第1話
第1話
煙突から立ちのぼる薪の煙が、夕暮れの空に細く溶けていった。
カイは斧を切株に突き立て、左の肩を一度大きく回した。十年前に折れた鎖骨の古傷が、湿った夕方になると鈍く疼く。慣れたものだ。痛みは消えない。ただ、今日は誰にも告げる必要がない。それだけのことが、奇妙に身を軽くしていた。
薪を一抱え持ち直し、土間に運ぶ。土間の冷たさが、薄い革底ごしに足の裏に伝わってきた。木肌に残る樹皮のささくれが手のひらを擦り、ほのかな松脂の匂いが鼻先をかすめる。腕の中の薪は思ったより重く、けれどその重さは、誰かの命を背負うときの重さとは違っていた。物の重さは、ただ物の重さでしかない。それがどれほど贅沢なことか、カイはこの三日間で少しずつ思い出しつつあった。
辺境の森の奥、地図にも名のない沢のほとりに、その小屋はあった。前の主は何年も前に居なくなったらしい。屋根の苔を払い、戸板を打ち直し、煙突に詰まっていた鳥の古巣を取り除くだけで三日かかった。井戸は涸れ、戸の蝶番は錆びついていた。それでも王都の宿のどんな部屋より、ここは静かだった。
囲炉裏に火を入れる。火打ち石を打つ指が、剣を抜くときより少し躊躇った。八年間、火を起こすのは決まって誰か他の仲間の役だった。今は自分しか居ない。
火花が飛び、苔に落ち、ふっと消える。もう一度打つ。もう一度。三度目に、ようやく頼りない橙色の点が苔の繊維に食い込み、息を吹きかけるとひっそりと広がっていった。剣を振るうほうがよほど確実だった、と苦笑が漏れる。
種火が苔に移り、細い煙が立ちのぼる。鉄鍋に沢の水を張り、乾物の根菜と、麓の村で手に入れた塩漬けの肉を、無造作に放り込んだ。塩の塊が湯に溶けるのを、カイはぼんやりと眺める。水面に小さな油の輪が浮かび、ゆっくりと広がっては縁に触れて消える。湯気の縁が囲炉裏の煤で灰色に染まり、天井の梁の隙間に吸い込まれていく。
「……これでいいのか」
声が小屋の梁に吸い込まれた。誰も答えない。返事を待つ人間は、もう周囲に居ない。
冒険者ギルド史上、最年少のSランク。十二歳で剣を握り、二十二歳でその位階に届いた。それから八年、カイは人間が一生のうちに浴びる以上の感謝と称賛と、同じだけの血と泥を浴びてきた。魔王軍の幹部を四体落とし、迷宮を六つ踏破し、滅びかけた街を二つ救った。報酬は黄金の山、勲章は箱の底。背中を叩く手の数は、もう数えきれない。
そして去年の冬、北の国境で年下の仲間を一人失った日、彼の中で何かが軋んだ。仲間の遺体を抱えて雪原を歩いた七時間、カイは自分の心臓の音だけを聞いていた。少年の頬はすでに凍り、まつ毛に白い粉がついていた。背に負った重みが、歩くたびに少しずつ自分の体温を奪っていったのを、カイはまだ覚えている。あのとき、自分が「強い」と呼ばれることの意味を、はじめて疑った。
引退を告げたのは、ギルド長と、長年世話になった武器屋の老人だけだ。盛大な送別会も、銅像の建立計画も、すべて断った。三日後には王都を出た。馬の蹄の音すら背中に追いつかない速さで森を選び、地図を捨て、川沿いを北へ歩いた。
——誰にも崇められず、誰にも頼られない朝が欲しかった。それだけだった。
煮立った鍋の蓋が、かたかたと鳴る。
カイは木匙で鍋底をかき混ぜた。塩漬け肉の脂がじわりと浮き、根菜の甘い匂いと絡んで、湯気の輪が顔をなぞっていく。八年ぶりに、自分の鼻が「美味そうだ」と素直に思っているのを感じた。鼻の奥がつんと痺れるような、けれど嫌ではない、子どもの頃に母の台所で嗅いだ匂いに似た何か。思い出すつもりで嗅いだわけではなかった。ただ匂いの粒が、記憶のどこかを勝手にほどいてしまった。母の声は、もうほとんど輪郭を失っている。それでも、台所の板間に差し込んでいた朝の光の色だけは、なぜか今も瞼の裏にはっきりと残っていた。湯気が顔に触れるたび、その古い光が一度だけ、ふっと揺らめいた気がした。
椀によそった具を、彼はそろそろと匙ですくった。
熱い。塩が強い。根菜は煮崩れて、もとの形を失っている。
それでも、湯気の奥にひそかに溜まる甘さが、舌の奥にじんわりと広がった。根菜が水を吸って蓄えた素朴な甘み。塩漬け肉の脂の、舌に絡みつく重さ。煮立ちすぎたせいで角の取れた塩気。どれもが粗く、どれもが正直だった。
