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加護なしと呼ばれた白き癒し手

第2話 第2話

第2話

第2話

馬車の車輪が、轍の凍った土を砕いて進む。冷気が幌の隙間から忍び込み、リオンの頬を撫でた。膝の上で、掌を握っては開く。指先の痺れは、ヘイヴランを発って半刻経っても消えていなかった。痺れは手首から肘へ、ゆっくりと這い上がるような、淡く冷たい脈動だった。治癒の術を掛けるたびに覚える、あの熱の残滓とは違う。もっと外から、誰かの指でなぞられているような感触。リオンは呼吸を浅くして、その感覚を飼い慣らそうとした。

「おい、治癒師」

幌の外から、ガイの声が降ってくる。

「次の野営地で、俺の剣の脂ふきを頼む。今日は腕を振ったからな、休ませたい」

「……分かりました」

剣を振ったのは昨日、第六階層で腐喰の蟲を三匹斬っただけだ。今日は馬車に揺られているだけの彼が、なぜ腕を休ませる必要があるのか。リオンは問わなかった。問うて得るものが、これまで何もなかったからだ。問えば返ってくるのは舌打ちか、拳骨か、あるいは「口答えするのか」という低い笑いだけ。言葉は、消費されるために存在する。そう学んでから、もう長い。

野営地は、谷を見下ろす低い丘の背にあった。松脂の匂いが濃い林の縁で、枯れ枝を踏む音が乾いて鳴る。谷の底から吹き上がる風は、湿った土と遠い雪の気配を含んでいた。リオンは真っ先に降り、幌を片手で押さえて皆を降ろした。エルザが裾をつまみ、地面に触れないように足先で小さく跳ねる。

「遅いわよ。手を貸しなさい」

「失礼しました」

差し出した手の甲に、エルザの爪が僅かに食い込んだ。彼女の指先には、昨日までなかった細い傷があった。皮膚の薄い部分に、線を引いたような、浅く滑らかな切創。刃物でも棘でもない、別の何かで付けられた痕のように見えた。リオンは目を伏せる。触れればすぐに治る傷だ。けれど、彼女が自分に治させることは、もう何年もない。

「テントを張って、湯を沸かして、干し肉を炙って。それから私のローブの裾、直してくれた?」

「これから縫います」

「『これから』じゃないのよ。聖女を待たせるの?」

返事はしない。リオンは荷台へ回り、テントの支柱を三本抱えた。肩に喰い込む木の重みは、もう慣れた感触だった。木肌のささくれが首筋を掠め、薄く血が滲む。それも、もう慣れた。

竈の火をおこし、湯を沸かし、干し肉を炙り、麦粥を煮る。その間に、エルザのローブの裾、シルガの革帯、ロイの焼け焦げたローブの袖——縫い物が三つ重なる。針を持つ指先が、時折かすかに震えた。痺れのせいだ、とリオンは自分に言い聞かせた。寒さのせいでもある。それ以外の理由であってほしくなかった。

「リオン、こっちにも塩水頼む」

ガイが、熊革の上にどっかりと腰を下ろし、腿の傷を顎で示した。昨夜リオンが塞いだ腐喰の傷だ。すでに痕ひとつ残っていない。

「そこは、もう塞がっています」

「馬鹿野郎、ここに疼きがあるって言ってんだろ。お前の下手な治癒のせいだ。もう一度、ちゃんと触れ」

リオンは黙って膝をつき、既に綺麗な皮膚に指先を当てた。疼きなど、あるはずがない。だが彼は数秒、そのまま手を置いていた。ガイの腿の肌は、火照りもなく、脈も平坦だった。そこに在るのは、ただ健康な筋肉の張りだけだ。それでもリオンは、僅かな光を指先に灯し、空中に術式を散らす。治癒の気配だけを纏わせた、空の所作だった。ガイが「おお、効いてきた」と満足げに呻く声を、火の爆ぜる音が紛らわせた。

竈の向こうで、魔導師ロイが麦粥の椀を覗き込む。

「また麦かよ。もっと上等な具を入れろ。お前、料理すら半端なのか」

「乾燥野菜はこの分量だけで」

「買ってこい」

「次の町まで、三日あります」

「三日分走って来い」

冗談なのか本気なのか、分からない。分からないことが、この三年で増えた。最初の頃は、冗談には笑い、本気には謝った。今は、どちらにも同じ角度で頭を下げる。それが一番、波立たない。

盗賊のシルガが、遠くで薪を割る真似をしながら笑う。

「聞いた、聞いた? 走って買い出し。いいじゃない、あんたの足、治癒師でしょ? 疲れないんでしょ?」

「疲れますよ」

「あっそ。治せるくせに疲れるんだ? へーえ」

四方から、軽い笑いが上がった。その笑いは、火の粉のように軽く、けれど焦げた匂いを残して消えていく。リオンは椀によそった粥を黙って差し出す。湯気の先に、エルザが座り、金属の匙で一口すすった。

「……ぬるい」

椀を、彼女は足元の土に置いた。麦粥がこぼれ、冬枯れの草にゆっくりと染み込んでいく。乳白色の液体が、霜の残る土に筋を引いて消える様を、リオンは視界の端で追った。あれを煮るのに、薪を二度足した。湯を沸かすのに、谷から水を二往復運んだ。その全部が、今、土に吸われていく。

