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全能力E、けれど絆だけが強くなる

第1話 第1話

第1話

第1話

「鑑定値、全能力E。次」

水晶玉から指を引いた瞬間、掌に残ったのは冬の井戸水のような冷たさだけだった。神官の声は事務的で、隣に並んだ同期はもう次の順番を待っている。

──ああ、終わったな。俺の冒険者人生。

ホールの後方で誰かが鼻を鳴らした。その音だけで、ぱっと笑い声が広がる。

「Eだぜ、E。文字通り最弱じゃん」 「孤児院送りだろ、もう」 「あんなのと組むやついないって」

俺、レオは顎を引いて視線を床に縫いつけた。十六歳。鑑定の儀の年齢としては平均だ。STR、AGI、INT、MAG、VIT──五項目すべてE。順に読み上げ終えた神官は、最後に小さく溜め息をついた気がした。気のせいでなければ、だが。

「レオ」

人混みを割って近づいてきたのは、幼馴染のフィンだった。十二の冬から一緒に薪を割ってきた相棒。彼の腰には、半年前に俺が餞別代わりに研いでやった木鞘の短剣が下がっている。

「悪いけど、パーティの話、なし」 「ああ……うん」 「俺、Bだったから。お前と組むと依頼を受けられない」

俺は頷いた。喉に塩を放り込まれたような感触がして、声は出なかった。フィンは軽く頭を下げ、最後にもう一度こちらを見て、人波の向こうへ消えた。腰の短剣の柄が一瞬だけ俺の方を向いた。

あいつ、まだ持ってくれてるのか。

それだけ確かめて、俺は鑑定の間を出た。

宿屋〈緑の梟亭〉の階段は、足の裏に木屑が刺さるほど古い。三階の角部屋。一日二銅貨。荷物は革のリュック一つ。窓の下では今日も乾物屋の親父が骨つき肉を値切られている。

「最弱が、二銅貨も払えるのか?」

すれ違いざまに同じ階の男にそう言われたが、俺は黙ってベッドの上に座り、膝を抱えた。藁の匂い、誰かの煙草の匂い、下の階の酒場から流れてくる節回し。世界はぐるぐる回っている。回っていない場所は、ベッドの上の俺だけだ。

──冒険者になるのが夢だった。十二で死んだ親父が、銀貨一枚と剣の柄を握らせてくれたんだ。「お前は誰かの背中を守れる男になる」って。

E。E。全能力E。

親父、ごめん。

胸の奥で何かが軋んだ。声を出さずに笑った。乾いた笑いが鼻から抜けた。

──いや、駄目だ。膝抱えてるだけじゃ。

俺はベッドから降りて、ポーチから赤いリボンの小袋を取り出した。中身は、孤児院の子どもたちにせがまれて買った蜂蜜の飴玉だ。今日は字を教えに行く日だ。腐っても、約束は約束だ。

南区の外れ、聖アエラ孤児院。煉瓦の塀には蔦が這い、内側からは子どもたちの叫ぶ声が漏れていた。木戸を押すと、十人ほどの子が一斉にこちらを向く。

「レオにいちゃん!」 「文字、文字やる!」 「今日、おやつあるの?」

最年長のエマが、皆をひと睨みで黙らせた。十一歳。亜麻色の髪を後ろで一つに結んでいる。口数は少ないが、孤児院の小さな大人だ。

「みんな、座って。レオさん、はじめます」

土間に並べた木の板。俺は石筆で「太陽」「水」「朝」と書いた。読み方を教える。意味を教える。書き順を、指でなぞらせる。

「レオさん」エマが小さく囁いた。「鑑定の儀、どうでしたか」

少し迷って、俺は笑った。

「全部Eだった。さっき幼馴染にも振られた」 「……」 「だから、ここに来た。お前らが俺の唯一の生徒だ」

エマは口を閉じた。何か言いかけて、結局、飴玉を一つだけ自分の掌に転がし、残りを年下の子に配り直した。

「レオさんは、字を教えるのが上手です」 「お、おう」 「だから、Eじゃないです」

声が小さすぎて、他の子には届かなかったと思う。俺の耳にだけ届いた。鼻の奥がつんと痛んだ。

その小さな声を、俺は胸の中で何度も繰り返した。Eじゃない。Eじゃない。誰かが、たった一人でも、そう言ってくれたなら、俺の今日は無駄じゃないのかもしれない。土間の隅では、五歳のミカが石筆を握り直している。彼の書いた「水」の字は、左払いがずいぶん長く、最後の点だけがやけに濃い。エマがそっと隣に座って、指で正しい形を空に描いてみせた。年下の子の鼻の頭には、飴玉の蜂蜜が少しついていて、それを舌の先で舐めとろうと、舌が届かないまま顔をくしゃっと歪めている。

