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加護なしと呼ばれた白き癒し手

第3話 第3話

第3話

第3話

祭壇へ続く階段は、二百三十七段あった。

リオンは数えながら降りた。数えていなければ、靴底に滲み込んでくる瘴気の粘りに、膝から折れてしまいそうだったからだ。呼吸するたびに喉の奥が鉄の味を帯び、舌の根が痺れる。背負い袋の中で聖水の瓶が触れ合い、固い音を刻む。その音だけが、今の彼にとって正しい律動だった。

先頭を行くガイの松明が、壁面の苔を濡らす。苔は黒く、所々に、体液のような琥珀色の玉を結んでいた。足を置くたび、石段の縁が欠ける感触が靴底に伝わる。何百年、いや、もっと昔に誰かが彫った段だろうか。その誰かも、きっと戻れなかった。

「リオン、解毒薬」

ロイが肩越しに手を伸ばす。まだ戦ってもいないのに、だ。リオンは黙って小瓶を渡した。ロイは口の中に一口含み、ぺっ、と床に吐いた。

「ぬるい」

瓶の底に残った液が、揺れて止まる。琥珀の色が、松明の光にわずかに沈んだ。リオンは瓶を回収し、革袋に戻す。指先の痺れは、階層を降りるごとに濃さを増した。肘の内側まで、冷たい糸が這い上がっている。

「——来るわよ」

エルザの声が、真上で弾ける。ローブの裾が、リオンの頬を掠めた。昨夜、自分が縫い直した折り目。その布が、瘴気の気流に煽られて、一瞬だけ生き物のように震えた。

祭壇の間が、眼下に開けた。円形の床の中央に、黒い石組みの盤。その盤を囲むように、呪毒を纏った屍竜の影が三体、頭をもたげた。

戦闘は、思ったよりも速く片付いた。

ガイが屍竜の首を一体、二太刀で落とした。ロイが氷塊で一体の脚を砕き、シルガが短刀で喉を抉った。最後の一体が瘴気の霧を吐いた瞬間、リオンは掌を突き出す。

「——浄めの光」

本来なら、呪文の起こりまで半拍の間がある。けれど今夜、彼の指先は、かつてないほど滑らかに光を織った。瘴気は霧散し、屍竜は頭蓋を晒して崩れ落ちた。

「……おい」

ガイが、剣の腹で肩を叩きながら振り返る。顎の下の皮膚に、戦闘で付いた擦り傷が一筋走っていた。

「今の、速かったな。お前、そんなに詠唱短かったか?」

「……分かりません」

「まあ、ぬるいことに変わりはないけどな」

ガイは鼻で笑い、屍竜の死骸に唾を吐いた。ロイとシルガが、顔を見合わせて小さく肩を揺らす。あの、昨夜の火の向こうで揃った一拍と、同じ呼吸だった。

リオンはその視線をやり過ごし、屍竜の骸に歩み寄った。甲殻の継ぎ目に、まだ瘴気の残滓が残っている。放置すれば、階層全体の呪毒濃度を上げる。彼は膝を折り、掌を当て、光を散らした。残滓は静かに消えた。

振り返ると、祭壇の盤の縁に、エルザが立っていた。銀髪が、盤の黒に映えて、鋭い線を描く。彼女は背を向け、盤の奥の、低く続く回廊を見つめていた。回廊の奥は暗く、松明の光が届かない。

「ねえ」

エルザは振り向かず、言った。

「少し、先を見てくるわ」

「単独行動は——」

リオンが言いかけると、ガイが手首で遮った。

「放っておけ。聖女様の気まぐれだろ」

「でも、祭壇の奥は」

「あんたが心配する立場か?」

ロイの声が、低く刺す。シルガが、舌打ちの真似をして笑った。

エルザは既に、回廊の闇へ歩み入っていた。ローブの裾が、角を曲がって消える。その折り目が、松明の最後の光に触れて、微かに色を変えた気がした。

リオンは、袋の肩紐を握り直した。爪の付け根の痺れが、骨の中で脈を打っている。昨夜、エルザの首筋で触れた二重の刻印。表層の呪詛と、内側の観察符。誰かが、自分を測っている。——その感触が、今、祭壇の奥から、はっきりと引いていた。

「少し、聖水を届けてきます」

言い終える前に、リオンの足は回廊へ動いていた。ガイの「おい」という声が、背中で弾けて、石壁に吸われた。

回廊は、十歩で曲がり、曲がった先でまた闇を深めた。

リオンは松明を持たなかった。持てば、光が彼女に届いてしまう。代わりに、掌の光を、指の腹ひとつぶんだけ灯した。その光で、足元だけを拾う。指先の光は、蛍火よりも弱く、石の継ぎ目に滲む水膜の一粒一粒を、かろうじて浮かせる程度だった。呼吸を細く、細く、喉の奥で殺す。自分の鼓動が、耳の裏で、石壁に反響して戻ってくる気がした。瘴気が、肺の底で、冷えた油のように粘る。

三つ目の角を曲がったところで、足が止まった。

小さな祭室だった。天井の継ぎ目から、呪毒の滴が、規則正しい間隔で落ちている。その中央に、エルザが立っていた。ローブの左袖を、肘まで捲り上げている。剥き出しの白い腕が、滴の落ちる音の下で、ひときわ鋭く見えた。

