第1話
第1話
宿の床板に膝をつき、レオンは結界符を一枚ずつ並べていた。指先のインクは乾ききらず、爪の縁に黒い染みが残る。羊皮紙の表面に走らせた呪句は、息を吐くたびに薄く白光した。窓の外では雪が降り始め、山岳街道の宿全体に松脂と湿った羊毛の匂いが満ちていた。隣室から仲間たちの笑い声が漏れてくる。明日のAランク昇格試験を控え、酒と肉で景気づけているのだろう。
(俺はこっちか)
レオンは口の端だけで笑い、十二枚目の符を床に貼った。宿の四隅に薄い結界が走り、空気がわずかに澄む。毒虫除け、寒気除け、悪夢除け。三層構造の魔法陣を、ここ三年、誰にも気づかれぬまま毎晩維持してきた。仲間が朝までぐっすり眠り、誰一人風邪さえひかなかったのは、この符が動き続けていたからだ。
机の上には解毒薬の補充瓶が二十四本。今日のダンジョンで誰かが踏んだ毒草の匂いを、レオンの鼻はまだ覚えていた。ダルクのブーツに付いた青い汁。あれは半日で麻痺を起こす毒だ。彼が今夜、剣を腰に下げて笑っていられるのは、出発前にレオンが三人分の解毒符を全員のベルトに縫い込んだからだった。誰にも、言っていない。
廊下の足音が止まる。扉が乱暴に開けられた。
「レオン。話がある」
リーダーのガレスだった。長剣を腰に下げたまま、酒の匂いを連れて入ってくる。後ろには戦士ダルク、斥候ミラ、そして——婚約者の聖女クレア。四人の影が、薄い結界の光の中で揺れた。蝋燭の炎が、扉から流れ込んだ風で大きく揺れ、机の解毒瓶のガラスに四つの輪郭を映し出して、また小さくなる。レオンは喉の奥で唾を飲み込み、その音が思いのほか大きく響いた気がして、肩をわずかに強張らせた。
レオンは符を貼る手を止め、ゆっくり立ち上がった。膝の関節が硬く鳴り、床板の冷たさが脛から離れていく。インクのついた指を、無意識に作業着の裾で拭った。
「明日の試験には、お前は連れていかない」
ガレスの声から、ためらいの一切が削ぎ落とされていた。準備してきた言葉だ、とレオンは思った。たぶん、宿に戻る前から——いや、今日のダンジョンで毒草の谷を抜けたあのときから、もう決めていたのだろう。
「足手まといだ。荷物持ちの枠で、もう一人前衛を雇う」
床の符の角が、ほんの少し捲れる。レオンは指先で押さえ直した。冷えた指先と、まだ温かい呪句の白光が、皮膚の薄いところで交わる。心臓の音が、急に耳の裏側で鳴り始めた。
「……理由を、聞いてもいいですか」
「鑑定の儀でEランクのサポーターだろう。Aランク試験の枠は四人。お前を切れば、Bランクの槍使いが入る。平均値は確実に上がる」
「治癒も遅い」ダルクが続けた。「魔力量も少ない。前線で支えになるのはクレアだけだ」
「夜営の見張りも、お前一人で全部回すから楽だったんだぞ。あれは俺たちへの貢献じゃない、雑用係の務めだ。勘違いするなよ」
ミラまでが口を挟んだ。彼女の声は早口で、自分自身を急かすような響きだった。三年間、夜営の見張りで一番眠そうにしていたのはこの女だった。結界が動いていたから、座ったまま朝まで寝ていられた。それでも今夜、彼女はその事実を知らない。知ろうともしないのだろう、とレオンは思った。知ってしまえば、自分の言葉が嘘になることに気づいてしまうから。
レオンは聖女に視線を移した。
「クレア」
声が思ったより低く出てしまった。胸の奥で、何かが軋む音がした。
「……何かしら」
「君も、同じ意見ですか」
短い沈黙。クレアは扉の枠に肩を預けたまま、指先で胸の銀の鎖を一度だけ握り、ようやく顔を上げた。婚約の祝いに、レオンが半年分の貯金で贈った鎖だった。冬の市で、職人が一晩かけて細工してくれたあの鎖を、彼女は確かに「一生外さない」と言って受け取った。あの夜の雪の匂いと、彼女の頬の赤みを、レオンはまだ覚えている。
「あなたとは、釣り合わないの。最初から分かっていたことだったでしょう」
返事になっていなかった。だが、それで十分だった。クレアは胸元の鎖を外し、机の解毒瓶の脇にそっと置いた。冷たい音が一つ、鳴った。彼女の指は、最後まで震えなかった。
