Novelis
← 目次

銀のスープと白い仔狼

第3話 第3話

第3話

第3話

カイは、椀を膝に置いたまま、息を潜めた。

戸板のすぐ向こう、茂みの奥で、かすかに、何かが息をしている。呼気の粒が、夜気をほんのわずかに震わせて、戸の隙間まで届いてくるのが分かった。獣の気配だと、体が先に知っていた。八年の間、森の中で数えきれないほど拾ってきた種類の気配だ。ただ、そこに敵意はなかった。張り詰めた緊張の糸の、どこにも殺気が通っていない。むしろ、怯えている。気配の端がふるえていた。

立ち上がりかけて、カイは思い直し、膝を折ったまま、もう一つの空いた椀を、土間の縁までそっと引き寄せた。鍋から汁をすくい、注ぐ手つきが、自分でも意外なほど丁寧だった。銀色をにじませた黄金色の汁が、木目の粗い椀の底で、小さく波を立てる。湯気は、戸口の隙間を縫って、外の冷たい夜気へ、糸を引くように流れ出ていった。

それから、彼は戸の閂をそっとゆるめた。

押し開けるつもりはなかった。ただ、戸板と柱の間に、人差し指一本ぶんほどの隙間を作った。その隙間から、囲炉裏の灯と、乳色を帯びた湯気と、根菜と肉の煮える匂いが、一筋、夜の森へ差し出される形になる。

カイは土間に戻り、囲炉裏の端に腰を下ろした。

呼吸を整えた。踏み込んではいけない、と自分に言い聞かせるように、両の手を膝の上で組み直す。剣胼胝の残る指が、十年ぶりに、何も握っていない。握ろうともしていない。ただ、そこに置かれているだけだった。指の節のあいだに、薪の焦げた匂いと、根菜の土の匂いだけが残っている。剣の柄の革のにおいが、ようやく、指のしわの底から抜け落ちはじめていた。

乾いた落葉が、かすかに鳴った。

さっきよりも、戸のほうへ近い。ためらうように、一歩踏み出しては、ひと呼吸止まる。それからまた、一歩。足音というには、あまりにも軽い。小さな重みが、苔と枯葉の間を、恐る恐る選んで進んでいる。

やがて、戸の隙間の向こうで、白いものが、ひとつ、淡い光をよぎった。

耳の形が、先に見えた。三角の、けれど先の尖りきらない、柔らかな輪郭の耳だ。一度、戸の隙間ごしに内を覗くように傾き、すぐにひっこむ。次に見えたのは、黒い鼻先だった。鼻先は、戸板の隙間に触れそうで触れず、湯気の流れの真ん中で、小刻みに動いていた。匂いを吸って、また吐いて。吸って、また吐いて。——月乳草の光とおなじ拍で、息を刻んでいた。

カイは息を殺したまま、目だけで、その輪郭を追った。

仔狼だった。

生まれて半年も経っていないだろう。毛並みは本来、綿雲のように白いはずのものが、泥と松脂と古い血痕とで、ところどころ灰色に変色している。肋骨の影が、毛の薄いところから浮いていた。前足のひとつは、浅くかさぶたが残っていて、どこかで何かに引っ掻かれたか、罠から抜け出した跡に見えた。尾は、背のほうに巻き込んで、ほとんど振られていない。振り方を忘れている尾だ。

それでも、瞳だけは、澄んでいた。

戸の隙間から漏れる囲炉裏の灯を、わずかに映して、金色とも薄茶ともつかない色が、じっとこちらを——いや、こちらではなく、土間に置かれた椀を、見つめていた。

「……入ってくるなら、どうぞ」

カイは、囲炉裏の灯に向けて、そう呟いた。声を、戸の向こうの獣に向けては、かけなかった。向けると、人の意志がこもってしまう。それが、今のこの小さな生き物には、たぶん、重すぎる。だから、独り言のふりをした。薪の継ぎ足しを迷っているときの、普段の調子で。

仔狼は、一度、身を引いた。

戸の隙間の向こうの暗がりに、白い輪郭がさっと退いて、しばらく気配が途切れた。逃げたのかもしれない、とカイは思った。思ったそばから、湯気のゆくえのほうで、ふたたび、かすかな息遣いが戻ってきた。決めあぐねているのだろう。怯えと、空腹と、この匂いの誘惑とが、小さな背中の中で争っている。争いが長引いて、結局、空腹のほうが勝った。

戸の隙間が、ためらいがちに、押し広げられた。

仔狼は、前足のひとつを先に、ゆっくりと土間に下ろした。次に、もう一方。短い四肢が、ひとつずつ、慎重に段差を選ぶ。尾は相変わらず低く、背の線も丸まっている。体重の全部を、いつでも引き返せるよう、後ろ脚に預けたまま。それでも、鼻先だけは、椀のほうへ、迷いなく伸びていた。

