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銀のスープと白い仔狼

第2話 第2話

第2話

第2話

一歩、また一歩と、カイは湿った下草を踏みしめた。

夕闇は、薄青い水面のようにゆっくりと森に沈みつつあった。土の匂いと、朽ちた枝の甘ったるい匂いが、踏みつけるたびに立ちのぼる。沢の水音は小屋の中で聞くよりも近く、石を転がす低い囁きが、左の耳のあたりに絡んでいた。右手の指が、腰の後ろで一度、また空をつかんだ。もう何もないのだ、と自分に言い聞かせるように、カイはその手を前に下ろした。

岩までの距離は、二十歩。

八年前の自分なら、もっと警戒していたはずだった。足音を殺し、風下を選び、視線を敵の目に合わせない角度で近づいた。今はそのどれも、していない。歩幅は普段どおり、呼吸も整えない。ただ、一人で粗末なスープを飲み終えたばかりの男が、窓の外に気になる光を見つけて覗きにいく——それだけの足取りだった。

岩の根元に、その光はあった。

苔に覆われた岩のくぼみ、湿った石の裏側。地面よりやや高い棚のようなところに、一枚の葉が生えていた。丈は、カイの手のひらの半分ほど。葉の形は矢尻に似て、縁は滑らかだった。葉脈だけが、暗がりの中で銀色に、静かに息づいていた。葉そのものは淡い緑色をしているのに、葉脈のあたりから零れる光は、どこか乳色を帯びていた。吸って、吐いて、吸って、吐いて——光は、さっき窓から見たそのままの調子で、規則正しく明滅していた。

カイは、その場に膝をついた。

湿った苔が、膝当てのない布地を通してひやりと冷たい。そんなことも、構わなかった。顔を近づけ、葉の表面をしばらく見つめた。それから、古い記憶の底のほうで、ひとつ、名前が引き上げられた。

——月乳草。

いつ、どこで読んだのだったか。王都の古い薬師ギルドの書庫。あれは、十九の冬だった。足止めを食らって二日、雪が止むのを待つ間、他に読むものがなく、棚の奥から引き抜いた黴くさい写本。題名も作者もはっきり覚えていない。ただ、本の真ん中あたりの、紙魚に食われた頁に、この葉の素描があった。

満月の夜、沢沿いの苔の陰に、ごく稀に一枚だけ生える葉。名を月乳草という。葉脈に夜露を溜め、月の光を乳のように発する。煎じれば万病に効き、澄んだ出汁を引き、煮立てるほどに甘みを増すという。

「……本当にあったのか」

声にしてみると、自分の口調が、心なし柔らかくなっているのに気づいた。吐いた息が、淡い白になって葉の前を横切り、銀の脈拍に触れる手前でふっと散った。そのあとも、口の端のあたりに、まだ自分でも持て余すような、かすかな笑みの名残が残っていた。八年のあいだ、自分の声は命令か、詫びか、短い相槌のためにしか開かれてこなかった。独り言に含みが生まれるのは、ずいぶんと久しいことだった。

薬師の写本は、半ば伝説の記録として、読み物の棚に置かれていた。実在が確認されているのは百年以上前、それも王族への献上記録の中に一度だけだと、脚注がついていた。Sランクの冒険者ですら、この葉のために任務を受けたことはない。報酬にならないからだ。迷宮の宝玉のほうが、よほど確実に金に変わる。

カイは手を伸ばしかけて、止めた。

根を傷つけるのが惜しい。それに、月乳草が採取したその瞬間に光を失うのか、それとも光り続けるのか、写本にはたしか書いていなかった。指先を、葉の縁から一寸ほど離した位置で止め、彼はもう一度、葉脈の明滅を眺めた。光は、彼の指に触れる寸前、ほんの一拍だけ、脈を強めた気がした。こちらの緊張が伝わったのかもしれないし、気のせいかもしれない。それでも指先の皮膚が、糸ほどの熱をたしかに拾っていた。刃を握りすぎて節くれだった指の腹に、そんなやわらかい熱が灯るのは、いつ以来だったか。カイは、その熱を逃がすようにゆっくりと指を引いた。

結局、葉ではなく、その根元に落ちていた小さな欠片を拾うことにした。

自然に折れたらしい葉先の欠けが、苔の上にひと切れ転がっていた。親指の爪ほどもない、小さな銀色の破片。手のひらに乗せると、体温を吸って、光がふっと弱まった。死んでしまったのか、と一瞬息を詰めた。けれど、息を整えているうちに、光はまた、呼吸するようにゆっくりと戻ってきた。生きている、とカイは思った。摘まれたわけではなく、落ちただけの、小さな破片。それが、彼の掌の中で、なお、息をしている。

その破片を、彼はそっと、麻布の懐に包んだ。

小屋に戻る足取りは、来たときよりも慎重だった。まるで、眠っている赤子を抱いて歩くような。背の後ろに流れる風は同じ冷たさなのに、胸の前だけが、なぜかほんのりと温かかった。自分の体温がそう感じさせているのだろう、とカイは思い直した。けれど、戸口まで来てから気づいた。麻布の上から押さえた掌の下で、光がまだ、ゆっくりと、息を刻み続けていた。

