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血塗れの聖女は竜帝の腕で微笑む

第2話 第2話

第2話

第2話

石段の冷たさが、足裏の皮を通して膝まで這い上がった。

神殿の東回廊。セレスティアは素足に祭服の裾を引きずり、建国祭のための大聖堂へと歩いていた。十歩先を行く先導の神官は、一度も振り返らない。磨き上げられた大理石の床に、年若い神官の新品の革靴が軽く鳴る。その隣に、聖女の素足が残した湿った跡が点々と続いた。膝の青痣が祭服の内側で擦れ、歩幅ひとつごとに鈍い痛みが骨を噛む。

「……失礼、いたします」

擦れ違った見習いの少女が、セレスティアを避けて壁際に身を寄せた。祭祀の花籠を抱え直し、顔を背ける。その頬に、薄く刷毛を入れた紅。祭礼用の白粉。七年、自分には許されなかった化粧の匂いが、朝の冷気に紛れて鼻腔を刺した。

回廊の先から、女たちの笑い声が聞こえた。

聞いたことのない笑い方だった。神殿の女たちは、聖女の前では口許を引き結ぶ。しかし今朝は違う。少女めいた、けれども少し気取った、仕込まれた笑い。祭壇の奥から零れている。セレスティアは足を止めそうになり、先導の背を追った。指先には、昨夜の微かな熱がまだ残っている。掌の中で、その温度だけが、自分のものだった。

大聖堂の扉が開いた。

朝日が、ステンドグラスの赤と青を通して石床に落ちている。その光の帯の中央に、見知らぬ少女が立っていた。

白絹の祭服。丁寧に結い上げられた亜麻色の髪。頬はふくよかで、肌は陶器の白。足元には新品の銀糸の沓。その少女は、祭壇の前で神官たちに囲まれ、像の位置を合わせるように、光の中を歩き慣らされていた。

「――もう少し、右へ。そうです、ミレイア様。その角度で、民からの祈祷をお受けくださいませ」

ミレイア。

その名を、セレスティアは初めて聞いた。

立ち止まったセレスティアに気づいた神官長が、緩慢に振り向いた。

「ああ、来られましたか」

声に、敬意はない。七年間、彼女を「聖女様」と呼び続けた同じ口が、今朝はただ「来られましたか」とだけ発した。神官長の視線は、セレスティアの祭服の染みを、汚物でも見るように素通りする。

「そちらは――」

「新しい聖女候補、ミレイア様です」

問いを遮って、神官長が告げた。

「ウェスタロット伯爵家のご令嬢。十六歳。齢十で神託が降りられ、以後、修練院にて清らかに育てられました。本日の建国祭より、本格的に神殿の祭祀に加わっていただきます」

ミレイアは振り向き、セレスティアを見た。

その目には、嫌悪も蔑みも、まだなかった。ただ、初めて市場で売られる家畜を眺めるような、品定めの光だけがあった。少女は軽く会釈し、口元に作り込まれた微笑みを浮かべる。

「……お噂は、かねがね。第七代聖女様」

「……お初にお目にかかります」

セレスティアの喉は、乾いていた。鉄の味が、また滲む。

十で神託が降りた。修練院で清らかに育てられた。――その意味を、セレスティアの頭は冷たく噛み砕いた。十で神託が降りたならば、なぜ、この六年、自分が一人で祭壇に立たされたのか。神殿は、すでに代わりを持っていた。持っていて、なお、自分の血で石床を染めさせてきた。育ちゆく代わりの聖女の肌を、陶器のまま保つために。

神官長はミレイアの肩にそっと手を添え、セレスティアに向き直った。

「本日の式典では、ミレイア様が民の前で祝福を授けられます。あなたは、壇の下、階の端に控えなさい」

「……祈祷は」

「不要です」

即答だった。

「浄化の祈祷は、これまで通り地下で。ただし、本日からは昼のみでよろしい。夜は、ミレイア様が」

言いながら、神官長は一度、含むように口を結んだ。

「――ミレイア様が、祭祀をお試しになります」

夜の祭祀を、試す。

セレスティアの背を、筋の冷たさが駆け上がった。夜の浄化は、結界の根を維持する最も重い祈祷だ。三百二十七日、彼女が夜ごと血の糸を吐いて繋いできたものを、神託が降りたばかりの少女が「試す」と言う。