「ぬるいって、言ったでしょう。治癒も、料理も、全部ぬるいの。加護なしって、こういうことなのね」

加護なし。

リオンの指先が、一瞬だけ止まった。十二歳の、村の教会。鑑定石の光が落ちた音。司祭の羽ペンが躊躇った先端。冷えた石床の感触と、母の背中の震え。——ヘイヴランの母親の囁きが、そこへ重なる。

『鑑定不可、というのは、加護がないということではないのか』

町の民だけが、自分の治癒の跡を覚えている。仲間は、誰一人。幾度塞いだ傷も、幾度引いた熱も、彼らの中では「ぬるい治癒」か「下手な治癒」としてしか残らない。覚えられないのではない。覚えない、と決められている。

胸の底で何かが鎌首をもたげかけ、リオンは深く息を吐いてそれを鎮めた。肺の奥を冷気が刺す。吐く白い息が、火の熱に触れて儚く崩れた。

——別に構わない。

言い聞かせる。これまでと同じだ。母の言葉を、三百十三回目として積み直す。治せるものを、治す。それだけだ。数える。三百十三。三百十四。数えている間は、胸の中の何かは首を下ろしてくれる。

食事が終わる頃、エルザが立ち上がり、皆を見回した。

「明日、第七階層の最深部まで降りるわよ」

干し肉を噛んでいたガイの奥歯が、音を止めた。ロイが椀を置き、シルガは爪を立てた薪の表面から、ゆっくりと目を上げる。四人の動きが、ほんの一拍、同じ拍子で止まった。打ち合わせていなければ揃わないような、静かな一拍だった。

「——最深部?」

リオンは、思わず聞き返した。

「『淀みの祭壇』まで、ですか」

「そう。今度こそ、けりをつけるの。依頼主が上乗せをしてきたし、そろそろ『蒼穹の剣』の名を一段上げる頃合い」

祭壇。第七階層の最深、呪毒の瘴気が最も濃く溜まる場所。普段なら第六で切り上げる彼らが、敢えて最深部へ。リオンは記憶を辿った。過去三年、この遠征は二度、計画されて、二度とも直前に見送られている。二度とも、前夜にエルザが「装備が足りない」と言って取りやめにした。今夜は、そんな言葉が一度も出てこない。

「装備の準備は、今夜中に。治癒師、解毒薬の仕込みと、聖水の補充を頼むわよ」

「……了解しました」

「ああ、それからね」

エルザは、歯を見せて笑った。赤い唇の端が、わずかに跳ね上がる。火の光が、彼女の瞳の奥で、蝋燭の芯のように細く立ち上がった。

「明日は、あんたにも働いてもらうから。いつもみたいに後ろで見ているだけじゃなくて、ちゃんと前に出なさい」

ガイが、ロイと視線を交わした。シルガが、喉の奥で、鼻を鳴らすような短い笑いを漏らす。四人の瞳の中で、火の光が別々の色を取った。赤、橙、琥珀、——そして一番奥に、熾火のような黒。

リオンは気づかないふりをした。気づかないふりをするのが、もう自分の役目のように馴染んでいた。視線を逸らすのではない。視線はそこに置いたまま、内側だけを閉じる。そういう目の使い方を、彼は覚えていた。

ただ、指先の痺れが、昨夜よりも強くなっていた。エルザの首筋で拭った、あの二重の刻印。表層の呪詛の下に織り込まれた、観察符。誰かが、自分を、測っている。その感触が、確かに、背骨の奥で脈を打っていた。脈は、火の爆ぜる間隔とも、自分の心拍とも違う、もっと遅い、水の底で鳴るような律動だった。

「ねえ、リオン」

エルザが、椀を置いた土の前にかがみ、足先で粥の染みを均した。

「あんた、私の荷、ちゃんと運んでくれるわよね。明日、深部で」

「運びます」

「——良い子」

彼女は立ち上がり、天幕の方へ歩いていった。裾が、昨夜リオンが縫い直したばかりの折り目のまま、夜風に揺れた。その折り目を縫ったとき、針先が指に刺さって血が滲んだことを、エルザは知らない。知らないまま、あの布は彼女の足首を撫でている。

夜更け、リオンは一人で解毒薬の小瓶を並べた。

聖水二十本、腐喰解毒剤十二本、痺れ除け八本。第七階層最深部で、全員分の呪毒を浄化することになった場合の、最低量だ。数え終え、火の灯りで瓶の底を覗く。琥珀色の液面に、自分の顔が歪んで映った。頬骨の影が濃く、目の下の窪みが、いつもより深く見えた。あれは自分の顔だろうか。映しているのは琥珀の歪みか、それとも、もっと別の何かか。

天幕からは、四人の低い話し声が漏れていた。笑いが、時折、抑え損ねたように跳ねる。声の質が、昼の嘲りと違っていた。もっと密な、もっと近い、共謀の音域。リオンは瓶を置き、手元に視線を戻した。

明日、最深部。

掌を見る。爪の付け根の痺れは、濃くなっていた。誰かが、自分を測っている。——あるいは、こちらの力を使うために、下地を整えている。指先に灯そうとした微かな光は、前よりほんの僅か、立ち上がりが遅い。まるで、外側から粘い膜を一枚かぶせられているような。

考えかけて、彼はそれを打ち切った。考えたところで、今夜この場で検められることは何一つない。検めるには、あの祭壇まで降りるしかないのだ、とどこかで分かっていた。

荷物袋に聖水の瓶を詰め、革紐で口を縛る。袋の口が絞まる乾いた音が、夜の底で短く鳴った。

明日の朝、自分はこの袋を背負って、あの深部へ降りる。

それだけだ。

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