第1話
第1話
踏切の警報音が、雨粒を貫いて鼓膜に刺さった。
カンカンカン——三度目の金属音で、ビニール傘の骨が左肩に食い込んでいるのに気づく。ブレザーの肩は雨を吸ってずっしり重く、三月末だというのに首筋が氷みたいに冷たい。高峰湊、十六歳。都立武蔵丘高校二年A組、窓際の前から四番目の席。改札からアパートまでの歩数は九百二十三歩。こうして数を数えていないと、自分の輪郭が雨に溶けて消えそうになる癖がついた。
二年と四ヶ月前、両親は離婚届に判を押した。父親の新しい姓で呼ばれるのが怖くて、俺は母親の旧姓にしがみついたまま、教室で誰とも本音を交わせずにいる。昼休みに話しかけてくる奴はいない。放課後に駅で合流する相手もいない。深夜二時、薄い壁の向こうで母親がテレビを見ているあいだ、布団の中で読む異世界ラノベだけが、一日で俺が息を吐ける時間だった。
(心の底から、誰かと繋がりたい)
口に出せない、誰にも知られたくない、幼稚で重たい願望。
遮断機が下りる。赤いランプが雨に滲む。 その時、踏切の中央に、制服の少女が一人、立っているのが見えた。
知らない学校のセーラー服。うつむいて、動かない。濡れた黒髪が頬に張りついて、両手はぶらりと下がっている。警報音の向こうで、電車のヘッドライトが雨の膜を押し広げながら膨らんでいく。
「おい——何して」
声を出したのは俺だった。自分でも驚くほど大きな声。少女の顔が、ゆっくりとこちらを向く。焦点の合わない硝子玉のような瞳。
考える前に、足が動いていた。 ビニール傘を投げ捨て、閉まりかけた遮断機の下を潜り、濡れたアスファルトを蹴る。足裏で跳ねる水。警報音が近い。近い。近い。
少女の腕を掴み、反対側のレールの外へ、両腕でまとめて突き飛ばした。
直後、白い光。
ヘッドライトではなかった。もっと白くて、音のない光。視界の端で銀色の車体が紙切れみたいに引き伸ばされ、胸の中でパキ、と乾いた音が一度だけ響く。肺の空気が一息で絞り出される。口の中に、鉄の味。
(ああ、死んだのか、俺)
妙に冷静だった。痛みは不思議と遠かった。ただ、突き飛ばした少女の肩の細さだけが、掌にはっきり残っていた。
——あんな細い肩で、あの子は、何を抱えて踏切に立っていたんだろう。
それが、最後の思考だった。
白い光が、永く続いた。そして、雨の音が、消えた。
*
葉擦れの音がした。
鼓膜を最初に叩いたのはそれだった。警報音でも、電車のブレーキでもない。木の葉がこすれる音と、どこか遠くで鳴く鳥の声。カラスでも雀でもない、甲高い笛のような鳴き方。三度、四度と続いて、まるで誰かが森の奥から合図を送ってきているようにも聞こえる。
視界が戻る。
森だった。頭上で交差する太い枝、苔むした幹、湿った落ち葉の絨毯。足元は制服のローファーのまま、見たこともない黒土を踏んでいる。肩に雨の重さはなく、ブレザーは乾いている。どこも、痛くない。指を開いたり閉じたりしてみる。骨も関節も、嘘みたいにスムーズに動いた。胸を押さえてみても、あの乾いた音の余韻はどこにもない。心臓が、規則正しく、生きている人間の速さで脈打っている。
「……冗談だろ」
声が出た。自分の声だと気づくのに、ワンテンポ遅れた。喉の奥がからからに渇いている。唾を飲み込もうとして、それすら上手くいかない。
風が吹く。土と苔と、知らない花の混じった匂い。鼻の奥にうっすら甘い。日本の春の、湿り気と排気ガスの混じった匂いとは何もかもが違う。しゃがんで落ち葉を払うと、黒土の下で小さな光る虫が逃げていった。蛍に似ている。だが明らかに昼の光量だ。指先でそっと触れようとすると、虫は青白い軌跡を残して苔の隙間に潜り込み、後にはぼんやりとした残光だけが数秒間だけ漂って消えた。
——夢じゃ、ない。
頭の中で、整理のつかない情報が渋滞する。死んだ。森にいる。痛くない。光る虫。考えれば考えるほど現実感が遠ざかっていく。そのど真ん中に、透き通った声が割り込んできた。
