第2話
第2話
落ちる、と思った瞬間、世界の音が消えた。
風の唸りも、エマの悲鳴も、岩肌に擦れる靴底の音も、同じ厚さの綿で詰められたみたいに、一拍だけ遠ざかる。代わりに、自分の鼓動だけが奇妙に大きく響いた。──まだ、エマの腕は手の中にあるか。確かめるより先に、俺は反射的に体をひねって、彼女を腹の上に引き寄せた。
落下の途中で、空気の流れが背中を撫でる。胃が浮く。脇腹に、宙に投げ出された臓器の重みが返ってくる。下から吹き上げる風の中に、岩肌の冷たい匂いと、誰かが昔ここで取りこぼしたんだろう、苔の青臭さが混じっていた。
「目、つむっとけ」
声を絞り出せたのが奇跡だった。エマが頷いたのか、首を埋めたのか分からない。亜麻色の髪が顎にあたって、汗の塩の匂いがした。十一歳の小さな体は、思っていたよりも重くて、思っていたよりも軽かった。腹の上で、彼女の心臓が一つ、二つと、俺の鼓動と半拍ずれて打っている。その小さな鼓動の方が、自分のよりも生々しく、ずっと大事な音に聞こえた。指先が、彼女のシャツの背中を強く握り込んでいる。布が裂けてもいい、爪が剥がれてもいい、ただ離すなと、自分の手に向かって命じていた。
──親父。背中、守ってやれたかな。
ヴェルカ崖、三十尺。岩場に砕ける、と頭の中で誰かが復唱する。脇腹に当たる風の角度が変わって、もう半分は落ちたな、と俺は妙に冷静に計算した。
そのとき、視界が白くなった。
夕暮れの橙でも、岩肌の灰でもない。乳のような、雪の朝みたいな、底のない白だ。落下の感覚が消えた。エマの重みも、自分の腕の感触も、ぼんやりとした輪郭だけになって、白の中に溶けていく。
──死んだのか、俺。
足の裏に、何か柔らかいものが触れた。水でも、雲でもない。立っている、と感じる。だが地面はない。自分の靴音だけが、白の奥から木霊のように返ってくる。
「あなたの優しさに、祝福を」
声が、前から、上から、背中側から、同時に届いた。
俺は顔を上げた。白の中央に、女の姿が浮かんでいる。背丈は俺と同じくらい。髪は淡い金で、肩から腰までが川のように流れている。瞳は青──青、なんて簡単な色じゃなかった。海の底の、誰も見たことのない深さの、青だ。
「シルフィーナ」
名前を、なぜか俺は知っていた。いや、向こうが先に名乗っていたのかもしれない。そういう順番すら、この空間では曖昧だった。
「驚かないのですね」 「驚いてる。声が、出ないだけだ」
シルフィーナと名乗った女神は、ふっと目尻を緩めた。その微笑には、何百回も同じ場面を見てきた者の、薄い諦めと、それでも消えない好奇心が同居していた。
「あなたは、自分の命より先に、あの子を抱き寄せた」 「……反射だ」 「反射に、人格は出ます」
俺は黙った。掌を見た。十六年使ってきた手だ。剣の素振りで潰した豆の跡。孤児院の子に飴玉を握らせるとき、いつも先に温度を確かめる癖。冬の朝、エマの指がかじかんでいないか、こっそり自分の手で挟んで温めてやる癖。そういう、しょうもない積み重ねしか俺にはない。誇れるものでも、語れるものでもない。
「Eだ。全項目E」 「ええ。私にも見えています」 「それでも、祝福をくれるのか」 「ええ、だからです」
彼女の指が、俺の胸の真ん中に触れた。冷たくはなかった。むしろ、孤児院の土間の温度に似ていた。子どもらの体温で温められた、あの土間の。冬の夜、寝かしつけたあとに一人で残って、火の落ちた竈の前に座る。その土間の床に手をついた時の、人肌より少しだけ低い、けれど確かに生きている温度だった。
「あなたに授けるのは【絆共鳴(きずなきょうめい)】。あなた一人では、何も変わりません」 「……それは、Eのままってことか」 「いいえ。あなたが触れた相手の、いちばん奥で眠っている力を、引き出します」 「俺、自身は」 「あなた自身は、指揮者です」
指揮者、という単語の意味を、俺はとっさに掴めなかった。教会の聖歌隊の前で、棒を振っていた老司祭の姿が、ちらりと頭をよぎる。あの人が振っていたのは音楽で、俺が振ることになるのは、何だ。だが、女神の指が胸から離れる瞬間、胸骨の裏で何かが小さく弾けた。火打石を一度だけ打ったような、乾いた音だった。