彼女の右手に、短剣があった。

刃は、昨夜の月明かりではなく、祭室に満ちる瘴気の青で濡れていた。エルザは、その切っ先を、自分の左腕の内側に当てた。皮膚の薄い、血管の浮く場所。ためらいはなかった。短剣が沈む。白い腕に、一条の赤が走った。

リオンは、息を吸うことを忘れた。

血は、真下へ落ちるのではなく、一瞬、刃に沿って螺旋を描いてから床へ落ちた。床の石が、その血を吸った。吸った箇所が、じわり、と黒く染まり、呪毒の文様の形を取った。昨夜、彼女の首筋で触れた、二重の刻印。その内側に織り込まれていた、観察符。それと同じ線が、今、床の上で、閉じていく。線は生き物のように、石の目を辿り、継ぎ目を渡り、彼女の足元で円環を完成させた。見覚えのある、あの、観察符の内側に仕込まれた、もう一つの層——契約符、と名を呼ぶのを、リオンはかろうじて堪えた。堪えたのに、喉の奥で、名前の最初の音が、勝手に形を取りかけた。

「——」

声にならなかった。ただ、革袋の肩紐を握る指が、革を軋ませた。

エルザが、顔を上げた。

視線が、真っ直ぐ、リオンの立つ角に当たった。迷いのない目線だった。彼女は、最初から、そこに誰かが来ることを知っていた。

「見たわね」

低い声だった。けれど、震えていなかった。

「ねえ、リオン」

エルザは、短剣を、血の流れる腕の内側から、ゆっくり引き抜いた。切っ先の先に、赤い雫が、丸い形を作って、溜まる。

「あなた、昔から聞かない子よね。私が一人で動きたいときに、必ず追ってくる」

「……エルザ、その傷——」

「治さないで」

彼女は、笑った。唇の端だけで、頬は動かさない笑い方だった。両目は、笑っていなかった。瞳の奥で、あの、昨夜の天幕で見た熾火の黒が、今度は、はっきりと立ち上がっていた。その黒は、瞳孔の底から、ゆっくりと、彼女の意思の輪郭をなぞるように、広がっていく。幼馴染の、と、リオンの舌の裏で、自分を戒める言葉が、三度、転がり落ちた。幼馴染の、エルザ。孤児院の井戸端で、泥だらけの膝を彼に見せて笑った、あの子。——今、目の前で血を流しているこの女が、本当にあの子だったのか、確かめる術を、彼はもう持っていなかった。

「触らないで。治したら、困るの」

「困る?」

「ええ。この傷は、このまま、持って帰るの」

リオンの背筋を、井戸水より冷たいものが走り降りた。指先の痺れが、一瞬で、手首まで凍る。脳の奥で、昨夜の町の母親の声が蘇る。『鑑定不可、というのは、加護がないということではないのか』。ヘイヴランの路地、粉の匂い、子供の笑い声。すべてが、この祭室の滴の音の下で、妙に遠かった。

「エルザ……なぜ」

「さあ、なぜかしらね」

エルザは、短剣の切っ先についた血を、自分の指先で拭い、その指を軽く舐めた。舌先が一瞬、薄赤くなって、すぐに引いた。

「あなた、知らなくていいの。知らないままの顔で、帰ってくれれば、それで済むのに」

「……済む?」

「でも、もう遅いわね」

足を一歩、彼女は踏み出した。ローブの裾が、床の血を、掠めた。昨夜、自分が縫い直した折り目が、彼女の血で、薄く染まっていく。

「見たな、リオン」

もう一度、彼女は繰り返した。今度は、問いの形ではなかった。

「見てしまったら、もう、後戻りはできない」

そして、彼女は、ローブの袖を、捲り上げたまま、肘の内側に、もう一度、短剣を走らせた。二筋目。皮膚が開き、血が、ゆっくりと、彼女の手首を伝い、祭室の床に、新しい文様を描きはじめた。その線は、一筋目の円環の外側を、ちょうど一回り広く取り巻いて、閉じていった。二重の、入れ子の紋。昨夜、彼女の首筋で触れた、あの二重の刻印と、寸分違わぬ構造だった。——つまり、彼女は、自分の身体そのものを、あの刻印の器として、書き換え続けている。その意味に、リオンは遅れて気づき、気づいた瞬間、足の裏の石が、一段、沈んだ気がした。

リオンは動けなかった。

掌の光が、指の腹から、静かに消えた。消えたあとに残ったのは、爪の付け根の、凍えた痺れだけだった。

エルザは、短剣を床に落とした。金属の音が、滴の音に混じって、遠く鳴る。彼女は、両腕から流れる血を、ローブで拭おうともしなかった。

「みんなを、呼んできて」

彼女は、微笑んだ。

「『リオンに斬られた』って、泣けばいいのね。ずっと、そう練習してきたの」

リオンは、一歩、下がった。回廊の石が、踵を押し返す。

背後の、祭壇の間の方から、ガイの笑い声が、聞こえた気がした。ロイとシルガの、昨夜の火の向こうと同じ呼吸の、あの一拍揃った笑いだった。

——別に構わない。

いつもの、自分への言い聞かせが、今夜は、出てこなかった。

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