土間の縁の椀まで、五歩。仔狼は、その五歩を、ひとときの命がけのように、渡った。

椀の前まで来て、仔狼は、鼻先を湯気のすぐ上にかざした。

黒い鼻が、湯気の白い糸を、小刻みに吸い込む。肩のあたりの毛が、ひとつ震えた。小さな舌が、口の端からわずかに覗き、すぐに引っ込む。迷っているのではなかった。そうしていいのか、自分に許していいのか、はかりかねている風だった。今まで、誰かの食べ物に鼻を寄せるたび、杖や靴先が振り下ろされてきたのだろう。その小さな体の、どこかが覚えている。覚えているから、一口を、こんなにも惜しむ。

カイは、動かなかった。

椀の縁が、土間の木肌に軽く触れる音がした。仔狼が、自分から、椀のほうへ半歩、寄った音だった。そして、ためらいの縁から、ついにはみ出した瞬間——小さな舌が、黄金色の水面に、ちょん、と触れた。

一瞬、仔狼の体が、ぴくりと跳ねた。

驚いた、というより、驚き終わるまで半拍、次に来るものを待っている姿だった。殴られるか、追い払われるか。どちらも、来なかった。来たのは、ただ、乳のような甘さと、根菜の素朴な温度だけだった。甘さは、舌の先から喉の奥へ、ゆっくりと染み入っていく類のもので、痛みの予感ばかりを覚えてきた口には、はじめて通る道だったのだろう。仔狼は、ほんの一瞬、目を閉じた。

二口目は、さっきより長かった。

三口目、仔狼は、椀の縁に前足を両方かけた。短い尾が、背のほうにくるんと巻いていたのが、ゆるやかに下りて、土間の苔の上に触れる。尾の先が、ためらいがちに、一度、左右に揺れた。振り方を忘れた尾が、振り方を、ひとつずつ、思い出していくように。

椀の底まで、あと半分になった頃。

仔狼は、湯気の向こうから、ふいに、こちらへ鼻先を上げた。

金色とも薄茶ともつかない瞳が、囲炉裏の灯をいっぱいに映して、まっすぐカイを捉えた。そして、口の端を、ほんの少しだけ、持ち上げた。人の笑みではない。獣の、はじめての安堵の形だった。

「きゅう、」

短い、鼻にかかった声が、土間の暗がりに、ひとつ落ちた。

カイは、囲炉裏の縁を握った手に、知らないうちに力を入れていた。

うまい、と、この小さな生き物は、たったいま、告げたのだと思った。言葉を持たない喉のかわりに、短い声で、尾のひと揺れで、鼻先を上げる角度で、告げた。八年間、誰からもこの調子で「うまい」と言われたことはなかった。宴席の賞賛も、冒険者ギルドの公式の謝辞も、背を叩く数百の掌も、この「きゅう」ひとつに、届かなかった。どれもこれも、彼の剣の冴えや、討ち取った首の数に、値札のように貼りつけられた言葉だったのだ。腹を満たした生き物が、ただ生きていることを喜んで零す、この一音には、どれひとつ、及ばなかった。

喉の奥が、妙に熱かった。

カイは、瞬きを何度かした。湯気が目に沁みた、ことにして、目尻を、指の節で、一度だけ拭った。十八年、ずっと握り続けてきた剣を置いた指の、その節が、いま、湯気の名残を拭っている。それだけのことが、胸の真ん中を、静かに通り抜けていく。

仔狼は、椀の底を舐め終え、もう一度、カイを見上げた。

今度は、怯えが、もう少しだけ薄くなっていた。

カイは、手を出さなかった。

かわりに、鍋のほうへ手を伸ばし、木匙で汁をもう一杯、椀に注いだ。湯気が、また細く立ちのぼる。仔狼は、尾を土間の上で、もう一度、そろそろと揺らした。

「……ゆっくり、食え」

囲炉裏の火に向けて、カイはそう呟いた。独り言の体裁を、まだ崩さなかった。崩すのは、この夜でなくていい。今日のところは、ただ、この小さな腹が満ちればいい。

外では、風が梢を撫で、沢の水音が、いつもより少し遠くに聞こえた。椀の上で、銀色を帯びた湯気が、土間の薄闇を、ゆっくりと照らしている。仔狼は、二杯目の椀の縁に、また、前足を揃えた。

明日は、と、カイはふと考えた。薪を割るより先に、麓の村まで下りて、もう少し柔らかい肉を、手に入れてこよう。そう思いながら、彼は腰を下ろしたまま、土間の縁から、そろりと半歩、仔狼のほうへ、自分の椀を寄せた。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!

第3話 - 銀のスープと白い仔狼 | Novelis