「エマは」 「無事です。あなたが下になりました」 「俺は」 「死ぬ手前で、時を止めています」
シルフィーナは少しだけ微笑んで、俺の額に指を当てた。
「目を覚ましたら、画面が見えるでしょう。怖がらないで」 「待ってくれ。なんで、俺なんだ」 「字を、教えていたから」
それだけだった。白が、急速に薄れていった。
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
右肩に、誰かが焼け石を押し当てているみたいな熱。次に、背中の奥で骨が一本だけ軋む音。三番目に、口の中の鉄錆。舌で歯の裏を舐めると、血と、岩屑の砂利の感触がした。息を吸い込もうとすると、肋の内側で、誰かが釘の頭を抓んで引き抜こうとしているような鋭い痛みが走った。咳き込んだら死ぬな、と直感で分かった。
──生きてる、らしいな。
目を開けた。ヴェルカ崖の底。岩棚と岩棚の間に、苔と落ち葉が層になって溜まった、奇跡みたいな緩衝帯だった。三十尺の落下を受け止めるには細すぎる、けれど、ある。俺の背中の下にあるのは、その苔の山だった。
胸の上に、亜麻色の頭が乗っていた。
「エマ」 「……レオ、にいちゃ」
声が震えていた。だが、生きていた。彼女の頬に擦り傷が一筋。それ以外は、見た目には大きな怪我はなさそうだった。俺は左手で、まだ動く方の手で、彼女の背中を一度だけ撫でた。
「よし。よし、生きてる」 「血、出てます」 「俺の。お前のじゃない」
エマが顔を上げた。目に涙が溜まっていたが、こぼれなかった。十一歳のくせに、こういう時にきちんと我慢する子だった。それが、たまらなく不憫で、たまらなく頼もしかった。
──そのとき、視界の右下に、半透明の長方形が浮かび上がった。
最初は、岩の隙間から差した夕陽の反射かと思った。だが、そこには確かに文字があった。等幅の、淡い青色の文字。
『 名前: レオ STR: ??? AGI: ??? INT: ??? MAG: ??? VIT: ??? 固有スキル: 【絆共鳴】Lv.1 』
「……っ」
喉の奥で、笑いとも呻きともつかない音が漏れた。E、E、E、E、E──と並んでいたはずの五項目が、全部「???」に塗り替わっている。意味は分からない。だが、女神の言葉が嘘ではなかったことだけは、文字の輪郭の硬さで分かった。
「レオにいちゃん。何、見てるんですか」 「いや。何でもない」
エマには見えていないらしい。俺は画面から目を逸らし、まず自分の体の方を確かめた。右肩、たぶん脱臼。右の脇腹、肋骨が一本やられている。左足首、捻った。生きてはいる、が、立てるかは別の話だ。
頭上、はるか上で、母グレートウルフの遠吠えが聞こえた。獲物を見失った苛立ちの音。だが、距離は遠ざかっている。崖を覗き込む知能は、あの個体にはなかったらしい。
「エマ、聞け」 「はい」 「俺、しばらく動けない。お前が、孤児院に戻って人を呼んでこい」 「やです」 「即答すんな」 「やです。にいちゃん、置いていきません」
エマは俺の左手を、両手でぎゅっと握った。十一歳の小さな手。指先が冷えていた。彼女の掌の温度を感じた瞬間、視界の右下、あの半透明の画面の中で、文字が一つだけ、静かに動いた。
『 絆対象: エマ ── 共鳴待機 』
俺は息を止めた。エマは、何も気づかずに俺の手を握ったままだ。亜麻色の髪が、夕暮れの最後の光を受けて、淡く赤みを帯びている。彼女の睫毛の影が、頬の擦り傷の上に長く落ちていた。握られた左手の甲に、彼女の涙が一粒、ようやくこぼれて、温かいまま転がっていった。
──共鳴。共鳴って、何が、起きる。
崖の上から、もう一度、低い遠吠えが落ちてきた。今度のは、母グレートウルフのものじゃなかった。もっと低く、もっと数の多い、群れの呼び合う声だった。
エマの指が、俺の手の甲で、小さく震えた。俺は、握り返すことしか出来なかった。