第2話
第2話
ローファーの底が黒土を蹴る。
走り出して二分か、三分か。森の傾斜が緩やかに西へ下っているおかげで、息は思ったほど上がらなかった。とはいえ運動部に所属したこともない高二の体だ。脇腹に鈍い痛みが滲み始めている。ブレザーの内側が汗で張りつく。雨に濡れたままだったはずなのに、なぜか冷たさは感じない。
胸の奥の糸——比喩じゃなく、本当に細い何かが鎖骨の下で張っている——が、徐々にきつく引かれていく。羅針盤よりずっと正確だ。糸のテンションが上がるたび、首筋の血管が一拍ぶん速くなる。
(誰かが、近い)
頭の中で、女神の声を反芻する。「彼女の震えは、あなたに届くはずです」。震え、という単語の重みが、走るほどにじわじわ増していく。怯えなのか、寒さなのか、それとも泣いているのか——届くといっても、そんなものまで届いてしまうのか。
倒木を一つ跨ぐ。苔の感触で滑って、ローファーの底がぐらついた。両手で幹に手をついた瞬間、左の掌に小さな突起が刺さる。木の棘。痛いというより、痛覚があることに少し安心した。死んだ後の体は、ちゃんと痛みを覚える仕様らしい。
「……なるほど。痛みはチートに含まれない、と」
呟きを森が吸い込む。返事はないが、口を動かしているだけで腹のあたりが落ち着く。誰とも会話しないことに慣れていたはずの俺が、初日にして独り言の効能に気づき始めている。
葉擦れの向こうから、また鳥の声。違う。鳥じゃない。短く切れた、人間の悲鳴だ。
胸の糸が、ぴん、と一段強く張った。
足を加速させる。
*
枝のカーテンを抜けた瞬間、視界がひらけた。
林の切れ間。薄い陽が差し込む小さな草地に、銀色が転がっていた。
転がっていた、と最初は思った。よく見ればそれは、片膝をついて身を起こしかけている少女だった。腰まで届く銀の長髪。汚れた白い貫頭衣。耳の先が、不自然に長く尖っている——三角に。日本のアニメで百回は見た形。
(エルフ……?)
地面に手をついた腕が震えている。左の太ももにざっくりとした切創。布の裂け目から赤い線が垂れて、白い肌に二本、三本と分岐していく。傷は深くないが、塞がる気配もない。何より、彼女の足首には黒い金属の輪が嵌っていた。鎖の片方が、千切れている。
千切れた断面はまだ新しく、鈍い銀色の切り口に黒土がこびりついていた。無理やり引きちぎったのか、千切り方自体が荒い。鎖の輪の一つひとつが、俺の親指より太い。あの重さを引きずって、この子はここまで逃げてきたのか、と思った瞬間、鼻の奥が妙に痛んだ。
少女の視線がこちらを捉えた。青に近い、淡い灰色の瞳。一瞬で焦点が結ばれ、瞳孔が針の先まで縮む。怯え、というより警戒。獣が、知らない獣を見る目だ。
「……っ、来ないで」
舌足らずな日本語、ではない。日本語ではないはずの音が、なぜか頭の中で意味として整っていく。翻訳機能までついているらしい。便利だ、と思う前に、彼女の細い指が地面の小石を握り込んだ。
握る指が白い。爪の根元まで力が入りすぎて、指先の血が引いている。それなのに、小石を構える腕は小刻みに揺れていた。たぶん、これで何人目かの「来ないで」なんだろう。その台詞を何度繰り返しても、誰も止まってくれなかった顔だ。
「待——」
俺が一歩を踏み出した瞬間、彼女の背後の茂みが、別の方向から派手に揺れた。
掻き分けて出てきたのは、男が三人。
どれも汗だくで、どれも目つきが昼間の森に似合わない。革鎧と粗末な鉄剣。先頭の禿頭の男が、鎖の千切れた端を握っている。残り二人の腰には、ぐるりと縄が巻かれている。獲物を縛る用の縄だと、見た瞬間にわかった。
男たちの体から、鉄と獣脂と、それから酒精の混じった匂いが風に乗って届いた。現代の街では嗅いだことのない、生々しい体臭。ゲームのテクスチャじゃなくて、本当に生きている人間がそこにいる、という重さを、鼻の粘膜が先に理解した。
「ようやく追いついたぞ、長耳」
禿頭が舌打ちする。視線が、少女から俺へ滑った。眉が一つ、訝しげに動く。
「……何だ、お前は」
問われて、答えがすぐには出なかった。
