第3話
第3話
迎えの足音は、鐘の二撃目で来た。
火刑。偽聖女の烙印。柱の陰で聞いた言葉が、セレスティアの膝の裏にまだ張り付いている。地下から石段を登るあいだ、彼女は一度も顔を上げなかった。祭服の裾は血と石の粉でざらつき、足裏は皮が剥けて肉が覗いていたが、歩幅は乱れなかった。指先の熱だけが、掌の内で静かに呼吸していた。
「――聖女様。こちらではございません」
先導の神官が、聖堂への扉を通り過ぎた。
通路が、日の沈む側へ折れる。回廊の突き当たりから、聞いたことのない音が押し寄せてきた。人の息の塊。踏みしめられる土。抑えた笑いと、抑えきれない笑い。重い扉を神官が押し開けた瞬間、赤い光が彼女の眼球を刺した。
王宮前の大広場である。
石畳の中央に、祭壇の代わりとして組まれた木の壇。その三方を、松明の列が囲んでいた。赤々と燃える炎の熱が、夕暮れの冷気を歪ませる。壇の四隅には、祭祀に不要な量の薪が積まれていた。柱の陰で若い神官が言っていた「倍」は、控えめな言い方だった。
民衆が、数千。
貴族は壇に近い回廊の下から。商家は中ほどから。農夫や職人は、広場の端の土の上から。誰もがセレスティアの登場に気づき、誰もが笑い方を決めかねていた。嘲るべきか、憐れむべきか、それとも唾を吐くべきか。
壇の上、玉座のような椅子に、アルベルトが脚を組んで座っていた。
隣には、昼とは別の祭服をまとったミレイア。白絹に、金糸の刺繍。頭には、本来、即位式まで下ろされないはずの聖花の冠が、もう載っている。
扇の骨が、空で閉じる音を立てた。
「――来たか、偽者」
声は、広場の端まで聞こえるよう張られていた。
セレスティアは壇の下で膝を折ろうとした。神官が左右から腕を掴み、膝を折らせず、壇に引き上げた。薪の熱が、祭服の布越しに皮膚を炙った。
「民よ、よく見よ」
アルベルトが立ち上がり、扇を広場に向けて振り下ろした。
「この女は七年、神殿の地下で結界を張ると偽り、血の祈祷を民に買わせてきた。真の神託はすでに十年前、ウェスタロット家のミレイアに降りていた。――この女は、我が国の税を飲み、我が王家の婚約を纏い、真の聖女の芽を地下に封じてきた、偽聖女である」
嘘だ、とは誰も知らない。
セレスティアはそれを、七年かけて理解していた。神殿の古い記録庫で、聖女の交替儀礼の項を独学で読んでいる。真の交替には、血の継承と、現聖女の承認が要る。それを飛ばすためには、現聖女を「偽」にするしかない。
民衆のあいだから、どよめきが起きた。
「――なんということだ」 「偽聖女だったか」 「道理で、去年の麦が不作だったわけだ」
どの声も、嘘を疑っていない。疑う余裕のある者だけが、扇の下に立つセレスティアの、擦り切れた祭服と、素足の血を見ていた。見て、そっと目を伏せた。
アルベルトは扇で、ミレイアを指した。
「真の聖女は、ここにおわす。ミレイア・ウェスタロット。本日をもって、我が婚約者とし、建国祭の夜より浄化を授ける」
ミレイアは伏し目がちに会釈した。頬に差した紅が、松明の赤で溶け合って、柔らかく見えた。
扇の先が、再びセレスティアに戻ってきた。
「セレスティア・ロイエンヘルツ」
姓で呼ばれるのは、十二で神殿に召し上げられて以来、初めてだった。姓は、返却の合図だ。
「本日をもって、其方との婚約を破棄する」
広場の一角で、貴婦人の一人が小さく悲鳴を上げた。悲鳴の形は、同情ではなく、歓喜のそれだった。
「加えて、偽聖女として民を欺いた罪により――王国からの追放を命ずる」
鎖が、軋んだ。
今度は、胸の中の鎖ではなかった。壇の左右から神官が二人、本物の鎖を引いて歩み出た。けれどアルベルトは首を振った。
「鎖は不要だ。――この女に、王国の鉄は勿体ない」
笑いが、民衆の端から起こった。
「祭服のまま、門の外へ放れ。武器、金子、履き物、一切与えるな。――偽聖女には、偽聖女の出立が相応しい」
神官が頷き、扇の先がセレスティアの胸を押した。
胸というより、心臓のあった場所、と言うべきだったかもしれない。そこは既に冷えていて、扇の骨が触れても脈を返さなかった。七年、血を絞り続けた肉は、今夜、絞るものを持たない。
「――何か、申し開きはあるか?」
アルベルトが、初めて問うた。
答えを求めた問いではない。民の前で、偽聖女が泣き崩れ、言い訳を吐く姿を見せるための、演目の台詞だった。
セレスティアは、顔を上げた。
