第2話
第2話
青白い光は、近づくほど輪郭を失った。レオンは雪に膝まで埋もれた状態で立ち止まり、両手を口元に当てて指先に息を吐きかけた。光は道の先で揺れ、止まり、また揺れた。距離感が掴めない。三十歩先か、百歩先か。雪の幕が分厚くなるたびに、光はにじんで遠ざかった。
「……鬼火か」
呟いた声は、自分の耳にもほとんど届かなかった。喉の奥で凍った息が砕け、咳になってこぼれた。胸の奥から熱が抜けていく。最後に温かい食事を取ったのはいつだったか、思い出せない。試験前の景気づけの席に呼ばれなかったのだから、たぶん昨日の昼の干し肉が最後だ。
光がふっと消えた。
雪の向こうに、ただ黒い夜だけが残った。
レオンは小さく笑った。笑ったつもりだったが、頬の筋肉はもう動かなかった。凍えた指で、自分の口角を一度だけ持ち上げてみる。皮膚が引きつって、ほんの少し裂けた。血の鉄の味が舌の先に滲んだ。それで、笑った気になれた。
(やっぱり、見間違いか)
足を進める。雪の深さは膝下まで来ている。一歩進むごとに、ブーツの中で凍えた靴下が皮膚を擦り、踵の薄い皮が剥がれていくのが分かった。痛みはもう感じない。それが一番怖い、と頭のどこかが冷静に告げている。痛みが消えるのは、神経が死んだ合図だ。
風が南西から北東へ巻き、街道の左側の崖に雪を叩きつけた。視界が一瞬で白く塗り潰される。レオンは咄嗟に道標に手を伸ばし、凍った木の表面に爪を立てた。爪が割れる感触があった。痛みはやはり、ない。指先の血が雪に落ちる前に、もう凍っていた。
(歩かなければ)
吹雪の音の隙間に、自分自身の言葉が沈んでいく。歩け、歩け、と頭のなかで誰かが命令する。それは三年間、毎朝レオンが自分に言い聞かせてきた言葉でもあった。歩け、笑え、頷け、そうすればパーティに置いてもらえる。そう言い聞かせて、確かに歩いてきた。だが、もう「置いてもらう」相手はいない。
それでも、足は前に出た。理由はなかった。倒れる場所を探すように、レオンは雪の坂を一歩、また一歩と踏みしめた。
風の音が、記憶の蓋を一枚ずつ剥がしていった。
二年前の夏、東部の沼地ダンジョン。ガレスが踏み抜いた毒沼の罠に、レオンは咄嗟に解毒の祝福を投げた。リーダーの足首で泡立つ毒液が、青から透明に変わるのを誰も見ていなかった。その夜、ガレスは焚き火の前で「俺の体は毒に強い」と笑った。仲間も笑った。レオンも笑った。否定する口を持たなかった。
一年半前、北の氷洞窟。ミラが踏みかけた踏圧式の落とし穴を、レオンは結界の網一枚で支えた。網は彼女の重さの三秒間だけ持ちこたえ、彼女が後ろに飛び退いた瞬間に砕けた。ミラは振り返り、「危なかったなあ、ダルク」と前を歩いていた戦士を労った。網のことは、今夜まで誰の口にも出なかった。今夜も、出なかった。
一年前、王都郊外。クレアが倒した邪教徒の祭壇には、踏むと魂を抜く呪詛盤が仕込まれていた。レオンは祭壇の四隅にあらかじめ封呪符を貼っていた。貼ったのは前の晩、皆が酒場で勝利の前祝いをしている時間だった。クレアは祭壇を踏みしめ、聖典を掲げて高らかに祝詞を上げた。誰もが彼女の聖性を称えた。封呪符が静かに焼け落ちていたことに、たぶん本人だけは、後で気づいたはずだった。だが、何も言われなかった。
(本当に、俺は無能だったのか)
雪が口に入る。舌の上で、雪は砂粒のように転がり、すぐに溶けて鉄の味になった。鼻血だ、と気づくのに数秒かかった。吹雪が顔に叩きつけ、鼻孔の薄い粘膜から血が滲んでいた。
「……無能、か」
声は風に呑まれる。それでもレオンは呟き続けた。呟くことで、足を前に出す力をかろうじて繋いだ。
無能なら、毒沼で全員死んでいた。無能なら、氷洞窟でミラの腰は砕けていた。無能なら、王都郊外でクレアの魂は抜かれていた。無能なら、宿の四隅に貼り続けた符の意味を、自分自身が信じていなかったはずだ。
けれど、誰も知らない。誰も、知ろうとしなかった。
(——いや、そうじゃない)
風の隙間で、一つ別の声が聞こえた気がした。
知っていて、言わなかったのかもしれない。
ミラ。今夜、扉の前で唇を一度開いて閉じた、あの斥候。三年間の夜営で座ったまま朝まで寝ていられた本当の理由を、彼女はたぶん知っていた。知っていて、それでも口を閉じた。口を開けば、自分の三年分の働きが目減りすると分かっていたから。
クレア。胸の銀の鎖を最後に握り、それを机に置いた指が、最後まで震えなかった理由。あの震えなさは、たぶん、あらかじめ決められていた台本の冷静さだ。
レオンは雪の中で、初めて声を上げた。