戸を開ける。

囲炉裏の火は、まだ頼りなく燃えていた。鍋は底に薄く汁を残したまま、湯気を細く立てている。カイは鍋に沢の水を足し、薪をもう一本くべた。火がうなりを上げ、鍋の底からぷつりぷつりと泡が立ち始めると、懐から麻布を取り出した。月乳草の欠片は、薄暗い小屋の中で、手のひらの上にぽつんと銀色の輪を描いていた。

本当に、入れていいのか。

写本の記述を信じるなら、これはかつて王族の病床にのみ運ばれた葉だった。麓の村でひとつ、それも新鮮な一枚を献上すれば、家の屋根を葺き替えるだけの金になったはずだ。それを、こんな何の変哲もない塩漬け肉のスープに落とす。酔狂だな、と自分でも思った。思ったそばから、胸のどこかで、別の声が小さく返してきた。——酔狂で、いいじゃないか。誰に見せるでもない鍋だ。誰に説明する必要もない夜だ。八年、そんな夜を一度も許してこなかった男が、今夜くらい、銀色の一片を塩肉の汁に落としたところで、罰は当たるまい。

それでも、カイは指先で欠片をつまみ、湯気の立つ鍋の上で、少しだけ指を開いた。

銀色の一片は、ゆっくりと落ちていった。湯の表面にあたった瞬間、光が一度、強く弾けた。花火のような派手さはなく、ただ、湯の中央から円を描くように、淡い乳色の波紋が広がった。波紋は鍋の縁で跳ね返り、もう一度中央へ集まってきて、静かに消えた。

そのあと、鍋の底から、別の香りが立ちのぼった。

塩漬け肉の脂の重さでも、根菜の素朴な甘みでもない、もう一つの香り。乳のように柔らかく、しかし奥のほうで草の青さをかすかに刻んでいる。嗅いだことのない匂いだった。嗅いだことのない匂いなのに、鼻の奥の、ずっと昔にふさがってしまった場所が、ふいにほどけるような感覚があった。幼い頃、母が夜なべで煮ていた薄い雑炊の湯気。雪道で凍えた手を包んでくれた誰かの掌。そういう、言葉にもならないまま胸の底に沈んでいたものが、匂いに曳かれて、水面近くまで浮いてきた。カイは、自分が小さく鼻を鳴らして笑ったことに、しばらく気づかなかった。

カイは木匙で鍋をそっと一度、かき混ぜた。

濁っていたはずの汁が、透き通っていた。

根菜の煮崩れは残り、塩漬け肉の切れ端は底に沈んでいるのに、汁そのものは澄みきって、囲炉裏の火の色を黄金色に映していた。蜂蜜とも菜種油とも違う、もっと薄い、まるで夕暮れ前の陽の色に似ていた。匙を上げると、汁は糸を引くでもなく、ただすっと匙から滑り落ち、落ちる途中で、ほんのひと呼吸だけ、銀色に光って見えた。

椀に注ぐ。

湯気は、さっきよりも高く、そして細く立った。天井の梁に届く手前で、ふっと広がって消える。湯気の匂いを吸い込むと、肩の裏、首の付け根、そして指の節——八年ぶん、凝り固まっていた場所が、ひとつずつ、ゆっくりと緩んでいくのがわかった。

一口、運ぶ。

舌に触れた瞬間、塩気が、はじめに立った。けれどそれは刺すような塩ではなく、遠くから寄せる波のような、柔らかい塩だった。続いて、乳のような甘さ。そのあとを追って、根菜の素朴な甘みと、肉の脂の重さが、きちんと順番を守って現れる。ひとつの味が、別の味を追い越さない。そういうスープを、カイは生まれて一度も飲んだことがなかった。

木椀を両手で抱えたまま、カイはしばらくの間、目を閉じた。

目を閉じた瞼の裏に、王都の雑踏も、雪原も、血の匂いも、仲間の名も、出てこなかった。ただ、囲炉裏の火と、沢の水音と、乳色の湯気の気配だけが、静かに並んでいた。八年ぶりに、自分の中に「次」の戦場が用意されていない夜だった。

椀を膝に置き、カイは長く、息を吐いた。

その時、外で、かすかな音がした。

乾いた落葉を、何かが踏んだ音——ではなく、むしろ、踏むまいとしてそろそろと動いたような、遠慮がちな擦過音。戸板からごく近い、茂みのあたり。

カイは顔を上げた。

囲炉裏の火が、戸の隙間から漏れる光を、土間に細く落としている。その光の帯の中に、一瞬、白い毛のようなものが、よぎった気がした。風ではない。風では、あんなふうには揺れない。

湯気は、戸の隙間からゆっくりと外へ流れ出ていた。銀色を帯びた柔らかい香りが、夜の森の中へ、一筋、溶け出していく。

茂みの奥で、かすかに、何かが息を呑んだ。

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