「……うまいな」
呟いた瞬間、喉の奥が締まった。
うまい、と思ったのが、いつぶりかわからなかった。任務の合間に飲み下した干し肉。報酬の宴で振る舞われた銘酒。仲間が誕生日に焼いてくれた、少し焦げた小麦のパン。どれも記憶にはある。けれど、「うまい」と身体ごと感じたかどうかは、もう判別がつかない。あの頃は、噛むことよりも飲み下すことに気を取られていた。次の戦場、次の魔物、次の誰かの命。喉を通る食物は、ただ次の戦いまでの燃料だった。
椀を両手で抱え、カイは一口、また一口と、ゆっくり飲んだ。匙を運ぶたびに、肩の奥に張り詰めていた何かが、湯気と一緒に天井へ抜けていく気がした。鉄鍋の底が見えるころには、椀の縁を握っていた指が、自然にほどけていた。木椀の縁に残った汁が、指先をぬるりと湿らせる。その感触さえ、今は赦しのように思えた。
外で梟が一声鳴く。風が木の梢を撫でていく音。沢の水が小石を転がす音。
八年間、彼の耳は剣戟と悲鳴と、自分を呼ぶ歓声しか拾ってこなかった。今、その耳に、森のささやかな息遣いが、ひとつずつ滑り込んでくる。遠くで、夜行性の獣が下草を分ける微かな擦過音。囲炉裏の薪が水分を弾いて、しゅう、と短く息を漏らす音。屋根の苔から、夕方に降った霧の雫が一粒、土間に落ちる音。どれも武器を構えるべきものではなかった。ただ、世界が、世界として鳴っている、それだけのことだった。
椀を膝に置き、カイは囲炉裏の火を見つめた。炎の根元で炭がぱちりと爆ぜる。それだけのことが、奇妙に胸に沁みた。爆ぜた火の粉は、天井まで届くほどの勢いもなく、囲炉裏の灰に落ちてすぐに息絶えた。短命であることが、むしろ、いまの彼には心地よかった。誰かの命を守り損ねることもない、誰かの命を奪うこともない、ただ小さく生まれて小さく消えていく熱。そういうものに、八年ぶりに赦された気がした。
「……明日は、井戸を掘り直すか」
声に出してみる。誰の許可も要らない予定が、口から滑り出るのが、新鮮だった。明後日は屋根の苔を全部落として、その次は囲い柵を組み直そう。畑を起こすのは、雪解けが完全に過ぎてからでいい。
八年ぶりに、自分のためだけの段取りを組む。
匙を椀に伏せ、彼が立ち上がりかけた——その時。
窓の外で、何かが、ちらりと光った。
カイは動きを止めた。
夕闇が落ちきる寸前の薄青い空気の中、戸口から二十歩ほど離れた場所に、苔むした大きな岩がある。三日前、薪を運ぶ通り道に邪魔だと、よけながらすり抜けた岩だ。
その岩の根元——くぼんだ陰のあたりが、銀色に、淡く、息をするように発光していた。
蛍ではない。蛍の光はもう少し青く、明滅の周期も違う。月明かりの反射でもない。月は、まだ稜線の向こうにある。
光は規則正しく強弱を繰り返していた。吸って、吐いて、吸って、吐いて。まるで、何かが息をしているような。あるいは、何かが、こちらの気配を伺っているような。脈の間隔は、カイ自身の呼吸と重ならず、けれど重なりすぎもしない。獣の寝息でも、虫の燐光でもなかった。なんであれ、意志のようなものが、そこに潜んでいる——経験が、そう告げていた。背筋をつたう冷気は、開け放した窓のせいだけではなかった。うなじの産毛が、ほんの一瞬、立ち上がるのを、彼はたしかに感じた。
カイの右手が、無意識のうちに腰の後ろへ伸びた。そこにあるはずの剣は、もう小屋の隅の木箱の上に置きっぱなしにしてある。指先が、ただ空をつかんだ。
彼は自分の手のひらを見下ろし、ゆっくりと下ろした。指の節に残る古い剣胼胝が、囲炉裏の灯に淡く照らされている。十八年、ほとんど握りしめてきた手だった。その手で、今夜はじめて椀を温めた。
——剣は、もう要らない。
戸口の閂を外し、夕暮れの冷たい空気の中へ一歩踏み出す。土と苔の匂いが、湯気の名残を押しのけて鼻先に届いた。沢の水音が一段はっきりと耳に届き、頬を撫でた風は、思ったよりも冷たかった。それでも、踏み出した足は、退かなかった。
足元の枯葉が、かさりと小さく鳴る。
岩のほうへ、カイは静かに歩き始めた。銀色の光は、彼が一歩近づくたびに、応えるように、ほんの少しだけ強くなった気がした。