「——ふざけるな」
吐き出した瞬間、肺から熱が抜けた。膝が崩れた。そのまま雪の坂を、五歩、十歩と滑り落ちる。受け身を取る気力もなく、肩が岩に当たった。骨の鈍い音がした。それでも、痛みはない。
街道の脇、岩陰のわずかな窪みに、レオンの体は転がり込んだ。雪の壁が風の一部を遮り、ほんの一瞬、世界が静かになる。耳鳴りだけが続く。心臓の音は、もう、自分のものとは思えないほど遠い。
(立て)
頭のなかの命令は、もう声にならなかった。
(立てよ、レオン)
膝が、立たない。両手が、雪を掻けない。指先は曲がらない。曲げようとした瞬間、皮膚が音を立てて裂ける気がした。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
レオンは半分埋もれた目を、ゆっくりと、岩陰の外へ向けた。
雪の幕の向こう、街道の中央に、人影が立っていた。
老人だった。背は低く、肩は痩せている。だが雪は、その人影の足元から半歩の範囲だけ、明らかに溶けていた。地面が黒く濡れて見える。風が老人の輪郭を歪ませることはなく、外套の裾は重力のままに、まっすぐ垂れている。白い髭が胸まで伸び、その先端だけが、わずかに青く光っているような気がした。
(あの光……)
ついさっき消えた青白い光は、鬼火ではなかったのだ。
老人はゆっくりと、レオンに向かって歩いた。雪の上に、足跡は残らなかった。距離が縮まるにつれて、レオンは老人の右手に握られた一本の杖を見た。先端に小さな水晶がついている。水晶の中で、青白い光が、心臓のように一定の間隔で脈打っていた。
「……誰、ですか」
声を出した自分に、レオンは少し驚いた。喉はもう動かないと思っていた。
老人は答えなかった。岩陰のすぐ前まで来て、しゃがんだ。皺だらけの指が、レオンの首筋に触れる。指の温度は、雪よりも冷たく感じた。だが、触れられた箇所から、何かが体の中に入ってくるのが分かった。熱ではない。圧でもない。ただ、自分の体の輪郭が、もう一度はっきりと自分のものに戻ってくる、その感覚だった。
「……ふむ」
老人が、ようやく短く声を漏らした。低く、乾いた声。
「……規格外、か。よくここまで歩いた」
レオンには、その言葉の意味が分からなかった。
「……あなたは……」
「答えるのは、後でいい。お前は今、死にかけている」
老人は杖の先で、雪の上に小さな円を描いた。円の内側で、雪が一気に溶け、湯気が立った。地面の苔と土の匂いが、いきなり鼻の奥に戻ってきた。レオンは、その匂いに、ようやく自分が「生きている」側にいることを思い出した。
「立てるか」
「……たぶん」
「立てなくていい」
老人は、見た目からは想像できない力で、レオンの脇に肩を入れた。痩せた腕は鋼のように硬く、レオンの体を、藁束を抱えるように軽々と引き起こした。
「……どうして、助けて……」
老人は、ふっと口の端で笑った。髭の奥で、白い歯が一瞬だけ覗いた。
「お前の体に流れている魔力が、儂の知る規格に似ておったからだ。鑑定の儀の結果は、何と出ておった?」
「……サポーター、Eランク、です」
老人は雪の中で立ち止まった。風が二人のあいだを通り抜けた。老人は、低く、長く、息を吐いた。それは笑いに似た、しかし笑いではない、何かを諦めたような吐息だった。
「——茶番だ」
その一言に、何の修飾もなかった。
「だが、それは後の話だ。歩け、若いの。儂の足取りについてこられぬなら、お前はそこで死ね」
レオンは、自分の足が、もう一度、雪を踏みしめたことに気づいた。さっきまで動かなかった膝が、なぜか前に出た。理由はなかった。理由はなくていい、と老人の声が言っている気がした。
吹雪は、まだ止まなかった。
レオンの肩を支えた老人の歩みは、雪の深さに左右されなかった。一歩、二歩、三歩。老人の足元では、雪が音もなく溶け、また閉じた。レオンの足跡だけが、二人の後ろに点々と残っていく。やがて街道を外れ、獣道に入る。木々のあいだに、煙突の煤の匂いが薄く漂い始めた。
(山小屋——)
意識の輪郭が、また少しずつ薄れていく。
「……名は、何という」
老人の声が、遠くで響いた。
「……レオン、です」
「レオンか。覚えておく」
老人は前を向いたまま、もう一度、低い声で笑ったようだった。
「——お前を切り捨てた連中の名も、いずれ覚えてやろう。儂が、ではない。歴史が、だ」
その言葉の意味を、レオンは半分も理解できないまま、視界の端から黒く崩れていった。
風の音だけが、最後まで残った。
雪の向こう、山の中腹に、ぽつりと一つ、煤色の煙が立ち昇っていた。