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血塗れの聖女は竜帝の腕で微笑む

第1話 第1話

第1話

第1話

セレスティアの口の端から、鉄の味がひと筋こぼれた。

神殿地下、封印の祭壇。石床は氷より冷たい。擦り切れた祭服の膝は、冬三月ぶんの青痣に貼りついている。結界の光紋が天井で脈打つたび、喉の奥で細い血の糸がよじれ、石の目地に散った。

「……あと、ひと節」

声に出したのは、意識を手放さないためだ。浄化の祈祷は三百二十七日、途切れさせていない。王国全土を覆う結界を一人で支えれば、肺の薄皮が裂ける。指先からは体温が先に消える。それでも、日の出までに結界を欠けさせるわけにはいかなかった。

詠唱が最後の音節に届いた瞬間、視界が白くなった。

倒れる音は石に吸われ、誰の耳にも届かない。頬に触れた床の温度だけが、セレスティアに自分の生存を教えた。祭壇の前の皿には、冷えきった黒パンが一切れ。朝から置かれたまま、端は乾いて反り返っていた。水差しは昨日の夕刻から満ちていない。

いつものことだ。

神官たちは祭祀のための花を替えに来ても、倒れた聖女は踏んで通る。履き古された神官靴の泥が、祭服の裾に筋を引いた。一度だけ、若い見習いが水を注ごうと屈んだことがあった。翌朝、その見習いの姿は神殿から消えていた。以来、誰も視線を落とさない。

セレスティアは石に頬を預けたまま、指を動かして黒パンを引き寄せた。

鉄の味を、パンの乾いた塩気で押し流す。噛めば歯に食い込む硬さだ。噛まねば、飲み込めない。血の混じった唾を嚥下し、もう一度息を整え、彼女は再び祭壇に向かって両膝を立てた。

「……ごめんなさい。もう一度だけ、お願いします」

祈りの相手は、神ではなかった。国だ。

セレスティア・ロイエンヘルツは、王国唯一の聖女である。十二歳で神殿に召し上げられ、以来七年、地下の祭壇を離れたことがない。結界の要である浄化祈祷は、聖女の血を媒介にする。だから祭壇の石には、七年ぶんの彼女の血が染みていた。神官たちはその石を洗わない。「聖なる跡」だと言いながら、当の聖女には布一枚くれない。

祭服は十六の冬に与えられた一着を、縫い直しながら着続けている。肩の縫い目は擦り切れて、下着が透ける。冬の祭壇は、息が白い。

それでも、王国は栄えていた。北の瘴気は結界で跳ね返り、南の疫病は浄化の祈りで鎮まる。人々は豊作を「神の恵み」と呼び、神官は豊作を「神殿の功績」と記す。聖女の名は、祭祀の一覧に一行だけ書かれる。第七代聖女セレスティア、在位七年。それだけだった。

「おい。いつまで寝ている」

扉が開いたのは、祈祷が終わってどれほど経った頃か。鉄靴の音と、甘すぎる香水の匂い。アルベルト王太子の靴音を、セレスティアは呼吸を聞くより早く判別できるようになっていた。

「殿下。……お迎えに上がれず、申し訳……」

「迎えなどいらん。それより、お前の部屋を見てきた」

アルベルトは扇の先で、セレスティアの顎を持ち上げた。扇の骨の端は欠けていて、顎の皮膚に細い傷を作る。二年前、同じ扇で頬を打たれた痕は、まだ消えていない。

「また薔薇の花瓶を新しくしたそうだな」

「……花瓶は、神官長のご指示で」

「言い訳は聞いていない。祭壇にろくに奉仕もせず、自室に花を活けさせる。――寄生虫だな、お前は」

寄生虫。その言葉を、アルベルトが彼女に使うのは三度目だった。一度目は十七の春、発熱で祈祷の開始が四半刻遅れた朝。二度目は、神官長の宴席への同席を拒んだ夜。どの時も、彼女は反論しなかった。反論すれば、扇は打擲に変わると知っていた。セレスティアは扇の端を見つめたまま、指を握った。爪が掌の肉に食い込む。そうしていないと、口から別の血が流れそうだった。

「結界など、神の恵みだ。お前の祈りで保たれているなどと、本気で思っているわけではあるまい?」

「……思っておりません、殿下」

声を絞り出すたび、喉の傷口から鉄の味が滲んだ。アルベルトの香水――蜜と麝香を煮詰めたような甘ったるさ――が、祭壇の蝋と鉄の匂いを上塗りして、眩暈を誘う。扇の骨の欠けた切っ先が、顎の下で小さく震え、皮膚を浅く引っ掻いた。血の珠が首筋を伝う気配を、彼女は表情に出さないよう、瞬きさえ止めた。