「エマねえちゃん、これ、合ってる?」 「うん。次は『朝』。お日さまの下に、月、って覚えるの」

窓の外では、夕方の鐘が鳴り始めた。乾いた風が土埃を運んでくる。煉瓦の塀の向こう、街の喧噪が遠くなる時間だ。俺はぼんやりと自分の手のひらを見つめた。掌には、まだ水晶玉に触れた時の冷たさがうっすら残っている気がした。だが、子どもらの体温が満ちた土間の空気が、その冷たさを少しずつ薄めてくれている。今だけは、Eの俺ではなく、ただの「字を教える兄ちゃん」でいられる。それだけで十分だった。

授業を終えたのは、空が橙色に焦げ始めた頃だった。

「明日も来るよ」

一人ずつ頭を撫でて、俺は木戸へ向かった。エマだけが、いつもの石段までついてくる。今日も、そうだった。だが、彼女の足音が途中で消えた。

振り返ると、エマは塀の隙間から外を覗き込んでいた。

「エマ?」 「白い……犬。怪我してます」 「待て、エマ──」

止める前に、彼女は塀の外へ駆け出していた。俺は飴玉の小袋を放り出して追った。蜂蜜の匂いが背中で潰れる。

南区の外れは、すぐに人気のない丘陵地帯になる。羊飼いも夕方には引き上げる時間だ。エマの亜麻色の頭が、麦の刈り跡の向こうで揺れていた。

「エマ! どこ行くんだ!」 「あっち! あの子、血が……」

風が変わった。

土埃と、麦の匂い。それから──血の鉄錆。微かだが、確かにそれだ。獣の血じゃない。もっと濃い、粘っこい匂い。俺は足を止めた。背中の毛が逆立つ。

全身の汗が、一瞬で冷えた。麦の穂が風にざわめく音が、急に耳に遠い。代わりに、自分の心臓の音だけが鼓膜の内側で爆ぜている。指先が痺れて、放り出してきた飴玉の小袋の感触すら、もう手に思い出せない。夕暮れの光が、丘の輪郭を金色に縁取っていて、その綺麗さが、かえって不吉だった。

「エマ、止まれ!」

俺は走った。E判定の脚で、それでも今までで一番速く走った。脇腹が痛い。心臓が肋骨を内側から殴る。E判定の肺は、走り出して数十歩でもう悲鳴を上げている。視界の端が白く滲む。それでも、足は止めなかった。止められなかった。エマの背中が、丘の縁で止まっていた。

その先は、ヴェルカ崖。落ちれば三十尺、岩場に砕ける。

「エマ──」

彼女のすぐ後ろで、俺は足を緩めた。緩めたのが、悪かった。

低い唸り声がした。

エマが見つけた「白い犬」は、犬じゃなかった。崖の縁、岩の影で身を伏せていたのは、毛の抜け落ちた灰色の影。背の長さで分かる。子供のグレートウルフだ。怪我をして、はぐれて、ここまで逃げてきた──そう読めた瞬間、俺は最悪を悟った。

その背後で、もっと低い唸り声が応えた。一頭じゃない。母親が、岩棚の上から俺たちを見下ろしている。青い瞳。

エマは振り返らなかった。振り返れなかった。彼女の小さな指が、飴玉の入っていない左手を握りしめている。

「レオ、にいちゃん」 「動くなよ」 「足、がたがたします」 「分かってる。俺の声だけ聞け」

俺はゆっくりとエマの前に出た。腰の短剣に手をかける。錆の浮いた鋼。E判定の俺の握力で、何度振り下ろせるか、自分でも怪しい。

刃の先が小さく震えている。俺の手の震えだ。短剣の重さが、いつもの三倍に感じる。いや、本当の重さは、たぶんこの剣そのものじゃない。エマの命を、この一本に預けようとしている──その重さだ。親父の声が、頭の奥で蘇る。「お前は誰かの背中を守れる男になる」。守れるかは分からない。でも、背中だけは、絶対にここから動かせない。

──親父。

胸の奥で軋む音がした。フィンが「悪い」と言った時とは、別の音だ。

「エマ。下がれ。崖の縁から、ゆっくり離れろ」 「レオにいちゃんは」 「俺は、後から行く」

嘘だった。後から行ける気はしなかった。母獣が、岩棚から地面に降り立った。爪が、土の上に深い溝を刻む。

母獣が一歩、こちらに踏み出した。

俺は短剣の柄を握り直し、エマの背を、崖と反対の方向へ強く押した。

「走れ──!」

彼女が走り出すのと、母獣が跳ぶのは同時だった。だが、選ばれたのは俺じゃなかった。横を駆け抜けようとしたエマの亜麻色の髪が、巨体の前脚に弾かれる。

小さな体が、宙に舞った。

崖の方向に。

考える前に、足が地面を蹴っていた。脇腹の痛み、肺の悲鳴、E判定の全項目──全部、無視した。

宙でエマの細い腕を掴んだとき、俺の体はすでに崖の縁を越えていた。

下から、風が吹き上げる。

鉄錆と、岩肌の匂い。

落ちる、と、俺はようやく思った。

エマの腕は、まだ俺の手の中にあった。

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