レオンは床に並べた符を、一枚ずつ、丁寧に剥がしていった。寒気除けを剥がすと、室温が一度だけ下がった気がした。悪夢除けを剥がすと、隣室から漏れていた笑い声がふっと止んだ。誰もそれに気づかない。誰も、気づいたことがない。
「装備は置いていけ」ガレスが言う。「予備の回復ポーションも、結界の魔導具もパーティの備品だ。革鎧は新人に回す」
「……路銀は」
「お前の取り分は、明日の試験の登録料に充てる。残りは宿代を引いて二銀貨だ」
「峠を越えるには、足りませんね」
「峠を越える話はしていない」ガレスは扉を顎で示した。「次の街までの話だ。早く出ろ。明日、試験官の前で揉めごとは見せたくない」
ミラがちらりとレオンを見た。視線がぶつかった瞬間、彼女は床に目を落とした。何か言いかけて、唇を一度開いて、すぐに閉じた。その動作だけが、ほんの一瞬、彼女の喉元で痙攣のように残った。
レオンは革のリュックに私物だけを詰めた。母の形見の銀のペンダント、鑑定の儀でもらった『サポーター・Eランク』の判定札、まだ書きかけの結界符のための白紙の束。それだけだった。革鎧の留め具を外す指は、自分のものでないように軽かった。鎧を脱ぐと、肩に三年分の重みが残っていることに、初めて気づいた。
外に出ると、雪は本降りになっていた。宿の軒先で、ガレスがもう一度だけ振り返る。
「悪く思うな。これは戦力の問題だ」
レオンは答えなかった。ただ、口の中で一度だけ呟いた。
「——勝手にすればいい」
風がその声を、たぶん誰の耳にも届かないところへ運んでいった。
宿の灯が背後で遠ざかる。三歩、五歩、十歩。振り返らなかった。振り返れば、結界符を一枚だけ宿の扉に貼ってしまいそうだった。明日、四人が出発するまで——せめて朝までは、寒気除けくらいは置いていきたいと、まだ自分が思っていることに気づいて、レオンは奥歯を噛んだ。歯と歯のあいだで、何かが砕ける音がした。それは三年分の、誰にも言えなかった言葉の残骸だったかもしれない。
山岳街道の峠は、夜の雪に呑まれかけていた。気温は急速に下がり、革のブーツの底から冷気が脛へ這い上がってくる。吐く息が一拍遅れて凍り、睫毛の先で氷の粒になる。鼻の奥が痛い。指先の感覚が、ゆっくり消えていく。耳たぶは既に痛みを通り越して、ただ硬く、他人の肉のようになっていた。
雑用係は、雑用係らしく、何も残さずに消えればいい。
レオンは結界符の紙束を、リュックの内側で強く握りしめた。一枚でも貼れば、寒気は今夜は凌げる。だが、それをやれば「やはり俺がいないと困るだろう」と自分に言い訳したくなる。それが嫌だった。だから、紙は懐の底に押し込んだままにした。雪が首筋に落ちて、鎖骨のくぼみで溶け、また凍る。背中を伝う冷たい筋を、レオンはあえて拭わなかった。
足の感覚が遠くなり始めたころ、街道の脇で何かが動いた気がした。雪に半分埋もれた道標の影に、黒い塊がある。狼の死骸かと思って近づくと、それは古い鉄の鎧の破片だった。誰かの遺物。誰かが、やはりこの峠で力尽きた跡。
鉄の縁には、もう色を失った血の痕と、雪の結晶が幾何学模様に張り付いていた。鎧の継ぎ目には、誰かが必死で握ったらしい指の擦れが、薄く線になって残っている。ここまで来て、それでも力尽きたのか。それとも——力尽きるしかなかったのか。鎧の主にも、たぶん仲間がいた。たぶん、その仲間に置いていかれた。誰にも見送られず、雪に呑まれ、何十年もこのまま、道標の影で誰かに見つけられるのを待っていたのだろう。
レオンは破片に触れて、低く息を吐いた。鉄の表面に、爪先で薄く呪句を一文だけ書く。三年前、初めて自分で覚えた、死者を弔うための小さな祝福の符だった。指先のインクはとうに凍りついていたが、呪句はそれでも、ほんの一瞬だけ青く滲んで、雪の上に消えた。
(俺もここで倒れるのか)
そう思った瞬間、視界の隅に光が差した。雪の向こう、街道のさらに先。常夜灯では説明のつかない、青白い光の点。
凍りついていた心臓が、その光を見た瞬間にだけ、急に温度を取り戻したように脈を打ち始めた。
それが、こちらに向かって、ゆっくり、ゆっくり、近づいてきていた。