「ならば、身の程を弁えろ」

扇が顎を離れ、アルベルトは踵を返した。扉が閉まる直前、彼は振り向いて言い足した。

「明日の建国祭、祭壇に出ろ。民の前に、お前を見せてやる」

扉の音が、結界の光よりも硬く響いた。

一人になった地下で、セレスティアは初めて、喉の奥ではなく胸の底で何かがこみ上げるのを感じた。笑いか、違うもの、か。

寄生虫。

自分が祈らねば、半刻で結界にほつれが出る。三日で瘴気が国境を越える。七日で東の街がひとつ、地図から消える。その数値を、彼女は神殿の古い記録から独学で割り出していた。神殿は教えてくれなかった。ただ、祈祷のたびに削られていく自分の呼吸量を測れば、それが何人ぶんの明日に換算されるか、嫌でも見えるようになっただけだ。

誰も知らない。彼女が寄生虫と呼ばれるたびに、民の誰かが明日を迎えている。

「――大丈夫。明日も、祈るから」

声が震えたのは、寒さのせいだと自分に言い聞かせた。

だがその晩、祈祷を終え石床に背を預けたセレスティアの指先に、妙な熱が宿った。

火傷のような熱ではない。甘い、けれど痺れる感覚。肌の下を、細い糸のようなものが這っている。七年間、結界の媒介として流され続けてきた自分の血が、今夜はなぜか引き返してくる。引き返して、指先に集まり、そこから外へ出たがっている。

指の先を見つめた。爪の根元がほのかに発光している――と錯覚するほど、皮膚の下が温かい。結界を張るときの、骨まで焼き切られるような鋭い熱とはまるで違う。これは、もっと静かで、もっと自分のためだけの熱だった。心臓から押し出された血が、ようやく帰る場所を見つけたように、指先で緩やかに渦を巻いている。息を吐くたび、白い霧の中に、薄紅色の粒のようなものが一瞬ちらついて消えた。

不意に、祭壇の脇、石の隙間に詰まった干からびた苔が、かすかに色を変えた。

灰色の苔が、緑に。

セレスティアは息を呑んだ。

触れた覚えはない。ただ、指先の熱が石床の苔に届いただけだ。おそるおそる、もう一度指を近づける。親指と人差し指の腹が、石の冷たさを通り越して、苔の繊維の一本一本に熱を渡していく感覚があった。灰色の粉のようだった葉の一枚が、根から芯へ緑を取り戻し、やがて縁まで染み渡る。指の腹に、ちくりと、小さな命の鼓動が返ってきた。七年、奪われる一方だった何かが、今、ほんの少しだけ、こちらへ還ってきている。

指を引いた瞬間、苔はまた灰色に戻った。けれど、石のくぼみに残った水の匂い――七年間、鉄と蝋しか匂わなかった地下に、初めて、土の匂いがした。

雨上がりの森を、彼女は知らない。神殿に召し上げられる前の記憶はあまりに遠く、母の手の温度さえ曖昧だ。それでも、この匂いが「外」のものだと、喉の奥が勝手に知っていた。瞼の裏で、見たこともない草原と、風にそよぐ麦の穂がちらついた。

試しに、祭壇の皿に残っていた黒パンのかけらに、指を触れてみる。硬く干からびた表皮が、ほんの一瞬だけ、焼きたてのようにしっとりと柔らかくなって――指を離した途端、また石のように戻った。セレスティアは自分の指を、信じられないものを見るように凝視した。七年間、この指は国を延命させるためにしか働いてこなかった。それが今、目の前の死んだものに、一瞬の命を返した。誰の許可も得ず、誰の血も捧げず。

何かが、ずれた。

それが何なのか、セレスティアにはまだ分からない。ただ、自分を縛っていた鎖のひとつが、今、微かに軋んだ音を、聞いた気がした。

翌朝、迎えに来た神官は、いつもより早かった。

「建国祭です、聖女様。――ああ、祭服はそのままで結構。民に聖女の清貧を見せるのだと、王太子殿下のご指示です」

染みだらけの祭服。洗っていない髪。こけた頬。

それらを見た神官は、わずかに口の端を歪めた。笑っていた。

セレスティアは黙って立ち上がる。膝の青痣が祭服を内側から押し、皮膚がひきつれた。指先は、まだ昨夜の熱を覚えている。

石段を登るたび、どこかで鎖が一つ、細い音を立てた。膝の骨が軋み、息が何度も途切れる。それでも、不思議と足は止まらなかった。昨夜、灰色の石に一瞬だけ返った緑の色が、瞼の裏に残っていた。指の腹には、まだ微かな熱がある。七年分の冷え切った血の中で、その一点だけが、自分のものだった。

鐘が鳴る。建国祭の鐘だ。

王都の広場では、新しい聖女候補の噂がすでに流れているという。その名を、セレスティアはまだ知らない。

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