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加護なしと呼ばれた白き癒し手

第1話 第1話

第1話

第1話

焚き火の灰と、十二人分の呪毒が混じる夜の匂い。リオンは野営地の端で膝を折り、眠る仲間ひとりずつの胸元に手をかざした。

毛布の下、剣士ガイの首筋に黒い斑が浮いている。第七階梯ダンジョンで受けた腐喰の毒だ。リオンが指先を押し当てると、斑は薄い湯気となって霧散した。三百十二回。この三年で、彼はこの作業を三百十二回繰り返してきた。

「……次」

声は出さない。隣で寝返りを打った魔導師ロイの肩、爪の根に滲む紫斑を拭う。盗賊シルガの腿に巻かれた包帯をめくり、生肉の傷口に触れる。掌の下で皮膚が静かに塞がっていく。鼻先に血と硫黄の臭いが昇り、それも数秒で消えた。

最後は、テントの中央で眠る聖女エルザだった。月明かりが銀髪に滑り、睫毛の影で、首筋に走った細い裂傷が震えている。昼間の戦闘で受けた、本人ですら気づいていない呪詛の刻印。リオンは指の腹を当て、息を止めた。

刻印は二重に走っていた。表層の呪詛の下に、もう一筋、見覚えのない文様が薄く編み込まれている。──観察符のようにも見える。リオンは眉根を寄せ、けれど深く考えなかった。掌に集中を移し、両方の文様をまとめて消した。

加護なし、と鑑定書には書かれている。十二歳のとき、村の教会で告げられた。

だから、これは奇跡でもなんでもない。ただ自分にできる、回復魔法の真似事だ。

そう言い聞かせ、彼は毛布をそっと整え直した。

東の空がほんの少し白む。テントを抜け、井戸まで歩く。皮膚にこびりついた他人の毒の感触を洗い落とすのは、いつもこの時間だ。冬の水は手の甲を刺し、爪の付け根を痺れさせた。

「ぬるいわよ」

背後から声が降ってきたのは、リオンが顔を上げた瞬間だった。

ローブの裾を引きずりながら、エルザが井戸端に歩み寄る。リオンより半歩高い位置に立つ場所を、彼女は無意識に選ぶ。

「ぬるい、って言ったの。あんたの治癒」

「……すみません」

リオンは桶を置き、頭を下げた。

「昨日のガイの傷、塞がるのが遅かった。あんたが下手なせいで、彼は今朝も顔色が悪い」

ガイの傷が塞がるのが遅かったのは、リオンが触れる前の話だ。触れたあとは、毒も刻印も全部消えている。だが彼はそれを言わない。言える立場ではない。

エルザは桶の縁を爪先で叩いた。薄紅に磨かれた爪先は、戦士の指のものではなかった。

「私の治癒だったら、瞬きの間に終わるの。蒼穹の剣の聖女として、足を引っ張る回復役は要らないって、いつも言ってるでしょ」

「はい」

「物資の積み込み、忘れないでね。御者に粉茶の追加も伝えて。私のローブ、裾が破れてるから縫っておいて」

返事を待たずに、彼女は天幕へ戻った。残された井戸端で、リオンは顔を洗う動作を再開する。指先がまだ痺れている。掌に、エルザの首筋に触れたときの観察符の感触が、薄く残っていた。

朝の野営は、いつもどおりに動き始めた。ガイが大あくびをしてテントから出てきて、リオンと目が合うなり鼻で笑う。

「おい、回復役。俺の朝飯はまだか」

「すぐに」

「お前みたいな半端者が、よくS級パーティに残れたよな。エルザ様の慈悲に感謝しろよ」

「……はい」

ガイの肩には、昨夜リオンが拭った腐喰の毒の痕が、もう黒い染みひとつ残っていない。けれど、当人にも、その朝の鏡にも、それは見えない。

──別に構わない。これは自分が決めたことだ。

リオンは竈の火を起こしながら、頭の隅でそう繰り返した。村を出るとき、母が言った。「お前は治してやれることを、ちゃんと治してやりなさい」。それだけだ。誰に評価されるかは、二の次でいい。

野営をたたみ、馬車を出す。次の補給地、辺境寄りの宿場町ヘイヴランまでは半日の道のりだった。

ヘイヴランの城門をくぐると、子供たちが土埃の中で駆けてきた。

石畳の継ぎ目から立ちのぼる埃が、朝日に斜めに透ける。軒先に吊るされた赤蕪の束が、風にぶつかり合って乾いた音を立てていた。町の匂いは、薪と羊の乳と、どこかの竃で焼いている黒パンの、こがし気味の甘さだった。

