方は、一定の間隔を保てていない。腕の細い誰かが、必死で縄を引いている音だった。
塀のすぐ手前、麦畑の縁で、俺は足を止めた。エマも止まった。
「エマ。聞け」 「はい」 「お前と俺で、行く。子どもらを、内側から守る」 「ふたりで、十、いけますか」 「いける。さっきの、覚えてるな」 「……目の奥の、温度」 「あれを、もう一度起こす」
俺は左手を差し出した。エマが両手で、俺の手を握った。さっきとは違う、自分から握る握り方だった。指先は、もう冷えていなかった。むしろ、火打ち石の打ち合わさる前の、乾いた熱を帯びていた。
視界の右下、半透明の四角が、また色を変えた。
『 絆対象: エマ 』 『 共鳴開始: 対象の潜在能力を引き出します 』 『 警告: 残り魔力 ── 未測定 』
未測定。
──いいだろう。測れないなら、使い切ってみるしかない。
塀の向こうで、子どもの一人が、レオにいちゃん、と俺の名を呼んだ気がした。
俺は短剣の柄を握り直し、エマの手を引いて、塀の影へと駆け出した。