松明の赤を、瞳に映さなかった。映すだけの潤いが、眼球に残っていなかったからだ。口を開いたが、声は出さなかった。七年間、祈祷で磨り減った喉は、この瞬間のために一音も残していない。ただ、唇の端が、かすかに動いた。
「……ご随意に」
それだけだった。
ざわめきが一瞬、凍った。言い訳を、泣き崩れを、悲鳴を予期していた広場は、聖女の四字にならない四字に、何を反応していいか分からなくなった。
アルベルトの頬が、引き攣った。扇が空を切り、彼女の肩を打った。
「連れて行け」
神官の手が、腕を掴んだ。
王都の西門は、建国祭の夜のみ、民に開かれる。
扉の両脇で衛兵が二人、松明を掲げていた。神官は門の敷居までセレスティアを引きずり、外へ突き出した。祭服の背中に、誰かの靴底の泥が残った。
敷居の外側へ、素足が踏み出した瞬間、雨が降り始めた。
七年ぶりの、空の下だった。
最初の一滴は、眉間に落ちた。二滴目は、鎖骨の窪み。三滴目は、祭服の襟の縫い目に吸われ、肩甲骨を冷やした。それから先は、数えられる雨ではなくなった。石畳の白が、黒く滲んでいく。
振り返らない、と決めていた。
決めていた、わけではない。振り返れば扇が飛んでくると、七年の身体が知っていた。ただ、それだけだった。
背後で門が閉まる音。閂が落ちる音。歓声とも嘆息ともつかない民衆のうねり。
門の外には、石畳の続きは無かった。
轍で抉れた土の道が、ただ、西へ延びていた。道の両脇は、秋の終わりに刈り取られた麦の根株。その先は、名もない枯野である。王都の街明かりが、雨に溶けて背後で滲み、三歩歩くごとに一段、光が遠のいた。
足裏の皮は、もう剥け切っていた。
踏み出すたび、肉が土を掴む。小石が食い込み、枯れた麦の茎が土踏まずに棘を立てる。痛みは、七年の青痣の下で、不思議とどこか他人事のようだった。指先の熱だけが、今も掌の内に残っている。雨に打たれた肌の上で、そこだけが別の温度を保っていた。
五十歩、歩いた。
歩いた、と本人は思ったが、後で振り返れば、三十歩にも満たなかったのかもしれない。膝が折れた。泥の水たまりに、膝から倒れた。祭服の裾が水を吸い、二倍の重さになって足首に纏わりついた。
口の端から、また鉄が垂れた。今朝の地下で吐いたものとは違う。もっと薄い、疲れた血だった。それは雨に洗われ、泥と混ざり、枯れた麦の根のすぐ脇に流れ込んだ。
七年間、祭壇の石にしか吸われてこなかった血が、初めて、土に還った。
指先が、動いた。
意思ではなかった。指が、勝手に、泥に差し込まれた。爪の間に、冷たい土が詰まる。その奥で、麦の根の残骸が、干からびた繊維のまま、指先を刺した。
――緑を、と。
願ったわけではない。昨夜、石の苔を緑に戻したあの感覚が、指の腹で一瞬、息をした。ただ、それだけだった。
泥の中で、何かが、膨らんだ。
指先を引き抜くと、土の表面が、わずかに盛り上がっている。雨が、その盛り上がりを叩く。叩くたびに、土の下で、何かが押し上げてくる。白い芽が、土を割った。細い、針のような茎が、一呼吸で二寸伸びた。
花びらの形が、整う。
五枚。先端に向かって、薄い薄紅。中央は、ほとんど白。名を持たない花だった。神殿の祭壇に活けられる薔薇でも、野に咲くクローバーでもない。ただ、セレスティアの血と、泥と、雨が出会った場所に、一輪だけ、咲いた。
セレスティアは、花を摘まなかった。
摘む指の力も、もう残っていなかった。ただ、雨の中で、その一輪を見下ろした。花は、雨に打たれても倒れず、細い茎で真っ直ぐに立ち続けていた。七年、彼女自身が、できなかったことだった。
「……もう、祈らなくていい」
口の中で、そう呟いた気がした。
呟いたのは、神にか、自分にか、判然としない。ただ、その一言を発した瞬間、胸の奥で、鎖のようなものが一つ、ぷつりと切れる音がした。七年間、鼓動のたびに軋んできた何かが、ついに切れた音だった。
指先の熱が、掌の全体に広がり、さらに腕を登っていく。肩、鎖骨、喉、――ついに額の中央にまで到達したとき、セレスティアはゆっくりと立ち上がった。
西の地平線の向こうに、黒い森の輪郭があった。
王国の地図で、「北西の封禁林」と呼ばれる区域である。踏み入った者は帰らぬとされ、神殿の結界も、あの森までは届かない。――届かない、とされている。
雨脚が、一段強まった。
背後の王都の光は、もう点に近い。セレスティアは、一度も振り返らず、枯野に足を踏み出した。足の下で、もう一輪、白い芽が、土を割る気配がした。
次の一歩で、また一輪。
その次で、二輪。
セレスティア自身は、気づいていない。