試すのではない。置き換える、の言い換えだ。

ミレイアは伏し目がちに微笑み、セレスティアに小さく頭を下げた。

「至らぬ身ではございますが、精進いたします。どうかご教示を」

その敬語の奥に、毒はなかった。ただ、自分が「置き換える側」であることを、この少女はもう知っていた。教えられていた。それだけだった。

神官たちの視線が、セレスティアの背中と、ミレイアの白い祭服を、静かに比べている。誰かが、小さく鼻を鳴らした。嗤った、のだと分かった。

「――承知いたしました」

セレスティアは頭を下げた。低頭の角度は、七年かけて身に染みた。骨が軋む音を、喉の奥で噛み殺す。爪が掌の皮を破った感触があったが、血を見られる前に拳を祭服の袖に隠した。

靴音が、回廊から聖堂に踏み込んだ。

アルベルトだった。

昨日と同じ香水。今朝は、そこに酒の残り香が混ざっている。王太子は大股で歩み寄り、ミレイアの前で初めて足を止めた。

「ミレイア。よく似合っている」

扇の先で、少女の頬に触れた。――昨日、セレスティアの顎の皮を裂いた、同じ扇の骨で。けれど今朝、欠けた端は、ミレイアの柔らかな頬を、絹を撫でるように擦った。アルベルトはその扇を、一度、唇の前でひらりと回した。婚約式の日に、セレスティアの手を取って同じ動作をした扇だった。

「今宵、祝いの宴がある。其方は、私の隣に」

「光栄に存じます、殿下」

ミレイアは目を伏せた。頬に、うっすら紅が差した。それが化粧なのか羞恥なのか、セレスティアの眼には判じ切れない。扇の下で、少女の睫毛が一度だけ震えた。慣れた震え方だった。

アルベルトはようやく、階の端に立つセレスティアへ視線を移した。

「セレスティア」

名を、久しく呼ばれていない。七年間、ほとんどを「お前」で済ませてきた男が、今朝は名を呼んだ。聖女セレスティアの名を、ミレイアに聞かせるためだけに。

「昼の式典では壇下に控えよ。そして――夜、再び祭壇に出ろ」

「……夜、で、ございますか」

「昼はミレイアが祝福を授ける。だが、浄化の試しには、お前の“立ち会い”がいる。神官長がそう申した」

神官長は、そっと目を伏せていた。頷きはしない。

「立ち会いのみ、でございますか」

「問い返すな」

扇が、閉じる音。

「――問い返すな、と言っている」

アルベルトはもう一度、低く繰り返した。その声の温度を、セレスティアは知っていた。結婚式の日、彼女に向けて誓詞を読み上げた時と、同じ声。つまり、嘘をつく時の声だった。

立ち会いなら、壇の下に控えれば足りる。夜の祭壇に「出ろ」と命じる理由はない。もしミレイアの祈祷が保たなかった時の保険ならば、それは祈祷であって立ち会いではない。――もし保険ですらなく、別の目的のための陳列ならば。

胸の奥で、鉄より硬い何かが、音もなく立ち上がった。恐怖とも違う。諦めとも違う。ただ、七年間すり減ってきた何かの最後の破片が、ようやく自分の輪郭を取り戻そうとしている感触。

「……承知、いたしました」

頭を下げる。声は震えなかった。指先の熱は、消えていなかった。

アルベルトは踵を返し、ミレイアの手を取って祭壇の中央に導いた。その背に、昨夜石床で聞いた、鎖の軋む音の続きが、かすかに響いた気がした。

式典の鐘が鳴り止んだのは、陽が傾いてからだった。

昼のあいだ、セレスティアは壇下の端に立ち続けた。民の目は、光の中のミレイアに吸われ、階の端の染みた祭服には留まらない。噂だけが、波のように耳を掠めていった。――偽聖女、だったらしい。――七年間、真の神託は隠されていたと。――血筋の卑しさが、浄化を弱めた、と。

控え室に下がる間際、若い神官が二人、柱の陰で話していた。

「夜の祭壇の、薪の量が倍だ」

「火刑でも焚く気か」

笑い声。それから、声を潜めて。

「“偽聖女の烙印”を、民の前で、だとさ」

セレスティアは足を止めなかった。止めれば、聞いていたと知られる。

地下への石段を、一段ずつ下りる。膝が軋む。指先の熱は、今、掌全体に広がっていた。石の壁に手を触れると、指の跡に、ほんの一瞬、緑が滲んで消えた。誰にも見られていない。見られてはならない。

祭壇の前で、彼女は膝をついた。祈る、ためではない。

夜まで、あと三刻。

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