「治癒師さま!」

「治癒師さま、来てくれた!」

「ほら、あたしの指!こないだ切ったとこ、ほんとに消えてるよ!」

小さな掌が、馬車から降りたリオンの腰に纏わりつく。髪に藁屑をつけた女の子、鼻水を垂らした双子、片目に眼帯を巻いた痩せた男の子。どの顔も、リオンを見上げて、真っ先に安堵のかたちに崩れる。先頭の少年は片足を引きずっていて、リオンを見るなり泣き顔になった。

「先月、足の腱を切ったの。ぬか床の蓋を落として……お母さんが、もう走れないだろうって」

リオンは少年の足を見て、すぐに膝を折った。土の上に直に膝をつくと、冬枯れの草の折れる感触が、膝頭に伝わった。少年のふくらはぎは、子供らしからぬ青白さで、瘢痕の縁が引き攣れている。指先を当てると、皮膚の下で凍えていた血の流れが、ゆっくりと温度を取り戻していくのが分かった。

「すぐ済むよ。脚を伸ばして」

触れると、少年の脹脛で何かがほどけた音がした。細い糸が、ぷつり、ぷつりと順に緩んでいくような、粘り気のある感触。少年は目を瞠り、立ち上がり、走り出し、転び、笑った。笑った拍子に、鼻の頭から涙が一粒、土に落ちた。周りの子供たちが歓声を上げて、走る少年を追いかけていく。母親らしい女が井戸の方から駆け寄り、リオンの前で膝を折った。エプロンには粉が付き、指の節は荒れていた。

「あなたが触れた傷は、二度と開かないと、町でみな申してます」

「いや、これくらいは」

「先月、裏の老ジャックの背骨をくっつけてくださったでしょう。あれから一度も寝込んでいません。あなたが残した加護は、消えないんです」

リオンは曖昧に笑い、立ち上がろうとした。膝についた土を払う手が、少しだけ迷った。加護、という言葉が、耳の奥で小さく反響していた。喉の奥がひりつく。自分には縁のない言葉のはずだった。

そのとき、少年の母が囁き声を落とした。声が急に細くなり、まわりの耳を避けるように、顔が近づく。眉の間に、細い縦皺が寄っていた。女の口元から漏れる吐息は、朝の冷えた空気の中で白く濁り、リオンの頬に、微かな粉の匂いを運んだ。

「治癒師さま。あの聖女様には、気をつけて」

「……なぜ?」

「うちの人が、酒場で聞いたんです。昨夜、聖女様が司祭さまに尋ねたって。『鑑定不可、というのは、加護がないということではないのか』と」

リオンの指先が止まった。母親の顔の向こう、市場の方から、鍛冶の槌音が二回、乾いて響いた。その音の合間に、自分の喉が鳴る音が、妙にはっきり聞こえた。背筋を、井戸の水よりも冷たいものが、つう、と滑り落ちていく。

鑑定不可。十二歳のとき、自分が告げられたのは「加護なし」だ。けれど、村の教会に置かれた鑑定石は、他の子供の前ではあれほど明るく光ったのに、自分の番になった瞬間、灯りが落ちた。司祭は「故障だな」と笑い、「加護なしで処理する」と書類に書いた。書類に羽ペンが走る音を、今でもときどき思い出す。あのときの羽ペンの先が、書類の上で一瞬だけ躊躇った気がしたのを、自分はずっと気のせいだと思っていた。

あの夜から、何度かその違和感は胸の底で動いていた。

「ありがとう」

リオンはそれだけ言って、馬車に戻った。荷台の縁に肘をかけ、空を見る。冬の薄い雲が、糸を引いて流れていた。

掌に残った観察符の感触が、まだ消えていない。

誰かが、自分を、見ていた。あるいは、こちらを「測っていた」。

馬車の幌の隙間から、エルザが御者と話す声が聞こえた。

「……ダンジョンの最深部、明日にでも降りるわよ。今度こそ、けりをつけるの」

御者の小声が応じる。リオンには内容まで聞き取れない。ただ、エルザの語尾が、いつもより少しだけ、弾んでいた。

リオンは荷台の床に背を預け、目を閉じた。

あの聖女様には、気をつけて。

町人の言葉が、車輪の軋みに混ざって、頭の奥でずっと回っていた。

明日、最深部。

馬車が動き出す。蹄が踏む轍は、辺境の山脈方面へ続いていた。膝の上の荷物袋を抱え直し、掌を見つめる。爪の付け根に、まだ痺れが残っている。

──別に構わない。

これまでと同じだ。仲間が眠る夜に、ひとりで毒を抜く。明日もそうするだけだ。

荷台の幌の影で、彼は気づいていなかった。

天幕の方角でエルザが懐から短剣を取り出し、その刃を月明かりに翳して、薄く笑ったことに。

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