『目覚めましたか、高峰湊』
ぞっ、と首筋に鳥肌が立つ。耳で聞いたのではない。頭の内側から、直接響いてくる。水晶を指で弾いたような女性の声。雨の音にも電車の音にも似ていない、どこかしんと冷えた、それでいて柔らかい響き。
「……誰だ」
『私を女神と呼ぶ者もいます。名は、どうぞお好きに』
とんでもないやつに当たった、と俺は思った。深夜二時の布団の中で何百回と読んできた、あの定型文がそのまま脳に流し込まれている。現実が、安っぽいラノベの一ページに化けている。
『あなたは一人の少女を庇いました。その魂の重さを、私は見届けました』
「……じゃあ、やっぱり俺は」
『元の世界では、死にました』
淡々としていた。感情の揺れがない分、嘘の匂いもしない。
不思議と、悲しみは湧いてこなかった。母さんの顔が一瞬だけ脳裏をよぎって、すぐに薄れる。教室の窓際の席。誰とも本音を交わせなかった十六年。あの世界に置いてきたものは、思っていたより少なかったのかもしれない——そう気づいてしまったことのほうが、ずっと怖かった。
『そして、あなたの願いを、私は聞きました』
——誰かと、心の底から、繋がりたい。
口に出していないはずの文字列が、頭蓋の内側で反響した。耳まで熱くなる。誰にも知られたくなかった一行を、初対面の女神に音読されている気分だった。
『ゆえに、権能を授けます。この世界で、あなた自身が望む絆を築くための力を』
視界に、半透明の板が浮かぶ。白い文字が滑るように並んでいく。深夜二時、布団の中で何十回と眺めてきた、そのままの図だった。
氏名 高峰湊 種族 人間/転生者 階梯 第一階梯 スキル 『絶対契約(アブソリュート・コントラクト)』
最後の一行を、俺は三回読み返した。指先がかすかに震えていた。漢字とカタカナの組み合わせが、妙にずっしりと重い。絶対、という二文字が、雨に濡れたあの少女の肩よりずっと冷たく感じた。
「……なんだ、これ」
『その権能の正体は、私からは語りません。あなた自身が、誰かと心を交わしたとき、はじめて形を得るものだからです』
「いや、説明しろよ。不親切すぎるだろ」
『不親切なのは、あなたの願いが不親切だからです、高峰湊』
——笑った、気がした。女神が、だ。耳の奥に残った響きには、ほんのわずかだけ、面白がるような揺らぎが混じっていた。
『森を西へ。今、一人の娘が追われています。彼女の震えは、あなたに届くはずです』
「待——」
気配が、頭の中からすっと抜けていく。残ったのは、湿った森の匂いと、手の甲にふわりと浮かぶ一枚の板だけ。
『絶対契約(アブソリュート・コントラクト)』。
指で空中の文字をなぞる。触れた瞬間、板は羽根みたいに崩れて散った。だが、その光の粒が消える寸前、俺の胸の奥で、何か細い糸のようなものが微かに引っ張られる感覚があった。鎖骨の少し下、心臓よりは右寄り。誰かに名前を呼ばれた時のような、それでいてもっと深い場所が反応している。
——西か。
立ち上がる。ローファーの底に土が染みる感触。膝が、思っていたより小さく笑った。心臓がうるさい。怖いのか、逸っているのか、自分でも判断がつかない。
たぶん、両方だ。
ブレザーの袖を握り直す。両親が離婚届に判を押した日も、教室で誰にも声をかけられなかった放課後も、俺はいつも誰かが手を伸ばしてくれるのを待っているだけだった。そうやって息を殺してきた十六年が、ローファーの土と一緒に、足の裏でぐにゃりと潰れる。
教室の窓際で十六年間息を殺してきた少年が、生まれて初めて、自分の意志で誰かの方角へ走ろうとしている。
「……なるほど」
呟く。声は、落ち葉の上にはっきりと落ちた。雨には溶けなかった。
「これは、チート判定で間違いない」
地を蹴る。葉擦れの向こうから、確かに、小さな悲鳴が聞こえた気がした。胸の奥の細い糸が、ぴん、と一段強く張る。引かれた方向は、確かに西だった。
絆という文字の意味を、俺はまだ知らない。