代わりに、頭の中で勝手に状況が整理されていく。エルフの少女。千切れた鎖。三人の追っ手。台詞は通じる。法律らしきものがあるかは知らない。ここが日本でないことだけは、もう疑いようがない。
——これは、たぶん、奴隷商。
ラノベ脳が即答した。深夜二時の布団の中で何百回も読んだ場面だ。読者として何百回も「ここで主人公が出てくれよ」と願った場面でもある。
俺が、その主人公の側に立っている。
「……通りすがりだ」
声が、自分でも意外なほど低く出た。ブレザーのポケットに手を入れて、何も入っていないのを確認する。武器はない。スマホも、財布もない。あるのは制服一着と、貰ったばかりの薄っぺらいスキル名一行だけだ。
禿頭がにやり、と犬歯を見せた。前歯が一本欠けている。その欠けた隙間から、黄ばんだ息がひゅうっと漏れた。
「通りすがりかよ。なら、目を瞑って消えな。荷物の引き渡し中だ」
「荷物?」
俺は、地面の銀髪をちらりと見た。鎖の、千切れた端。震える指。視線が合った瞬間、彼女は唇を強く噛んで、もう一度小石を握り直した。怯えながら、まだ抗うつもりでいる。
唇の端から、細い血が一筋にじんでいた。噛みすぎたのだ。泣くかわりに、自分の内側を噛んで耐えているのが分かった。
胸の奥の糸が、ぐ、と短く跳ねた。
——震え、というより、砕ける一歩手前みたいな張り方だった。
「……荷物は、人じゃないだろ」
口が、勝手に動いていた。
*
禿頭の笑いが消えた。
「ガキが」
低い舌打ちと同時に、男の足が地面を蹴る。距離は五メートルもない。革靴と鉄剣のひしゃげた音が、一瞬で目の前まで迫る。
俺は、動けなかった。
体の冷凍と思考の沸騰が、同時に起きていた。逃げろ、という指令と、彼女から離れるな、という別の指令が、神経の真ん中で衝突していた。死ぬ、と思った。さっき死んだばかりなのに、また死ぬ、と思った。
膝の裏が、一度だけ抜けそうになる。視界の端で、木漏れ日の粒が妙にゆっくり落ちていく。耳の奥で自分の心音が、鐘みたいに重く鳴っている。怖い、という感情よりも先に、後ろの呼吸を一つだって零させたくない、という衝動のほうが、筋肉に先回りしていた。
それでも、足だけは少女の前へ半歩ずれた。
無意識だった。
ブレザーの背中に、銀色の視線がぶつかる。震えた呼吸が、すぐ後ろで止まったのが分かった。彼女は逃げようとしていない。立ち上がる力が残っていないのか、あるいは——俺が盾になったことを、認識してしまったのか。
背中越しに、小さく息を呑む音が聞こえた。声にならなかったその音が、やけにはっきりと鼓膜に残った。生きている、という事実を、後ろから耳に注がれたみたいだった。
(——助けたい)
その一語が、頭の中で雨粒くらいの大きさになって落ちた瞬間。
胸の奥の糸が、皮膚の内側で熱を持った。
心臓の裏側から、一本の温い芯がじんわりと腕を伝って、肘、手首、指の付け根、と順番に灯っていく。痛くはない。むしろ、ずっと冷え切っていた場所に、初めて血が通った感覚に近かった。
「……っ?」
俺の右の指先から、すうっと、白い光が伸びた。
光は糸より太く、紐より細く、けれど明らかに——鎖の形をしていた。一節、二節、三節。淡い銀色の輪が連なって、空中をひらりと撫でながら、俺の指先と、地面の少女の左手首を、目に見えない距離でゆっくり繋ごうとしている。
輪の一つひとつに、薄い文字のようなものが明滅しては消える。読めない。読めないのに、それが「約束」という概念の形だ、ということだけが、なぜか胸の奥で理解できた。
少女の目が、見開かれた。
「これ……」
掠れた声。鎖の先端が、彼女の手首の数センチ手前で、ふわり、と止まる。触れていいのか、と尋ねるみたいに、宙で揺れている。
禿頭の鉄剣が、俺の頭めがけて振り下ろされた。
風切り音は、奇妙なほど遠かった。
俺の意識は、伸びかけた光の鎖と、銀の少女の手首の、わずか数センチの空白に、まるごと吸い込まれていた。
——絶対契約(アブソリュート・コントラクト)。
スキル名が、頭の内側で、初めて意味のある音として響いた。
鎖の輪が、二つ、三つと数を増やす。
俺は、空いた左手で、少女の手首を、ぐっと掴んだ。